2 寝物語
「水哉さん。……水哉さん、どうなさったの?」
グランドホテルから帰宅した後も、水哉さんは険しい顔のままだった。
後を追いかけてわけを尋ねるも、わたしは具体的な質問をしかねていた。
彼の動揺が、あの女性と出会ったことに起因しているのは明白だ。それがわかったからといって、この件にどこまでわたしが関与してよいものかの判断はつかずじまいだったからだ。
「琴子くん、すまないが……」
家に帰り着いてすぐわたしを振り返った彼の瞳には、もう嫌悪は滲んでいない。
それでも、一緒に暮らし始めてから初めて見るほどに張り詰めた雰囲気は、削げ落ちないのだった。
「……少し気分が悪いんだ。僕はもう休むから、君も部屋に戻りなさい」
「なにか、温かい飲み物をお持ちしますか?」
感情を押し殺しているのがわかる、皮膚を刺すような冷淡な声色。今は構われたくないのだろう。
そう察しながらも放っておけなかったのは、彼の横顔に一抹の物悲しさを感じ取ってしまったせいかもしれない。
「紅茶か……、はちみつをたっぷりいれたホットミルクとか。朝届いた牛乳がまだ残っていますから」
「いいや。大丈夫だよ。だが、君はお茶でも紅茶でもなにか温かいものを飲んでから休むのがいいかもしれないね。だいぶ暖かくなってきたが、まだ夜分は冷える。風邪をひかないように気をつけたまえよ」
「はい……」
けれども、結局こちらが気遣われてしまう体たらく。
部屋に戻るため、暗い二階への階段を上っていった水哉さんをわたしは意気消沈しつつ見送った。
それからひとまず居間に入る。わたしが落ち込んでいてはだめだ。言われたとおりに、お茶を飲んで気を取り直そうと茶筒を手に取る。
しかし結局、気を取り直すどころか、わたしの頭のなかは水哉さんでいっぱいだった。お湯を沸かして慣れた手順でお茶の準備をしながらも、つい先ほどの出来事が頭から離れてくれない。
(あの女の人は、もしかしたら……)
青く澄んだ美しい瞳を思い出す。
それは、彼の目とよく似ていた。
そして、英語。水哉さんは英国に由縁のある方だと聞き知っている。彼女と彼のただならぬ雰囲気もまた、かつては深い関係にあったのを示していたようだった。
やがて思い浮かんだひとつの可能性を、淹れたての熱いお茶と一緒に飲み干す。
ぼんやりすること、四半刻ほど。
(だめだわ。忘れないと。水哉さんが言いたくないのなら、……わたしが詮索するのもおかしなことだもの)
その代わり、いつか話してくれる日が来たのなら。ちゃんと目を逸らさずに聞きたかった。
それくらいしか、わたしにはできないのだから。
けれど、そう決めたところで気づいてしまう。
わたしは、彼女にペンダントを預けられていたのだった! 成り行きとはいえ、預かってしまったものをなかったことにはできない。
受け取ってもらえるかはわからないけれど、とにかく水哉さんに返さなければならなかった。
わたしはさんざん悩んだ後に、覚悟を決めて彼の部屋を訪う。
(お返しするなら、きっと早いほうがいいわ)
彼も明日はなにごともなかったように過ごしたいかもしれない。そこでわたしが話を蒸し返すよりは、今夜のうちにすべて済ませてしまうほうがいいように思われた。
けれども、部屋のドアを叩いても返事はない。彼はもう眠っているらしかった。
わたしはさらに扉の前で迷い、枕元に書置きと一緒にペンダントを置かせてもらおうと思い立つ。
そうと決まればあとは行動あるのみ。
すぐに自分の部屋に戻り、事の次第を綴った小さなお手紙と一緒に再び水哉さんのお部屋へ。扉を叩いて、少し待つ。それでもやっぱり返事はなくて、わたしはそっと扉を開けた。
「あの、水哉さん……。おやすみのところごめんなさい」
声をかけたものの、彼はすでに布団に潜りこんで休んでいるようだった。
カーテンは、閉めずに眠りについたらしい。窓に切り抜かれた黄色い月光が、ぽっかりと部屋の床を照らし出していた。
一番明るい窓辺、出窓に飾られているのはいつか水哉さんと江の島に遊びに行った際に買った貝屏風だ。手のひらほどの大きさの小さな作品で、貝を組み合わせて描かれているのは富士山、西行法師、菊、梅……。
隣の花瓶には山吹や菖蒲が飾られている。落ち着いた色合いでまとめられた部屋のなかで、もっとも色鮮やかな場所だ。
彼の寝台は、出窓から洋書の詰まった本棚を挟んで置かれている。サイドテーブルにはシガレットケースと空になったグラス、それからワイン瓶が転がっていた。コルクの抜かれたままのワイン瓶はすでに空になっているようだ。
夕食ではお酒をたしなんでいないのに、お部屋にワインの匂いが漂っているのは、その瓶がつい先ほど開けられたばかりだったからだろう。
……となると、部屋の主が昏々と眠っているのは酔いつぶれたのが原因に違いない(なにせお酒にはめっぽう弱い方なので)。
わたしは飴色の麦藁細工にしまい込んだ預かり物のペンダントを手紙と一緒にサイドテーブルに置いた。
(……寝酒なんて、普段はする方じゃないのに。本当に大丈夫かしら?)
