4 いつか誰もが会えなくなるのなら
ミシェルを尋ねるのだと自分に言い訳をしながらやってきたグランドホテルのエントランスで、僕が探したのは女性の姿だった。僕と同じ青い目を持った異国人。この国で、かつて僕を生んだ人。
いったいなんのために彼女を探すのだろう。自分でも曖昧模糊とした胸のうちに戸惑いながら、二の足を踏む。
迷いだ。戯れだ。わかっているのに、踵を返せない。
(馬鹿だ)
彼女に会ったところで、得るものといえば二度目の後悔くらいのものだ。それがわかりきっているのに、なにをためらっているのか。
おそらく、僕が前に進み、過去を切り捨てるためにも必要な儀式だとも思っていたためだ。
このままでは僕の心は永劫、ミセス・スミスに囚われる。それだけは到底、歓迎できなかった。たとえ後悔しようと、踏ん切りをつけるべきだった。
なにより昨夜、僕に後悔してほしくないと言った琴子くんのまどかな声音が震えたのが気にかかっていた。……結局は、それも言い訳に過ぎなかったのかもしれないが。
「ミスター、なにかお困りでしたらお伺いしますが」
通り過ぎる異人を幾人を見送っている僕に、受付から声がかけられた。僕は鉛にでも変わったかと思うほど重い口を開く。
「ミセス・スミスに片桐水哉が会いに来たと取次ぎを」
この期に及んで彼女が留守であればいい。いっそ、このホテルにもう滞在していなければいいなどと願った。
だが、僕はすぐさま彼女の待つという社交室へ案内されてしまった。
扉をくぐると、絢爛豪華な内装が広がっている。朱色のカーペットとヴェネツィア産のシャンデリアが特徴の部屋らしい。艶めいた花梨の腰壁の上に塗りこめられた白い漆喰には、横浜の景色を描いた油絵が幾枚も飾られていた。
ミセス・スミスは海が一望できるベランダですでに僕を待っていた。
彼女は椅子に深く腰掛けて、こちらに背を向けたまま水平線の彼方に視線を泳がせる。
結い上げた金髪の、ほつれた一筋が潮風になびいていた。
やがて僕に気づいた彼女が立ち上がり、口元をほころばせる。
「ユキチカ、よく来てくれました。ここに座ってちょうだい。そうだわ、お腹は空いていない? なにか食べる? 飲み物は紅茶がいいかしら。それとも緑茶……」
「結構です。それよりも、用件を」
冷え切った場を取り繕うように話す彼女の言葉を、僕は遮った。
「そうね、あなたも忙しいでしょうから……。椅子は自由に使いなさい」
彼女はため息をついて席に戻る。気だるげにひじ掛けに持たれ、それからゆるりと額を抑えた。
「……ごめんなさいね。用件といっても、あなたと話したかった。それだけなのよ。私は、あなたに謝らなければとその一心でこの国へ戻りました」
「今更、謝罪など結構ですよ。あのガーネットはまさか、詫びの品のおつもりですか」
「ああ……、あの女の子が渡してくれたのね? あの少女はあなたの妻なの?」
「ミセス・スミス。僕は無駄話をするために来たわけではないんですよ」
きっぱりと告げるとミセス・スミスは泪ぐみ、力なく項垂れた。
痩せた肩が震え、僕は目を逸らす。石を飲んだように喉が詰まって二の句が継げなくなった。
恨めしく思ってきたはずだった。それなのに、未だ嫌悪しきれていない。実際に彼女の打ちひしがれた姿を目の当たりにすると、胸がきしんだ。ともすれば伸ばしそうになる手を握り締める。
「……わかっていますとも。私は、あなたを幾度となく深く傷つけましたね。幼いあなたのそばにいられなかった。英国まで会いに来てくれたあなたに心無い言葉をかけた。それでも、あの石をあなたに受け継いでほしい。……あのガーネットはあなたの誕生石です。あなたのお父さまにわたしが強請っていただいたもの。ずっと持っていたけれど……、あなたにもらってほしいのよ」
「……なぜ?」
「あなたに持っていてもらいたいだけ。けれど、これ以上の我儘は言えません。あなたのものになったからには、好きになさい。売れば少しはお金になるでしょうから。その程度では詫びにもならないでしょうが……」
なぜ、今になって彼女がそんな風に言うのかさっぱり理解できなかった。
歯切れの悪い物言いに僕が訝しげな顔をしたのを見て取ってか、彼女は深くため息をつく。
「……餞別ですよ。これきり、きっともう二度と会うこともないのですから」
その言葉の意味するところをすべて理解できたわけではない。それでも頭に血が上るには十分だった。
「つまりあなたは、また僕を捨てると言うのか? あなたは、それを告げるためだけにわざわざ日本まで会いに来たのか。僕に一方的な別れを告げて、あなただけが気を晴らすために?」
「それは違うわ!」
「いったいなにが違うと?」
零れたのは、苦い笑みだった。生母に愛されていないと知りながら、もはや吐くべき恨み言も見つけられず、ただ胸がうずく。
「なぜ……あなたは僕を生んだんだ。厭うなら、捨てるのなら、初めから生まなければよかったのに」
なぜ、会いに来たのか。
顔を合わせなければ、僕は平穏に暮らせたはずだった。すべて過ぎた話だと流れに身を委ね、忘れられたのに。忘れられたはずだったのに!
