6 恋の関

 水気を含んだ風の吹く夕べ。

 晴れ渡っていた日中の青空に陰りが見え始めるころ、水哉さんは外出からお戻りになった。


 夕餉の支度をしていた私は、玄関が開いた音に気づいて出迎えに出る。

 閉じる扉の向こうに閉め出されていく空には、梅雨入りを告げる雨雲が迫っていた。


「よかった、雨が降る前にお戻りになって。おかえりなさい」

「ああ、ただいま。変わりはなかったかい?」

「はい! あ、でも今日は、お隣の中山さんからいらっしゃって、カボスのおすそ分けをいただきました。果汁を絞ってあるので、あとではちみつとお湯で割って飲んでみてください。きっと水哉さん、お好きだと思うの。ちなみにお夕飯もカボスを使ったさわらのゆうあん焼きですよ」


 ふっくら柔らかく焼き上げた脂身の少ない春のさわらに、カボスを加えたつけだれの爽やかな風味が絡み合うゆうあん焼き。

 暑くなり始めた今時分のご飯のおともにはぴったりの、お気に入りの一品だ。


「ゆうあん焼きは久々に食べるな。楽しみだね」


 夕餉のメニューを紹介したわたしに、水哉さんは目元を緩める。

 その落ち着いた声色は、涼やかな雨音に似ていた。


 見上げれば、穏やかな微笑がすぐそばにある。わたしは一瞬、珍しいその横顔に見とれてしまう。

 だけれど、すぐに背筋を伸ばした。


 いつもくつろいでいるときでさえも、どこか張り詰めた空気のなかにいた人だ。生来の美貌に加わった冷ややかな威厳は今、影を潜めている。


 そんな彼は今朝、休日にもかかわらず、朝早くからどこか緊張した面持ちで出かけて行った。


(もしかして、お母さまとお別れしてきたのかしら……。今日帰国されるっておっしゃっていたもの。落ち着いて見えるのは無理なさっているからじゃ……、ないわよね?)


 差し出がましいと知りつつも、ちらちらと様子をうかがってしまう。

 ひとまず着替えに戻ると居間を出た背中も、見えなくなるまで辿った。


 そんなわたしの視線など、彼にはお見通しだったのだろう。


 濃紺に染めた麻の単衣に着替えを済ませて居間に戻ってきた水哉さんは、定位置のソファに深く腰掛けて、薄い唇に微笑を乗せた。


「琴子くん、そう不安げにせずとももう心配はいらないよ。母とはきちんと話を済ませてきたから」

「! ご、ごめんなさい。ぶしつけにじろじろと見たりして」


 水哉さんの晴れやかな笑みにほっとしつつ、注目していたのを見空かれてしまい、わたわたと慌てた。

 なんだか、覗き見の大罪を暴かれたようで居心地が悪い(実際に様子を盗み見ていたのは事実なので、なおさら気まずい)。


 わたしは逃げ場を求めてさりげなく台所へと後ずさりながら、水哉さんに尋ねた。


「あの、すぐに夕食になさいますか? お風呂の準備もできてますけど……」

「出来立てをいただくよ。君も待ちくたびれて空腹だろうから」

「まあ、気にしないでくださいな。わたしはいくらでも待てますから、先にお湯を使ってさっぱりしてきていただいても」

「わかった、降参だ。素直じゃなかった僕の負けだよ。本音を言おう。僕は君の料理が今すぐ食べたい。だから、意地悪を言わないでくれ」


 軽口を叩いた水哉さんが、お皿を運ぶのを手伝うと言って台所に姿を消す。


 それから、わたしたちは一緒に食卓についた。

 炊きたての白米の甘い香りと、さわらのゆうあん焼きがまとう柑橘の爽やかな香りが食欲をそそる。お味噌汁はわかめとお豆腐、一緒に並べるのは香の物と作り置きのきんぴらごぼう、酢の物だ。

 

「いただきます」


 ふたりそろって手を合わせて、食事を始める。


「……水哉さん、少し日に焼けました?」

「そうかもしれないね。日中は外にいたから。今日は、母に別れを告げてきたんだよ。……見送りに行ってよかったと、思っている。あのガーネットは、僕の誕生石だったそうだ。不思議なものだね。長年、彼女に愛されなかったと信じてきたが、一握りの情はたしかにあったのだと……今は受け止められているんだ」


