3 赤い宝石

 わずかに開いた窓から吹き込む風が、レースのカーテン越しに部屋に差し込む日差しを揺らす。

 部屋の白い壁にかけられた時計の短針は五時半ばを示していた。


(もう、朝……)


 わたしは重い頭をかかえて起き上がった。横になってはいたものの、結局眠りにはつけずじまいだったおかげで、かすかな頭痛が残っている。


 眠れなかったのは、昨夜彼が話して聞かせてくれた話が頭から離れなかったためだ。

 彼の語って聞かせてくれた半生、孤独のなか寄り添ってくれたお兄さまと遠い英国で別れたお母さまのお話。

 物悲しくて、さみしくて、当時、彼のそばにいられたらとどれほど悔しがったか。


 だけど、それでもやっぱり、過去は変えられないのだった。



「あ……、おはようございます」


 わたしが朝の支度を整えて居間に降りていくと、水哉さんももう起きていた。

 二日酔いなのか、新聞を片手に空いた手で額を押さえてソファに沈んでいらっしゃる。


 飲み干した一瓶ぶんの葡萄酒がまだ残っているのかもしれない。

 昨夜の彼は話し終わるなり黙り込んで、ついには寝入ってしまった。

 もともとお酒に弱い人だ。だから、あの秘密を打ち明けた時間を覚えていない……、あるいは、夢だと思っている可能性だってあった。


 それなら、わたしはどう声をかけるべきか。

 黙っているのはずるいけれど、話をぶり返すのもなんだか申し訳なくて。わたしは悩んだまま、いつもどおりの朝の挨拶のため彼に近づいた。


 隣に立って、そっと顔を覗き込む。彼は貝殻のように閉じたまぶたをゆるりと開いた。


「ああ……、おはよう、琴子くん。よく眠れたかい?」

「ええ……」


 本音を言えば、あまり眠れなかった。あれこれ考えている間に朝が来てしまったから。

 顔を洗って鏡で確認した時にはいつもどおりと思ったけれど、水哉さんはわたしの寝不足を見透かしているようだった。


「今日は女学校も休みだろう。たまには朝寝をしたらどうだい。二度寝も存外悪くない」

「そうですね。でも、もう目が冴えちゃってますから。今、お茶をお持ちしますから、そのままお待ちになって」


 昔、花街で芸者さんたちが二日酔いには梅干しと言っていたのを思い出して、提案する。今年の我が家の梅仕事はまだ仕上がっていないけれど、買ってきた白千梅があったはずだ。


