5 永別

 時計の針は進み、水無月が来る。


 その日は朝から一足早く夏が来たような陽気だった。


 目覚めた時にはすでにずいぶんと蒸し暑く、薄手のシャツを選ぶ。


 支度を済ませて庭に出ると、木陰には涼を求めてどこからか入り込んだ猫がくつろいでいた。

 僕は猫を起こさないように注意を払いながら、庭に咲く花を手折り、その足で街へ出た。


 そして、用もないパン屋や古本屋に立ち寄り、多くの時間を無為に過ごし、さんざ迷った挙句にとうとう港へとたどり着いてしまう。


 ここへ来た理由はひとつだった。ミセス・スミスが、今日この場所から日本を発つためである。


 昨夜、改めてグランドホテルへ赴いた際、僕は留守にしていた彼女の代わりに受付の人間からそう知らされていた。


 余命宣告がたしかならば、これが最後の機会になる。それゆえに僕は来た。


 とはいえ、やはり気乗りはしないのは事実だ。

 だが、それでも僕は先日の社交室での別れを永の別れにできるほど、意地っ張りな子供でもない。自らの余命を認め、海を渡ってやってきた女性の真摯な言葉を、無碍にするのは好ましくはなかった。


 だから、今一度会いにきたのだ。

 その結果、僕がふたたび後悔するとしても、それは自ら負うべき責任だった。むしろ、その責任と後悔すらもきっと抱えて生きていける。そう思えたのは、おそらく琴子くんのおかげだろう。


 海の果てに、入道雲が立ち上る。

 皮膚に焼きつく陽射しは、潮の香りに染まっていた。


 周囲には、寄港した汽船に乗る多くの外国人や、留学生の姿が溢れている。


「……ミセス・スミス」


 かつては僕も混ざった人だかりのなかに、ついに彼女の姿を見出す。

 モスグリーンのドレスに身を包み、白いパラソルをさしていた彼女は、僕の呼びかけにゆるりと振り向くと、船に背を向け目を丸くした。


「ユキチカ? なぜ、ここに」

「……これを、貴女に。僕からの餞別です。もらいっぱなしというのは癪なので、どうぞ持って行ってください」


 差し出したのは、朝方手折った柘榴の花だった。

 果実の印象が強いが、ちょうど今時分に見ごろを迎える花である。橙色の薄い花弁が特徴の花のついた枝を、彼女の白魚の指が受け取った。


「……愚かしい私に、似合いの花ね」

「そう思いますか」

「思うわ。今となっては、わたしにもわからないのだもの。なぜ、あなたを苦しめると知りながら日本に来てしまったのか。謝りたかったのか、ただ、会いたかったのか……。いずれにせよ、自分勝手で傲慢な女だという一点においては間違いはないでしょう」


 彼女は夏告げの花に赤い唇を寄せて囁いた。


 柘榴の花は「高慢」や「不遜」の花言葉を持つ。本来ならば、人に贈るには不向きなものだろう。

 それでも、僕はこの花を贈らなければならなかった。


「ご存知かどうか知りませんが、貴女が僕に渡したガーネットは、この国では柘榴石と呼ばれています」

「そう。ラテン語では、種子を意味するわね。柘榴の実に重ねて見るのは、どこの国も同じなのかしら」


 だが、石は実ではない。鉱石だ。当然、枯れて腐るということを知らない。

 ……半永久的に、朽ちることもない。人の生涯など、石のそれに比べたらほんのひと時の夢だろう。


「あの柘榴石は、たしかに僕がもらい受けました。すでに貴女にはなんの関わりもないものだ。だから、あの石の代わりにこの花を貴女に返します。持って行ってください。そして……、この花が枯れたら、もう僕のことは忘れていい」


 花は萎れ、枯れるだろう。たった数日の後に。


「貴女の残りの人生のすべてなど、僕は望まない。せめて、ほんのわずかでも僕のことを頭の片隅にでも置いてくれたら……」


 慕わしい言葉も、家族の温もりも、もう望まない。

 僕はとうに母を恋い慕う子供ではなくなっている。だから、この女性が遠い海を越えてこの国まで会いに来てくれただけでもうじゅうぶんだった。


「……貴女は僕を忘れて。そして、どうか幸せに」


 正午。夕日色の花が風にそよぐ。母の手のなかで。


 今なら、あの日ニア・ソーリーでは見送れなかった夕日も追えるような気がした。


 だが、あの太陽はすでに焼け落ちたのだ。


 時はうつろい、花は散るものである。永遠など、この世のどこにもありはしない。瞬く合間にたなごころから零れ落ちる時の欠片を、誰もが拾い集める術を持たず、失い続けるばかり。

