第33話 先輩は、朴念仁もいいところです

 西暦2134年、8月10日。午前9時36分。

 朝のピークが終わって少し落ち着いた清水ベーカリーの店内で、私はさっき揚がったばかりのカレーパンを並べていました。

 こんがりと濃いきつね色に揚がった楕円形のパンからは、カレーの匂いがふんわりと漂ってきます。

 パンの中に入っているカレーあんは、店長さんの奥さんである初音さんが昨日の夜から朝まで煮込んで熟成させたものを使ってるんですよ。

 じゃが芋は賽の目状に切って、人参と玉ねぎはフードプロセッサーにかける。それらとひき肉を鍋で炒めたら、お水の代わりにブイヨンスープを入れてひと煮立ち。

 刻んだ市販のルーを入れて、お野菜がとろとろになるまで弱火で一晩じっくり煮込んで、ルーが半固形状になったら完成。

 私、工程を聞いてびっくりしちゃいました。


 バットに盛られたカレーパンを、テーブルの上の空になったバットと丸ごと交換します。このお店の人気はもちもち食感の食パンやメープルやココアを練りこんだラウンドパンですけど、総菜パンも人気なんですよ。

 スーツ姿のOLさんとか、ラケットケースを背負ったジャージ姿の学生さんとかが色んな種類の総菜パンを纏めて5、6個買っていってくれるんです。


 「よし、終わりっ! 次は――、」

 「美来ちゃん、ちょっといいかしら?」


 あと数個しかなかったくるみパンやひと口揚げパンを補充して回って、ちょっと一息つこうかなとバックヤードに行こうとしたら、更衣室から出てきた奥様の初音さんにこいこいと手招きされました。

 はて、なんでしょう?


 「美来ちゃん、明後日って暇かしら?」


 明後日ですか。サークル活動もないですし、することと言えば、最近ハマっている漫画の新刊がその辺りに出るので、買いに行こうかなーって思ってたぐらいですかね。


 「はい、暇ですよ。どうしたんですか?」

 「私の知り合いから、ご厚意にこれを頂いたんだけれどね」


 そう言って見せてきたのは、静岡にある大型の遊園地の優待券でした。初音さんが手にする1日無料と書かれたその券は、4枚ありました。

 ええっと、店長さんと、初音さんと、慶司君と、初花ちゃんの分。

 あれ?


 「えっと、ご家族で行かれないんですか?」

 「本当は行きたいんだけど、夏はうちも稼ぎ時でしょう? 特に今年の夏は新作をいくつか出す予定だし、そんな事をしてたら期限を過ぎちゃいそうで」

 「でも、1日位遊んだっていいんじゃないですか?」

 「それがね、慶司うちの子が張り切っちゃって。いっぱい働いて、私と夫の技術を継ぐんだ、ですって。なんだか、最近見た番組に影響されちゃったみたいで」

 「わあ、慶司君えらいじゃないですか!」


 困ったように言う初音さんだけれど、その顔は嬉しそうに笑っていました。事情は分かりましたよ。確かに、せっかく頂いたのに使わないなんてもったいないですしね。有効活用させてもらいましょう。


 「あはは、分かりました。じゃあ、ありがたく使わせて頂きますね!」

 「さすが、美来ちゃんは話が早くて助かるわ。お友達でも誘って行ってらっしゃいね。なんなら、そこに居る努君でもいいわ」


 そう言って、初音さんは厨房でコッペパンに切り込みを入れている先輩を指さしました。


 「な、えと。先輩は、別にその、忙しいでしょうし」

 「あら。この間、2人で新昴区にお出かけしたらしいじゃない? 随分と楽しそうだったって噂だったわよ?」

 「ひゃえっ!? どどどど、どこでそれを!?」

 「ふふ、おばさん達の情報網は凄いんだからね。2人の関係に口を挟むつもりは無いけど、最近ご近所さんでも話題になってるのよ」

 「ふぁっ!?」

 「聞きたい?」


 いやいやいや、聞きたくない聞きたくない! ……いや、やっぱり聞きたいような、でもやっぱりどうしようかな。噂って、どんな噂だろう? やけに仲がいいとか、そんな感じなのかな。

 それとも、付き合ってるとか、夫婦とか言われちゃってるのかな!

 悶々とする私に、初音さんはなんでもお見通しよと言わんばかりにウインクをすると、カフェの方に戻っていきました。うう、あれが大人の余裕って奴ですか。今の私では、到底太刀打ちできそうにありません。

 それはさて置き。

 先輩とかぁ。

 行きたいのはやまやまですけど、先輩はめんどくさがりそうだな。家で本を読んでいて方が安上がりだし、そっちの方が建設的だ、とか言っちゃいそうです。あ、でも私がどうしてもと頼めば、結局は付いて来てくれそうです。

 でもなー。先輩、朴念仁だからなー。


 「だれが朴念仁でむっつりだこの野郎」

 「そこまで言ってませんってば。――え゛、先輩!?」

 「はいはい。早坂の先輩の努さんですよっと。それで、どうした?」

 「あ、はい。実は、初音さんからこれを貰ったんですけど」


 かくかくしじかと先輩に訳を話すと、先輩はうーんと考え込みました。やっぱり先輩とは無理でしょうか。……行きたかったんだけどなぁ。先輩と。

 そう思っていると、先輩が私を見て一言。


 「行くか」


 そう言いました。


 「ふぇ? 行くって、え?」

 「だから、遊園地だよ。せっかくだし、行こうか」

 「うええっ!?」


 思わず、お店の中だというのに大きな声を出してしまいました。店長さんが何事かと顔を出しますが、先輩が上手く説明してくれて事なきを得ました。

 さすが、私の先輩です。

 じゃなくて。


 「え、本当に行くんですか?」

 「うん。なんだ、行きたくなかったのか?」

 「いえ、そうじゃないですけど。先輩の事だから、その……」

 「ああ、家で本読んでたいって言うと思ってたんだろ?」


 先輩の気分が害されてしまうのを恐れて言い淀むと、先輩は合点がいったように私が考えていたことを口に出します。

 小さく頷くと、先輩は口を開けて笑いました。

 なんですか、まったくもう。


 「本人を目の前にしてなんてことを言うんだ、この後輩ちゃんめ。まあ、早坂の思っている通りなんだけどさ」

 「じゃあ、なんで」

 「いやほら、初音さんがせっかくくれたんだしさ、楽しむのが筋ってもんだろ」

 「それはまあ、そうですけど」

 「だろ? じゃあ行こう」

 「……はい。はいっ!」


 結局、先輩に押し切られる形で私は遊園地に行くことになりました。

 それも、先輩と2人で。久しぶりに2人だけで出かけるというのに、私の脳内は喜びよりも疑問の感情の方が大きくて。


 あれ? あれれ?

 あれれぇ!?

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