ちらりと瞼の閉じた、整った寝顔を見おろす。どうにも心配だったけれど、今ここでわたしにできることはなかった。
あるとしても、せいぜい空のワイン瓶を回収して、カーテンを閉めて部屋を出ていくくらいのものだ。
実際、そうすべきなのだろう。
わたしがそれを行動に移そうとした時――
ナイトシャツを着こんで寝台に転がる水哉さんが、小さく呻く。悪い夢でも見ているのか、うなされているらしい。
「水哉さん?」
起こすか、そっとしておいてあげるべきか。
のぞきこむと、寝返りを打った彼の前髪が頬にかかる。このままではくすぐったいだろうと、わたしは髪をはらおうと手を伸ばした。
そして、その手を掴まれる。
「きゃ……っ!」
力強い腕に引き寄せられて、彼の上に勢いよく転がり込んでしまった。
「——誰かと思えば、君か。こんな時間に男の部屋など尋ねるものではないよ」
耳元でささやかれて、肩が震える。
それからもの言いたげに頬を滑った指先に、わたしは大いに慌てた。
すぐさまあとずさろうとしたわたしの腕をつかむ手は、それでも解けることはなく。結局、わたしは水哉さんの胸の上に固定されてしまった。
呼気のたびに上下する胸の上についてしまった手は、どこにも行けないまま。
そうして薄い生地のシャツごしに、彼の高い体温を感じ取ったとたん、まるで熱が移ったようにわたしの顔は熱くなった。かすかな息遣いに、鼓動が飛び跳ね、手首にじかに触れた彼の指先にとうとう心臓が壊れそうになる。
わたしは部屋が暗くてよかったと心底思った。きっと、茹でたタコのように赤くなった顔を見られずに済んでいるから。
とにもかくにも、彼はわたしを逃がしてくれるつもりはないらしい。
すっかり落ち着きをなくして、わたしは視線を彷徨わせ続けた。
「わ、わたし、そんなつもりではっ。ただ、お預かりしたものをお返ししたくて、それに心配で……!」
「心配?」
「ゆ……水哉さんが、ずっと怖い顔してたんです。だから……っ」
だから、なにか不安なのではないかと思った。ひとりにならないでほしかった。わたしにできることがあるのなら……言ってほしかった。
そう告げると水哉さんは、ぱっとわたしの手を離した。
わたしはすかさず寝台から距離をとった。
心臓は、いまだ大げさなくらいに跳ね上がっている。それでも、肌に残る熱はあっという間に遠ざかり、ちくりと胸が疼いた。
(は、破廉恥だわ、わたしったらもう……!)
