第16話 後輩ちゃんは、アルバイトを始める

 西暦2134年、6月12日。午前7時15分。


 この日、俺のバイト先である清水ベーカリーさんに後輩ちゃんの姿があった。

 といっても、買い物に来た訳じゃない。

 実は、早坂が今日からここでアルバイトをすることになった。ここの店長である慶一郎さんと俺から 、このあいだ店に来た早坂にここで働いてみなあいかと直接持ち掛けた。

 というのも、ここ清水ベーカリーは小さなカフェスペースを売店の横に新たに造った。パン屋にカフェスペースを併設する構想自体は昔からあって、店長曰くここ数年の業績好調に伴ってようやく資金が貯まったのだとか。

 だが、お店を大きくするのは良いけど人手が足りない。そんな訳でこの店の常連客であり、俺と昔から付き合いのある早坂に白羽の矢がたったという訳だ。

 どうやら早坂もバイト先を探していたらしく、二つ返事で了承してくれた。

 まあ、後輩ちゃんと働くのも悪くは無いし、知っている仲なら意思疎通もスムーズにいきそうだし。こちらとしても願ったり叶ったりだ。

 やったぜ。


 「早坂さん。お着換え、終わった?」


 5ヶ月になる初花ちゃんを抱っこした初音さんが、女子更衣室の外から声を掛けている。

 扉の向こうからはーいと明るい声がして、店の制服に着替えた早坂がひょっこりと顔を出した。


 「はい、終わりました!」

 「じゃあ、入るわね。……あら、よく似合ってるわ。私の目に狂いは無かったわね」


 制服姿の早坂を見た初音さんの声色に、僅かだがはしゃいでいるような響きが混じる。初音さんはいつも穏やかで落ち着いている人だけれど、やっぱり女性が入ると嬉しいんだろう。

 ――うん。悪くないな。

 今後輩ちゃんが着ている制服は、白と茶色、2色のタータンチェックのシャツに、焦げ茶色のスカート。そして、胸のあたりに『清水ベーカリー』って文字がプリントされた白のエプロン。

 初音さんが色んなアニメやゲームに登場する服を参考にしながらデザインされたそうで、見た感じアニメかゲームに登場する美少女キャラみたいだ。初音さん曰く着心地も抜群に良いとの事で、袖を通した早坂もテンションが上がっている。

 おっと、俺も着替えないと。


 「あ。先輩、おはようございます」

 「おはよう」

 「どうです? 似合ってますか?」

 「ああ、まあ。悪くないんじゃないか?」


 俺が女子更衣室を横切って男子更衣室に入ろうとすると、初音さんと仲良く喋っていた後輩ちゃんが後ろから声を掛けてきた。ちなみに今の俺の服装は、白と藍色ボーダーシャツに、灰色のズボン。いつもお洒落なお洒落な後輩ちゃんが言うには、服装は悪くないのだがぼさぼさの黒髪と眼鏡が絶妙に台無しにしているとの事。

 やかましいわ、人のファッションセンスにいちいち口出しするんじゃあないよ。


 「こーら、努君。女の子が可愛い服着てるんだから、他にもうちょっと無いの?」


 後輩ちゃんの制服姿を見ても特にこれといった反応もなかった俺に、初音さんが苦言を呈する。

 そんな事言われてもな。ええと、そうだな。


 「え、他にですか? ――まあ、可愛いんじゃないですか」


 うわあ、恥ずかしい。人を真面目に褒める時って、なんでこんなに恥ずかしいんだろうか。

 意図せず素っ気ない言い方になってしまったが、紛れもない本心だ。そして、言われた本人は耳まで真っ赤にして俯く。そこまで照れることは無いだろうに、まったく。

 早坂の本気で照れている姿を見ていたこっちまで気恥ずかしくなってしまい、お互いに何も言えなくなってしまう。

 微妙な雰囲気になってしまった俺たちを見て、清水夫妻が同時に溜息を吐いた。


 「はいはい。いちゃつくのはいいけれど、もうそろそろお仕事の時間よ?」

 「ほら、努君も着替えてきなさい。人前でいちゃついていないで」


 やかましいわ。

 2人揃って同じ台詞を言うんじゃあないよ。それに、こちとらいちゃついてるつもりなんて微塵も無いんだ。


 「べ、別にいちゃついてなんかないですよっ! 先輩があんまり変なこと言うから、戸惑っただけです」


 ほう。お前、耳まで真っ赤にしておいてそんな事を抜かすとは。これは黙ってられぬ。


 「は? 人の渾身の誉め言葉を、変な事とのたまうか。なら、もっと褒めちぎってやろうか?」

 「止めて下さいよっ、先輩のえっち! あほ。ばか。のーたりん。万年ぼっち選手権殿堂入りの癖に!」

 「えっちでもなければ馬鹿でもない。ましてやノータリンでも……待ておい。その万年ぼっちなんたらって言うのは一体なんだ?」

 「知りませんよーだ。先輩のばか」


 後輩ちゃんはべーっと舌を出すと、更衣室からパタパタと出て行ってしまった。

 やれやれ。ムキになると子供っぽくなるのは昔から変わってない。まあ、そこが可愛かったりもするんだけれど。

 あんまり遅くなるのも悪いので、男子更衣室に入ると手早く着替える。因みに男性の制服は、茶色のシャツに黒のズボン。厨房に入る時にはエプロンを付けるが、店内にいるときはこの格好のままだ。