 結局、昨夜の件について切り出せないままわたしは台所に引っ込んだ。


 お湯を沸かしてお茶を淹れる。余ったお湯は魔法瓶へ移しておいた。水哉さん用にあらかじめはちみつやみりんで味を調えておいた梅干しを豆皿に三つ乗せて居間に戻る。


「どうぞ、熱いのでお気をつけて」


 お茶を受け取り、水哉さんは淡い困惑の滲む瞳で私を見た。


「ありがとう。ときに君、……昨夜、たしかに僕の部屋に来たね?」


 ぎくりとわたしは肩を揺らした。その話をする心の準備はまだできていない。


「お……、覚えていらっしゃったんですか?」

「あいにく、醜態は忘れられない性質でね。夢だと思いたかったが、証拠のガーネットと君の手紙が部屋にあっては空っとぼけてもいられやしない……」


 そうだった! わたしが彼の部屋に手紙とペンダントを置いていったのだった。これでは水哉さんも夢だなどと思えるはずもなく、昨夜の内緒話を認めざるをえなかっただろう。

 わたしはわずかな申し訳なさを抱いたまま、おずおずと答えた。


「その……、ごめんなさい。勝手にお部屋に入ったりして」

「構わない。むしろ、……僕がつまらない昔話を長々とした件について詫びるべきだね」


 それから水哉さんは一度口を閉じて、「互いに、忘れてしまおう」と言った。


「毒にも薬にもならない 瑣事だ。覚えていて得などしまい。せいぜい、記憶を圧迫する程度さ」

「いいえ……いいえ、忘れられません。わたし……、もしわたしにも背負わせてくれるのなら聞かせてくださいと申し上げたんですから」


 こればっかりは退くわけにいかなかった。

 強情を張る私に、水哉さんは無言でお茶を飲みくだす。


 水哉さんは重大な秘密を話してくれた。

 けれど、わたしは彼が傷ついた日にそばにいられなかった。もっと早く出会っていたならと唇を噛むほか、できやしなかった。

 在りし日の彼のために今のわたしにできることはない。だけど、それならせめてわたしにも背負わせてほしいと思う。

 水哉さんの悲しみも、傷をつけた言葉も。

 いつか彼が癒されて、その胸の傷がすっかり消える時まで、と。


 それきり、水哉さんは黙り込む。

 そして、――隠しておいたはずなのに、いつの間にか取り戻されていた――テーブルの上のシュガーポッドに手を伸ばす。なので、わたしは先にポッドを回収した。


「そちらの梅干しにもうお砂糖は入ってます」

「……あと一匙ばかり足しても大して変わらないと思うんだが」

「変わらないのならそのままでもいいでしょう? お砂糖の使い過ぎは毒でしてよ」


 水哉さんはしぶしぶといったようすではちみつ梅に口をつけた。その横顔は、なんだかバツが悪そうだ。


 おそらく、この人は過去をわたしに話すつもりがなかったに違いない。お母さまにお会いして、かつての傷を思い出して、揺さぶられ、酔いに身を任せていなければ、きっと。

 間違いなく、水哉さんにとってはニア・ソーリーでの事件は唾棄すべき過去だった。

 にもかかわらず、それは同時に誰にも触れられないように隠しておきたい思い出でもあったのだ。すべてはひとえにお兄さまの存在あってこそだろう。


 わたしに彼のお兄さまの代わりが務まるとは思えない。だけど、せめてこれからは寄り添いたいと願うわたしに、水哉さんは眉根を寄せて言った。


「あのガーネットだが、君も困るだろうから受け取ろう。とはいえ、僕には無用の長物だからね。そうそうに処分させてもらうが」

「……本当にそれでよろしいんですか?」


 水哉さんはまだ、お母さまに複雑な想いを抱いている。それは当然だろう。到底、水に流せるような記憶ではないのだから。

 だけど、捨ててしまっていいのか。

 わたしはざわめく胸をそのままに、その真意を探るように彼を見つめた。


「構わないよ。あのひともこんな男に今更、なんの用があったのやら」

「……きっと、なにか大切なお話があったのじゃないかしら」


 差し出がましいと知りながら、口を閉じられない。

 きっと、グランドホテルで見た彼女の顔が悲痛に歪んでいたせいでもあるのだろう。見ず知らずの人ではあったけれど、気まぐれで浮かべられる表情ではなかったのはたしかだった。


「水哉さんを探していたとおっしゃっていたでしょう? 海を越えて所在も知れない方に会いにいらっしゃるなんてきっととても覚悟がおありです」


 かつて、水哉さんも同じ志を抱いて海を越えたように。


「ガーネットをお贈りしたかったのにも、意味があるんじゃないでしょうか」

「ヒヤシンスの石にかけた言葉遊びのような? ほとんど初対面のような相手に、そんな回りくどい真似をするとは思えないね」


 水哉さんは鼻で笑ったけれど、わたしはどうにもあのペンダントを贈られた意味が気にかかってしょうがない。

 大切な人に指輪を贈ったロレーヌさんや、頼子さんの妹。母さまが残してくれたぶどう石。水哉さんがくださる指輪や帯どめ。

 赤の他人にはしないこと。贈り物には親愛の情が込められていると信じたいのは自分本位な考えだろうか。


「琴子くん、君も知ってのとおり、人のすることすべてに意味があるわけではないよ。元来、思いつきや、気まぐれのほうが多い」

「そう、かもしれません。だけど、それを確かめるためにも……、本当に一度もちゃんとお話をしなくてよろしいんですか? 後悔なさいませんか?」


 わたしは、会えなくなる前にお話しを聞いたほうがいい気がする。

 今は亡き母さまと話したいことがたくさんあった。今も、それは積もり積もって増えていくばかり。水哉さんと出会ったり、彼に恋したり、聞いてほしい話はたくさんあるのに、もう遅いのだ。

 だけど、水哉さんはまだ間に合うのではないかと思う。言葉を交わせる限り、いくらでも向き合えるのだと。


 じっと見つめ続けるわたしに、水哉さんは苦笑し頬肘をついた。


「……君もミシェルのようなことを言う」

「水哉さんに、後悔してほしくないんです。こうして出会えたのも、きっとなにかの縁ですもの。その出会いに意味を見出したくなってしまうのは、感傷的になっているからかもしれませんね」

「わかるよ」


 窓から柔らかな風が吹き込む。

 それきり、水哉さんは物思いに沈むように黙り込み、庭の花を眺めだしたのだった。

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