わたしがどぎまぎしている間に、水哉さんはむくりと起き上がって口元を片手で隠した。
「……、すまない。僕はそんなにひどい顔をしていたかな」
「あ……っ、謝らないでください。ただ、わたしが勝手に心配していたんです。だってまるで、この世の終わりみたいで」
「やれ、それは相当だな」
彼はおかしそうに笑った。だけど、わたしは笑えなかった。
いつもとは反対に、今夜はわたしが水哉さんを心配していた。
予感があったのだ。あの女性の面影に、その瞳の色に、彼と同じものを見てとってしまったから。……わたしよりずっと大人で冷静な彼がうろたえるのを目の当たりにしてしまったから、ただならぬ気配を感じ取ってしまった。
「だが、心配には及ばないよ」
それでも、わたしの動揺と裏腹に水哉さんはいたっていつもどおりだった。とうに落ち着きを取り戻していたのか、穏やかなおもざしをわたしに向ける。
すると、無性に申し訳なくなってきた。こんな真夜中に部屋まで押しかけて、彼の安眠を邪魔してしまった。後悔先に立たずとはよく言ったものだ。
「それじゃあ、わたしはもう戻ります。本当にごめんなさい。こんな時間にお邪魔してしまって」
「おや、いいのかい? 残念だな、もう行ってしまうなんて」
一刻も早く退散しようとするわたしを、水哉さんが視線で追いかける。
からかわれているような気がして、わたしはまた顔に熱が戻ってくるのを感じた。
「せっかく尋ねてきたからには、それなりの理由があるのだと思ったのだが」
「ですから、それは……」
「わかっているとも。こんな時間だが、君さえよければ少し話をしよう」
薄暗がりのなかで笑った水哉さんが、マッチを擦ってサイドテーブルのランプに明かりを灯した。
そして、そこにおかれた小箱に気づいたらしい。
今更、わたしは言い訳めいた言葉を口にする。
「わたし、その……。グランドホテルでお会いした女の人からペンダントをお預かりしたんです。水哉さんにって……」
「……ガーネットか」
水哉さんは箱を開いてなかを見るなり、眉根を寄せた。どうやら、彼にも思い当たるところのない品だったようだ。実際、水哉さんは困惑しているようにも見える。
少しの間、見つめていたペンダントをテーブルに戻した。それから、本棚の向かい側に置かれた仕事用の椅子を指し示す。
「かけなさい。いらぬ心配をかけた詫びがわりにもなるまいが、君には話しておくべきだろうから」
躊躇い、おずおずとわたしが椅子に座るのを待って、彼も布団から足を出して寝台に腰かける。
そして、水哉さんはともすれば闇に溶けそうな声で呟き続けた。
「君が気になっているのは、グランドホテルで会った女性だろう」
「……は、はい」
「あれはね、僕が英国に捨て置いてきた生母だよ」
「え?」
捨て置いた。その言葉が胸に引っかかった。
「これから話すのは、きっと君にとって愉快な話ではない。それでも聞いてくれるかい」
「……ええ」
どんな話でも、彼のことならなんだって知りたかった。
「まずは、これまで黙っていたことを詫びねばならないだろうね。公平ではなかったと思う。いらぬ心配をかけて、……戸惑わせただろう。それでも、知られたくなかったんだ。それなのに今は、君に知ってほしいとも思っている。矛盾しているがね」
端正な顔に、苦悩が滲む。なにがあったのかはわからないけれど、それでも彼が悩んできたのはわかった。
「わたしは……、知りたいです。それでも、無理にとは思いません。誰だって言わずにいたい過去があるでしょう? それは当然です」
わたしだってそうだ。彼に言えない過去はたくさんある。隠しておきたい傷もある。
「それでも、もしわたしにも背負わせてもらえるなら……聞かせてください、水哉さん」
わたしを見た彼は一瞬ためらって、それから緩やかに唇を開いた。
「それでは初めに僕の生まれについて、話しておこうか」
「水哉さんの生まれ?」
思えば、彼については知らないことのほうが多いのだったと気づく。
わたしと出会う前、このひとが誰と過ごし、どんな生活を送っていたのか。具体的に聞いてはいなかった。
それはきっと、水哉さん自身が知られるのを望んでいなかったからだ。
だけれども今、彼はわたしに話して聞かせようとしてくれている。
「僕が生まれたのは、とある商家でね。家には父母と、兄がひとり……」
月が傾く。夜伽は続く。
わたしは彼が訥々と語る半生に、その美しい瞳を見つめて耳を傾けた。
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