 この服も初音さんがデザインしたもので、胸ポケットに清水ベーカリーの名前が金の糸で刺しゅうされている。

 三角巾を被り、鏡の前で一応自分の姿を確認して、ローラーで埃や付着していた髪の毛を落とす。これでよしと。

 さあ、行こうか。

 

 店内に行くと、慶一郎さんがが早坂に指示を出していた。多分最初は掃除から始めると思うんだけど。


 「僕はこれからパンを焼くから、美来ちゃんは努君に教わってね」

 「はい、分かりました」

 「じゃあ努君、頼んだよ」

 「了解です。それじゃ早坂、先ずは店内の掃除から始めよう」

 「はい!」


 いい返事だ。

 水で絞った布巾とハンディタイプの箒をそれぞれ2つ用意し、早坂に渡す。俺は掃除用具入れにしまってある箒と塵取りを取り出して、早坂と共に店内へ。


 「まず、店内全ての棚とテーブルを小さな箒で掃いて、拭く。カウンターと中央はやっておくから、早坂は右側を頼む」

 「はい。朝に掃除するんですか?」

 「いや、閉店後も掃除する。ここで出すパンは、一定時間経つまで野ざらしのままだから。マメに掃除をしておいて、清潔にしておくんだ」

 「なるほど」


 早坂から布巾と箒を一つづつ受け取ると、まず最初に箒で埃を落としていく。それが終わったら布巾で丁寧に棚を拭いていく。特に隅は埃が溜まりやすいから、念入りに。後輩ちゃんをチラリと見ると、真剣な表情で掃除していた。あの様子なら、問題ないだろう。ちょっと丁寧すぎるかなとは思うが、しばらくすれば慣れていくだろうし。

 早坂が棚を掃除している間に、持ってきた箒と塵取りで床を掃く。毎日掃除はしているからそんなに目立った汚れは無いものの、どうしても埃や髪の毛と言ったごみは出てしまう訳で。


 集めたごみは、お店の裏にあるゴミ箱に捨てる。ここでは、ゴミ袋の中身が満杯になったら捨てるようにしている。

 再び店内に戻ると、後輩ちゃんの掃除がちょうど終わった所だった。


 「先輩、終わりました!」

 「うむ、ご苦労。じゃあ、次だ」


  後輩ちゃんと一緒に布巾と箒を片付けたら、カウンターの裏にある棚から木で編まれた平たい籠を持ってくる。これは、焼いたパンを入れるための籠で、これ1つでアンパンが10個ほど入る。それが計20個。

 棚の上には包装した食パンや総菜パンを置いていく。


 「これを全部置き終わったら、出来上がったパンをここに置いていくんだ」

 「へー。やること、結構多いんですね」

 「まあな。慣れてくると、食パンの包装をしたりとか、総菜パンを作ったりとか、発注とか色々やるんだけど」

 「わあ。じゃあ、忙しいとてんてこまいになっちゃいそうです」

 「慣れるまでは俺がついていてやるから。店長さんとか初音さんも見ていてくれるし」


 後輩ちゃんは、それなら心強いですと小さく呟く。

 確か、高校時代にスーパーマーケットでアルバイトをしていたらしいけど、ひたすらレジ打ちをしてただけだったとか。

 マニュアル通りの接客は出来るが、それ以外が不安だとのこと。初音さんからは、後輩ちゃんがこの店でしっかり働けるようになるまで、俺がお目付け役になってあげてと言われているので、暫くの間は一緒に行動する。

 尤も、言われなくても一緒にいるつもりだったけど。

 

 「そういえば、先輩?」

 「ん?」


 籠を並べながら、後輩ちゃんが唐突に疑問をぶつけてきた。


 「先輩って、なんでここをバイト先に選んだんですか? 先輩の事だから、本屋だろうなって思ってたんですけど」

 「ああ、それか。いや、本屋が良かったんだけどさ。けど、好きだけじゃ仕事って勤まらないから。だったら、俺が一切関わってこなかった分野で仕事した方が、いい経験を積めるかと思ったんだ」


 俺も、来年になったら就職活動を始めるだろう。その時までにいろんな経験を積んで、選択肢を広げておいた方が自分の為になる。

 知識と経験こそが人生を豊かにする、なんて大それたことは言わないけれど、自分の力になってくれることには間違いない。

 結局のところ、時は誰の事も待ってはくれないのだから。


 「ふーん。先輩も、色々考えているんですね」

 「色々ってなんだよ。そりゃ、考えたりはするだろうさ。早坂だって、その辺はきちんと考えていたりするんだろう?」

 「そりゃ、まあ。そうですけど」

 「煮え切らない返事だなぁ。まあ、いいけどさ。よし、並べ終わったら、そろそろパンを出そう。あとは、開店の札をだして、今日は俺と一緒にレジ打ちの練習かな」

 「はーい」


 全ての籠を所定の場所に置いた俺は、パンがずらりと並べられた番重をえっちらおっちら運び出し、後輩ちゃんに指示を出しながら店内に並べていく。

 開店の札を出してから数十分もしないうちにお客さんが入り始め、俺は早坂の隣でレジの仕様や打ち方、商品の袋詰めの仕方などを教え込んだ。

 早坂も最初は緊張からかぎこちない笑みを浮かべていたものの、午後になると慣れた様子で本来の人懐っこい笑顔で接客が出来るようになっていた。

 だが時折、遠くを見ているような、少し寂しげな眼差しをすることがあって、俺は家に帰ってからも、風呂に入っているときも、本を一冊読み終わって就寝する直前になっても、後輩ちゃんの愁いを帯びた顔が頭から離れなかった。

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