 まるで一日花のように儚く、だからこそ愛おしい日々を、夢を、命のすべてを。

 僕は時の無常の流れを改めて痛感した。


「ユキチカ」


 彼女はなにかを言いかけて口を開き、そして閉じる。


 それは口にしてはならない言葉だったのかもしれない。飲み込んだ言葉の代わりを探すように、彼女は一瞬、どこか遠くを見た。


 そうして微笑む。


「あなたも、幸せになりなさい」


 自分の幸せはもう祈らない。願ったところで、叶わない。それを知っていた。

 それでも――、いとけない幸せを祈る言葉を跳ねのけるほど僕らは不器用でもなかったらしい。

 せめてこんな世の中にあっては、誰であれ、最期の眠りくらいは穏やかで幸福に満ち溢れていられるのを祈るだけだ。


「せいぜい肝に命じますよ」

「そうなさいな。私も朝な夕なに願いますから。許されるのなら、私のこの命が続く限り、……あなたの幸せを」


 彼女は笑みを浮かべ、僕の言葉をやわらかく拒絶した。まるで匂やかな花のように芯のある声だった。


「ありがとう。貴女に感謝します、…………母さん」

「それは私の言葉です。ユキチカ、ありがとう。あなたに会えてよかった」

「……ですがこれきり、もう会うこともないでしょう。僕も、二度と貴女を追いかけないから」


 潮騒に瞼を閉じる。絶え間なく押し寄せる波が、在りし日ごと今この瞬間すら、どこか遠い場所へ流していく。


「僕は貴女を許す。この国で、……貴女の幸せを願っている。ずっと」

「もう幸せですよ。あなたのおかげで」


 彼女は、気づいただろうか。

 柘榴の花に込めた僕の想いに。


 柘榴の花言葉は「不遜」や「高慢」だけではない。

 「成熟した美」。それこそ、この女性にふさわしいのだと僕は信じたかった。


「さよなら」


 汽笛が鳴り響く。別れの時間が迫り、彼女は晴れやかな笑みを浮かべて船に乗り込んだ。

 死へと向かう足取りには思えない、軽やかな歩みで彼女は去りゆく。潮風が美しい金の髪を青空になびかせ、きらめかせた。


 言葉は互いに尽きた。


 やがて動き出した船が、白い波を立てて水平線の彼方に溶けて消えていく。


 その陰すら見えなくなっても、僕は長い間、その場に立ち尽くしていた。


 奇跡だったのだと思う。こうして、横浜で偶然に出会えたのは神の計らった巡り合わせだと信じかねないほどには。


(神など信じてはいなかったが、今ばかりは感謝したい気分だ)


 長年胸のうちに刺さり続けていた棘がようやく取れたような心地だった。


 ひとり笑い、僕は顔を上げた。

 帰らなければならない。心配しているだろう、琴子くんのもとへ。


 その前に今一度、午後の横浜の街を見渡した。


 親子連れや、車夫がひっきりなしに行きかう海岸通り。明るく賑わう景色を行く誰もが、いつかは愛別離苦を味わうのだろう。


 その多くが突然訪れる。それならば、後悔をしないためにも愛する人には言葉を尽くしておくべきなのかもしれない。


 兄と死に別れた夜、あんなにもささやかな会話が僕たちの最後になるとは思ってもみなかった。

 母と別れたあの夕暮れ、こうして再び出会い、こんなにも晴れやかな気持ちで永別しようとは考えもしなかった。


 いつだって、人生はままならず想像もできない出来事ばかりが連なっている。


(琴子くんと別れる日も、そうだろうか)


 それがいつになるか、今の僕に知るすべはない。


(だが、いつかは必ず彼女との永の別れが訪れるだろう)


 誰もが失いながら生きていくのなら、いつかの後悔をなくすために行動すべき時と常に向き合わねばならない。

 それならなお、言葉を尽くしたいと思った。想いが欠けたままに別れるのは、あまりにも虚しいだろうから。


 彼女はいつでも僕に寄り添ってくれた。そんな彼女に向き合いもせず、僕は今も無理に縛りつけ尊厳を踏みにじっている。

 母の話をした時でさえも、彼女に抱く本音は告げられずじまいだった。


(すべて、話すべきだろうか。愛していると、……言うべきだろうか)


 それは僕の自己満足だと思っていた。

 だが、すべてを話し、彼女の望みを聞かなければならない時が来ているのかもしれない。


 琴子くんが望むのなら、自由にしてやらなければならない日が。


 悩みはつきない。懊悩しながらついた帰路の道中、僕はただ彼女を想った。

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