三章 水落石出

1 再会の残り香

 時計の針は、さらに進む。



 ——その年の夏葉月は、ひどい雷雨が連れてきた。

 一晩中続いた嵐が過ぎ去ったのは、翌日の放課後だ。


 空は、台風一過のように晴れ渡り、空気は少し蒸し暑い。

 わたしは夕景の横浜、きらめく水面のかたわらに続く海岸通りを歩いていた。それというのも、今日も今日とて学校まで迎えに来てくれた水哉さんから外食に誘われていたからだ。


「毎晩の献立を考えるのも面倒だろう。たまには外で食事しよう」


 水哉さんに連れられてたどり着いたのは、欧風の内外装が特徴のグランドホテル館内にあるレストランだった。

 ――『あたかもパリのグランドホテルのよう。海外からやってきた顧客にそう評されたこともあるらしい、きめ細やかなサービスが売りなのだとか。


「お席へご案内いたします」


 給仕さんの案内を受けてテーブルにつき、メニューを受け取る。


 視線を落とした紙面には、整った文字が並んでいた。印字メニューだ。

 これは世界でもまだ珍しいのだと、いつかロレーヌさんが言っていたのを思い出した。


(先進的なのかもしれないけれど……英語だわ。……英語だわ……)


 残念ながら、苦手意識が強い文字が目の前に並ぶ。

 ビーフ、オア、チキン。かろうじて読み取った文字をじっと見おろしていると水哉さんが笑った。


「訳そうか。なにか希望があるなら、僕からシェフに頼むが」

「私、塩辛いものが食べたいです……。そういう時って牛肉と鶏肉のどちらがいいですか?」


 一瞬悩んで正直に告げると、水哉さんは肩をすくめた。


「さて、それは給仕に尋ねるが。……君は存外、酒飲みになるかもしれないな」


 塩辛なんかを肴にして、と水哉さんが言う。彼は塩辛が大の苦手だ。


「もし私が飲むようになったら、一緒にお酒を酌み交わしてくださいますか?」

「無論だとも。その時は、秘蔵の甘酒を披露するよ」


 お酒に弱い自覚のある方。わたしはつい笑ってしまう。


 それから水哉さんは給仕さんを呼び寄せて、わたしの代わりに注文を済ませてくれた。


 やがてテーブルに並んだのは春野菜のサラダ、ヴィシソワーズ、塩パン、魚のソテー……。慣れない豪華な洋食を前に、覚えたばかりのテーブルマナーに四苦八苦しながらも、和やかに食事の時間は進む。


「冷たいスープって、珍しいですね。お味噌汁って普通は温かいものでしょう? でも、夏に冷たいほうが飲みやすくていい気がします」


 なんとか自宅の献立に取り入れられないか、わたしはヴィシソワーズを口に運びながら悩む。


「そうめんみたいなものじゃないかい」

「それはお味噌汁じゃなくて、めんつゆでしょう? でも、たしかに冷たい汁物に分類されるのかしら……」


 そんな会話に盛り上がること、数十分。

 全てのお皿が空になり、席での会計を済ませ、そろそろ帰宅しようと立ち上がった時だ。


 突然、背後でお皿の割れる音と悲鳴が響いた。


「っ? な、なんですか……?」


 びっくりして振り返ると、船乗りらしき外国人の男の人達が騒いでいる。彼らはとおりかかった女性の手を引いて、無理に膝の上に座らせようとしているらしい。


「やれやれ、ずいぶんと賑やかじゃないか。格式高い店にもマナーを知らない人間が紛れ込んでいるとはね」


 水哉さんは呆れたようにぼやいて、給仕さんを呼んだ。すぐに物音に気づいたホテルの受付や警備の人も駆けつけてくる。エントランスの注目も、レストランに向いているらしかった。


 けれども彼等も引っ込みがつかないのか、駆けつけた給仕さんたちと押し合いへし合いの乱闘を始める。


「大変! 水哉さん、巡査さんを呼ばないと」

「いいや、もうご到着のようだ。僕らの出番はないよ」


 言われて出入り口を見れば、たしかに警察の制服を着た男の人達が駆けこんでくるところだった。にわかに店内の騒がしさが増す。


「琴子くん、こちらへ来なさい。もう今夜は帰るとしよう。巻き込まれて怪我でもされてはたまらない」


 立ち上がった水哉さんが、飛んできたフォークをカップソーサーで打ち返した。


「まあ」

「おや、つい。育ちの悪さが知られてしまったな」

「まさか、そんなこと思いません。人にフォークを投げるほうがよっぽどだもの。お怪我はありませんか?」

「おかげさまで無事だよ」


 ほっと一息ついて、わたしは歩き出した水哉さんを追いかける。


「でも、本当にひどいわ。フォークを投げるなんて」

「それが実はそうでもない。あれは、フォーク投げと言って英国の伝統闘技でね。英国人が日夜、銀食器を磨くのは少しでも空気抵抗を減らして飛距離を稼ぐためなんだと言われているんだよ。……とすると、彼らは英国出身だろうね。今の投擲とうてきは完璧なフォームだった。16ヤードは飛んだだろう?」

「そ、そうだったんですか……。知らなかったです」

「それが当然だよ。ホラだからね」


 ホラ!


