第9話 後輩ちゃんは、真面目にノートをとる方
西暦2134年、5月17日。11時32分。
俺は、本キャンパスのB棟で講義を受けていた。学んでいるのは、心理学A。法学部と文学部に心理学なぞ必要ないと思われるかもしれないが、そこはそれ。単位を稼ぐためであったり、純粋に興味があったり。俺か? まあ、単純に興味が出てきたから、だろうか。
そもそも何故、去年取らなかったのか?
答えは、あまり重要だと思わなかったからだ。友人には必要になるかもしれないと言われていたのだが、1年前の俺は法律を学ぶことに躍起になっていて、それ以外の講義を疎かにしていた。
だが、実際に学んでみると心理学というのはなかなかに面白い学問だなとは思う。シラバスを見ると、第1回のオリエンテーションから始まり、心理学の歴史や動機づけと情動、心の仕組みへと繋がっていく。
(この講義は"アタリ"だったか)
教授の解説を聞きながら、一人ごちる。
教壇に立つ鷺澤美由紀教授は、まだ30代と若いがメンタルヘルス対策について研究を進めているそれなりに偉い人、らしい。
柔らかな物腰からは想像もつかないが、人は見かけによらないものである。
そして、俺の隣では早坂が真面目にノートを取っていた。ちらりとノートを盗み見ると、後輩ちゃんらしい几帳面な文字が書きこまれている。
教授が重要だと言えば赤、教科書に赤い文字で書かれている所は黄色、それ以外で気になったところは青といった具合に。教科書にラインを引いたり直接書きこんでしまったり、ノートはメモ程度にしか書きこまない俺とは大違いである。
それにしても、だ。
後輩ちゃんの手はいつ見ても小さくて、綺麗だ。血管が浮き、僅かに日焼けしている上にペンだこまで出来ている俺とはえらい違いだ。
「……先輩、何見てるんですか?」
「ん?」
そのままじっと見つめていると、視線に気づいた後輩ちゃんが眉を寄せて、小声で俺を咎める。
まあ、真面目に講義を受けているのに、隣にいる奴がノートも碌に取らずに教授の話を聞いているだけじゃあ、不快に思うだろうな。
俺は早坂に何でもないと小声で返すと、シャーペンを手にしてノートに今日の講義のポイントを書きこんでいく。
後輩ちゃんと俺のお腹が同時になったのは、気付かないふりをした。
同年、同日。12時14分。
俺と早坂は、本キャンパス内の学食で共に昼食を取っていた。
今日の俺の昼飯は、アジフライ定食。掌をゆうに超えるサイズのアジフライが2枚に、千切りキャベツ。ほうれん草の胡麻和えに、カブと大根の味噌汁。野菜もたっぷり摂れて、お値段480円也。
向かいに座る早坂の昼食は、鶏肉と葱の和風パスタ。大きくぶつ切りにされた鶏もも肉と斜め切りにした葱を炭火で炒め、パスタと絡めて和風ソースで仕上げたという日本人の口に合うメニューだ。
俺は食べた事が無いのだが、何回か頼んでいる早坂によるとパスタの上には刻みのりがふんだんに掛けられ、シャキシャキの葱のとふわふわの鶏肉、海苔の風味が最高にマッチしているのだという。
――そんなに美味しいのなら、食べてみようかな。
そう思わせる程に、早坂は幸せそうに食べている。お値段も390円と安いし、量も予め券売機で選べるようになっているので、明日にでも頼んでみることにする。
「そう言えば、先輩?」
「なんだ、後輩ちゃん?」
「授業中、私のノートじっと見ていましたよね。あれ、なんだったんですか?」
早坂は俺が授業中に見ていた事を思い出したのか、食べる手を止めて視線を向けてくる。本当に不思議そうにしている辺り、純粋に気になっただけなんだろうなぁ。
とはいえ、ここで早坂の手が綺麗で気になった、なんて言えるわけがないし。
ううむ、ここは――。
「いや、特に意味は無い」
「嘘ですね。先輩、本当に興味ない時は寝てるかそっぽ向いてるかの二択なので」
「このやろう……」
無難な返しをしたつもりが、バッサリと否定されてしまった。一太刀の切れ味が深すぎて、もはや致命傷レベル。
それにしても、早坂は俺をよく見てる。確かに俺は、興味の持てない分野に関しては無関心だし、目にも留めない。知識は量より質だと思っているし、煩雑に余計な知識を入れて正誤の判断が曖昧になってしまうのが嫌だから。
そこまで考えた所で、ふと悟った。早坂が、ずっと俺の事を見ていてくれたことに。
早坂は、2年前俺に振られてたあの日からも、あんな醜態を晒した俺の事をずっと好きでいてくれて、こんな所まで俺を追いかけてきてくれたのか。
認識した途端、何とも言えない感情が湧き上がった。嬉しいだとか、恥ずかしいだとか、申し訳ないっていう感情も。
「……なあ、早坂」
「はい? なんですか、せんぱい?」
「その、だな」
早坂の名を呼んだのはいいものの、考えが纏まっていないうちに口を開いたものだから後が続かない。
そんな俺を訝しむこともなく、からかう事もなく、穏やかな光を宿した瞳で見返してくる。自分の感情を伝えるというのは、こんなにも恥ずかしく、もどかしく、苦しいものだっただろうか。
「手を、見ていたんだ」
「はい?」
意を決して放り出した言の葉は、喧噪にかき消されてしまったんじゃないかと思うほどにか弱くて。早坂の耳には無事届いたようだったが、肝心の本人は何だか分からない、という風な顔をしている。
こいつ、分かってないな。俺がこんなに緊張しているというのに、涼しい顔しやがって。
ああ、なんだか恥ずかしいとかどうでもよくなってきた。一度吹っ切れてしまったら、もうどうにも止まらなくて。
「だから、早坂の手が綺麗だったから、見ていたんだ」
「はぁ、私の手ですか。――って、ええ!?」
「そんな驚くことじゃないだろ。俺の手と比較してもずっと白いし、きちんと手入れもしているみたいだし、綺麗だと思うぞ?」
「すとっぷ、すとっぷです先輩。あのえっと、もう分かりましたから!」
「まあ黙って聞けって。小さい手であんまり力入ってなさそうなのに、綺麗な字を書くんだなって感心してたんだ」
「う~っ! 誰かーっ、今日の先輩が変ですよーっ!」
慌てた様子で俺の口を閉じようと伸ばしてくる後輩ちゃんの手を引っ掴んで、力で押さえつける。
羞恥で涙目になっている後輩ちゃんを見ていると、嗜虐心が首をもたげてくる。
……やべ、止まらんかもしれん。
3限前で僅かに利用数が減った学食に、顔を真っ赤にした後輩ちゃんの悲鳴が響き渡った。
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