それなのに、彼女は僕の前に姿を現した。おかげで、僕は濁流のように荒れて濁った心に翻弄される羽目になっている。
彼女は、ただ憐れむように僕を見た。そのまなざしすら、僕を苦しめると知りもせずに。
「あなたを生んだのは、恋をしたからよ。私は、あの人に妻がいたのを知らずに愛してしまった……。あなたも愛していたわ。生まれてくる日を指折り数えていたの。会える日を、心底楽しみにしていた」
潮風が吹く。胸に深く吸い込んだそれは涙の味がした。
「あなたはもう子供ではないから、正直に言いましょう。私は本気であの人を愛していましたよ。この国で生きていこうと覚悟も決めていた。だけど、あの人にとっては私は火遊びだったのでしょう。家庭があったなんて、教えてもらえなかった。すべて知ったのは、あなたを生んだあと。教えてくれたのは、あの人の細君だった。幼く、高慢な私にはそれが我慢ならなかったのよ」
全てから逃げ出すようにひとり、英国へ戻った。長い月日になだめられ、抱いた傷も癒えようという頃。
新しい家族と平穏な暮らしを営み始めていたところへ僕が姿を現した。
幸せに割り込む異端分子に彼女は怯えた。ようやく築き上げた幸せが壊れるのを恐れ、僕を拒絶した。かつて父を捨てたように、今度は息子も捨てたのだ。
「貴女は今でも高慢だ」
思わず、吐き捨てていた。
なぜなら彼女はわざわざ過去を蒸し返し、表向きの謝罪を口にして、自分だけが楽になろうとしている。僕はそれにつき合わされているだけだと思ったからだ。
高慢で幼かったなどと知ったような口を利いてはいるが、未だその性分が過去のものにはなっていないのだと彼女は気づいていない。それが僕にはたまらなかった。
「自己満足に僕を使うのはよしていただきたい。貴女の言うとおり、これきりです。もう二度とお目にかからないことを祈ります」
言い切るなり、帰路に向けて足を踏み出す。
「待って、ユキチカ!」
椅子から飛び上がった彼女が僕の腕をつかんだのを振り切って、出口に向かった。
その背に、震える声が届く。
「そうじゃない、そうじゃないのよ……!」
「では、なにが違うと言うんだ!」
激情に任せて声を荒げる。
怒りに分別を失くし、さらに口にしかけた暴言を飲み込んだ。
それは決して僕が理性的だったからではない。
ただ、彼女が胸をえぐられたように打ちひしがれた面持ちで唇を噛んだからだ。
傷をつけたのは、胸をえぐったのは僕だ。だからこそ、途方に暮れて言葉の接ぎ穂を見失った。なぜ、そんな顔をされたのかわからない。
そして、直後の彼女の言葉で今度は僕も同じ顔になったはずだった。
「私はもう長くないの。余命を告げられたわ。癌なのよ。この身体は冬を越せない。だから、最後に……っ」
ミセス・スミスはなにかを言いかけ、その言葉を飲み込んだ。
その時、かき乱された心で思い出したのは琴子くんの言葉だった。
『海を越えて所在も知れない方に会いにいらっしゃるなんてきっととても覚悟がおありです』
この女性は、最期の時を使って僕に会いに来た。
その可能性に僕は目を逸らした。そんなはずはないと思わねばならなかった。彼女が僕を想っているはずはない。身勝手さに振り回された恨みを晴らすためにも、許してはならなかった。
だが、英国から日本への渡航がどれだけ労苦の多いものか、僕は知っていた。
残された時間がはっきりしているひとが、感心のない相手のために限りある日々を使うとも思えなかった。彼女は自暴自棄になっているようには見えなかったから、なおさら。
それなら、このひとはあるいは僕にひとかけら程度の愛情は抱いていたのではないだろうか?