「からかったんですか?」

「君があまりにも真剣な顔をしているから」

「水哉さんだって真剣なお顔でした! だからわたし、信じたのに」


 水哉さんのホラに乗せられたわたしは、悔しい思いをしながらレストランの外に連れ出された。


「とはいえ、英国の場末の酒場じゃ、あの程度の喧嘩はよくあることだよ。鹿鳴館のように楽団がいるわけじゃあないから、音楽がわりの食器投げは珍しくもなくてね。音は劣るが、シンバルがわりにはなるだろう」

「そういえば……、水哉さんは英国に行かれたことがあるんですよね。一度、詳しく思い出話をうかがいたいです」


 わたしは、日本から出たことがない。本で読むような世界が広がっているのだとしたら、いつかは見てみたいとも思う。


「英国といったら、シャーロック・ホームズですよね。ベーカー・ストリートには行きましたか?」

「行ってないな。君の夢を壊すようで悪いが、正直いうと僕はあの国の愉快な話を持ち合わせていないんだ。印象に残っているのは、あの国の曇天にふさわしい暗鬱な思い出ばかりだよ。笑い話と言えば、せいぜいミシェルが冬のテムズ川に飛び込んで溺れかけたものくらいだね」


 気になりすぎる話をされてしまった。

 詳しく聞こうとしたわたしの声は、しかし、響いた女性の声にかき消される。


「ユキチカ……!」 


 高く澄んだ声が紡いだ彼の名前に、つられてわたしも振り返る。


 ホテルのエントランスに立っていたのは、美しいはちみつ色の髪を持つ女性だった。ブルーサファイアの瞳がシャンデリアの下で輝いている。目じりにはしわが滲み、五十路に近いだろうと思われた。

 裾にレースがあしらわれた緑青ろくしょうのドレスをまとった彼女の気高い雰囲気は、どこか近寄りがたさを感じる。

 それは彼女の凛とした立ち姿のためか、あるいは冷ややかな品格のためか。


 どうやら彼女もレストランの騒ぎに気づいてこちらを見ていたらしい。

 けれどもその目は今、まっすぐに水哉さんを射貫いている。


(水哉さんのお知り合い?)


 隣の彼を振り仰いで気づく。


「……水哉さん?」


 彼は、凍りついたように固まっていた。愕然とした顔が、目の前の女性に向けられている。

 わたしが呼びかけると、水哉さんはこちらを見ることなく踵を返した。


「……帰るぞ、琴子くん。来なさい」

「えっ? で、でも」


 彼女は知り合いではないのか。たしかに水哉さんの名前を呼んだのに答えなくてもいいのか。

 尋ねる間もなく、水哉さんは大股で歩き出す。まるで、一刻も早くここから離れたがっているように見える。わたしは慌ててその背中を追いかけながら、女性を振り返った。


 彼女もまた、水哉さんを追いかけてくる。


『待ってちょうだい、ユキチカ!』


 早口の英語だ。けれど、――女学校の教育のたまものか――その一部はわたしにも聞き取ることができた。


『ずっと、貴方を探していました。貴方に会うために、私は日本に来ました。お願い。少しだけでいい。時間をちょうだい。それとも、もう私のことは忘れてしまったの?』


 彼女が言葉を紡ぐたび、水哉さんの横顔が険しくなる。


 そして、ついに立ち止まったかと思えば嫌悪の滲む瞳を彼女に向けた。彼がこんな風に感情をあらわにするのは、とても珍しい。あまりに冷たい目にわたしも気おされて、後ずさりそうになった。


「ミセス・スミス、忘れるものか」


 冷淡な声色だった。水哉さんはきっぱりと日本語で答えた。伝える気がないのか、わからずともよいとおもっていたのか。その真意はわからない。


「貴女と出会った日のことは、今でもはっきりと覚えている。だからこそ、貴女と話すことなどなにもないと言ったんだ」

「ユキチカ、私は」

「……それとも、貴女にはこの期に及んでまだ話すことが?」


 水哉さんは彼女の言葉を遮り、尋ねる。そして、回答を聞くことなく歩き出した。今度こそ、もう止まる意思がないことをたしかな歩みで伝えながら。


 わたしはなにが起きたのかもわからず、ふたりを見比べた。

 そして、目が合ってしまう。


「ミス」


 彼女は今にも泣きだしそうな、打ちひしがれた幼い子のような顔でわたしに呼びかける。そして、足早に歩み寄るとわたしの手になにかを握らせた。


「どうか、彼にこれを」


 たどたどしい日本語とともに彼女がわたしに握らせたのは、赤い宝石が輝くペンダントだった。

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