そんな思いが
(いや、わからない、もう……なにが真実かなど僕には……)
嗚咽する彼女を部屋に残し、僕は逃げるようにホテルを出た。
山下の街並みを足早に通り過ぎ、家路につく。
そして、玄関の前で立ち尽くしていた琴子くんに迎え入れられた。
「……なにをしていたんだい? こんな場所にひとりで過ごすのは感心しないな」
この少女はつい先日、女衒にさらわれかけたばかりだ。門の内側とはいえ、安心はできない。
僕は彼女の華奢な肩に触れて、家へ入るよう促した。だが、彼女はその場にとどまり僕を見上げる。
「その……そろそろ水哉さんがお帰りかと思って、お迎えに行こうかどうしようか悩んでいたんです」
「迎えはいらないさ、道を覚えられない幼子でもないんだからね」
「水哉さんが大人なのはわかってます。だけど、心配で……」
出かける際、僕は彼女に行き先を告げなかった。それでも、どこで何をしてきたのかを琴子くんには見透かされていたらしい。
「大丈夫ですか?」
僕を見上げる、温かな瞳にささくれた心が凪いでいく。
だから、僕は努めて落ち着いて言葉を選んだ。
「無論だとも。母の、……余命は後一年だと言われただけだ」
「そうでしたか……。それは……」
彼女は口を閉ざす。なにを言うべきかわからなかったのだろう。
仕方がない。僕自身、考えがまとまらないのだから、なおさら琴子くんにも理解しがたいはずだ。
母と呼ぶべき女性を、僕はずっと憎んでいたはずだった。彼女の余命の報せに快哉を叫べるはずだった。だが、今はただむなしく、わびしい気分だった。僕は視線を落とし、そんな胸のうちをさらけ出す。
「正直、拍子抜けしたよ。ずっと彼女を恨み、呪い、無きものとして扱ってきたはずなのに……。今はもうわからないんだ。僕は、あの人に死んでほしかったわけじゃないのかもしれない」
「それはおかしなことじゃないです。だって、お母さまですもの」
「母だから、というのは理由にはならないよ。あのひとは僕にとって不純物だった。知っているかい? 宝石の不純物はそのものの価値を落とすんだ。だから、僕は彼女のすべてを削り取ってなかったことにしたかったんだよ。なにもなかったような顔をして、一人前の人間のふりをして、生きようとしたはずだった。それなのに、どういうわけか頭にこびりついたみたいにあのひとの気配が離れてくれない……」
ついに黙り込んで、片手で顔を覆う。
僕らの間に静謐が満ちたのは、ほんのわずかな時間だった。
「それならきっと、水哉さんの人生は琥珀なんだわ」
そのゆかしい囁きを口にして、琴子くんは僕の手をとって微笑んだ。
「昔……、初めてお目にかかった時に私、お父さまにいただいた琥珀糖を琥珀と言って水哉さんに差し上げたでしょう? 覚えてらっしゃる? あの時、水哉さんがお菓子だって言って食べてしまって、私もちゃんと調べたの。宝石の琥珀について。そうしたら、本には琥珀は内放物があるほど価値があると書いてあったんです。だから、きっと人の人生は琥珀みたいなものなんじゃないでしょうか。いろいろな出来事があって、抱え込んでいくうちに、いつかきっと全部が大切で価値のある思い出になっていくんだって……私は思います」
弱々しい初夏の風が吹き、庭に咲く花と戯れる。
「そうかな」
「そうです。お母さまは、水哉さんに会いに日本までいらっしゃったんでしょう?」
「別れを告げるためだけにね」
白い蝶が風に遊ばれ、坂の向こう、海のほうへと飛んでいった。その軽やかな姿が、ついに水平線のきらめきに溶けて消える。
僕はどういうわけかひどく切なくなって、彼女の手を固く握り返した。
「……約束してくれないかい。君は、……僕のそばにいると」
「います。水哉さんが望んでくれる限り、ずっと」
ふわりと花が咲いたように笑いかけられる。
「なかに戻ったら、お紅茶をお淹れします。お砂糖をたっぷり入れましょう」
「……珍しいね、君が砂糖を増量してくれるとは。今日は吉日だったかい?」
「いいえ。だけど、たまにはいいでしょう?」
初夏の光を浴びた少女の微笑。仮に人の一生が琥珀と同じであるのなら、その笑みこそ永劫に留めおきたいと僕はひとえに願った。
僕は未だ形ない言葉になど、価値を見出せずにいる。
それでも、矛盾を内包する僕にとって彼女の言葉はたしかに寄る辺だった。
矛盾を内包したまま、僕は彼女に続いて家のなかへと帰り着いたのだった。
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