 彼がお母さまと交わしたお話を教えてくれたので、わたしは心底ほっとした。

 長年のわだかまりは、解けたのだ。


「君のおかげだよ」

「……え? でも、わたしはなにも」

「君が僕を奮起させたんだ。もし、僕が一人身だったなら、きっと僕は母のもとへは向かわなかった。生涯、後悔を抱えて生きただろうね」

「それは……買いかぶりです。水哉さんなら、きっと正しい道を見つけられたはず。わたしは、そう信じています」


 いつだって、わたしを導いてくれる正しい人だから。たとえ迷ったとしても、最後には答えを手にしていたはず。

 だけれども、どういうわけか水哉さんはかぶりを振った。


「それこそ買いかぶりというものだよ。……君はいつか、僕を優しいと言ったが、実際そんなことはない。僕は、昔から変わらず傲慢で、自分本位な男なんだ」


 哀愁の滲む声が、外で降り出した珠の雨の奏でる妙なる音色に入り混じる。

 暗くなった窓の外で屋根から転がり落ちてくる小石のような水滴が、屋内から溢れたあかりにきらりと輝いた。


「その上で、琴子くん、君に話しておきたいことがある」


 食後、水哉さんは水仕事のために台所へ引っ込もうとしたわたしを呼び止めた。

 深刻そうなお顔を見て、わたしはわけもなく不安になる。


「どうなさったの」

「以前、……君と婚約した日に、僕がなにを言ったか覚えているだろう」


 どくんと、鼓動が跳ねた。彼の言うとおり、覚えていたからだ。

 わたしはあの日を忘れようもない。忘れられるはずもない。


『僕が買うのは花菱家の家格だよ』


 桜咲くのどけし空の下でもたらされた彼の宣告に、胸の内に芽生えた恋の花はあえなく散ったのだから。


「……それが、なにか……?」

「本当は、僕にはずっと想っている人がいた。それでいて、黙っていたんだ」


 散ったはずの心が、今また砕ける。胸を刺し貫く静かな声はなおも続く。

 その傷跡に追い打ちをかけるように、響き渡った雷鳴が染み入った。


「君に告げるつもりはなかった。だが……、君にこれ以上偽りを吐いて、不義を働きたくない。真実を告げたい。そして、今度こそどうすべきかを互いに決めたいんだ」

「どうすべきか……」

「無論、君が婚約を解消したいというのなら、僕から御父上に相談しよう。結納金や援助については気にしないでいい。花菱家や君にはこれまで十二分に世話になったのだから、恩を返す必要があると僕は思っているからね。ただ、君の気持ちが知りたいんだ」


 水哉さんはなにか言い訳をするように前口上を述べた。


 けれどもわたしは、その半分もまともに意味を理解できなかった。嫌に波打つ心臓の音が頭のなかに響いているようで、鼓動が彼の声を掻き消してしまう。


(いや)


 彼に想っている人がいるのなら、結ばれるように祈りたい。身を引くことになったとしても、これまでおつらい思いをしてきたぶんも、水哉さんには幸せになってほしい。


(そんなの、いやだわ)


 理性と本心が相争って、頭のなかはぐちゃぐちゃだった。


 おそばにおいてもらえるだけでいい。心まで欲しいとは望まないから、せめて。


 わがままが溢れかえって、ともすれば涙がこぼれそうになって、わたしは冷え切った手を握り締める。


(わたし、水哉さんに幸せになってほしいのに。それは本当なのに。どうして、素直に応援できないの?)


 友達でいたいと初めに望んだのはわたしだった。それなのに、際限なく欲深くなってしまったのはなぜだろう。


 だけど、それは今に始まったことではなかった。


 わたしは東京から横浜に移り住んだ一年前の春からずっと、同じ悩みを抱いていた。ただ、その惑いは月のように満ちては消えてを繰り返していただけ。実際には見えなくなったところで、そこにあることはなにも変わらなかった。

 結局、わたしの願いは変わらない。


 彼に大好きだと言いたかった。

 母に愛されて、父にも大切にされてきたはずなのに、なお、彼に愛される婚約者になりたかった。

 折に触れて彼が贈ってくれる指輪にお礼を言ってこの指にはめたかった。


 けれどいつか、それすらできずに溢れた気持ちを彼に吐露したことがあった。


「蛍は人魂なんですって。命が尽きてもなおこの世に留まって、身を焦がして……求めているのはきっと、とても大切なものなんでしょうね」


 それは去年の初夏のこと。


 わたしは水哉さんに蛍狩りへ連れて行ってもらった。


 せせらぎの音が響く闇に、舞い散る星屑の光にたまらない気持ちになったのを思い出す。



 明けたてば蝉のをりはへ泣きくらし夜は蛍の燃えこそわたれ。



 夜が明ければ蝉のごとく泣き暮らし、夜になれば蛍のように恋心が燃える。 

 古今和歌集に歌われた古い歌を思い出し、わたしは喉を震わせた。


「わたし、悪い贅沢者だわ。きっといつか蛍になってしまうと思うくらい、過ぎた願いばかり望んでしまうんですもの」


 わたしの顔は、水哉さんにどう映っていたのか。彼は目を細めて肩をすくめた。


「やれ、君が悪い贅沢者か。それなら僕は大罪人だろうね」

「どうして?」

「僕は君のように朝早くに起きて家事などしない。君と暮らす前の朝食は買い置きの饅頭だ。午後は出前を頼んでいたし、ベッドに転がったまま本を読む。サイドテーブルに砂糖をたっぷりと入れた紅茶と焼き菓子を準備してね。夕食も自分で作るのはおっくうだから、ミシェルでも誘って適当に外で済ませるんだ。三食、饅頭の日もあったな。君がいないと、ご覧のありさまだ。僕がごく一般的な生活もままならない。そんな怠惰な僕ですら願いは尽きないんだよ。働き者の君なら、贅沢くらい許されるさ。たとえ天が許さないと言ったとて、僕が許すよ」

「まあ、それは心強いわ」


 私の悩みとは離れた『贅沢』だったけれど、水哉さんは「明日は僕と贅沢をしようか」と笑った。

 そんなささやかな優しさにわたしは惹かれ続けて、いつの間にかどうしようもないほど彼を好きになってしまっていた。


 好きなのだ。彼が。彼の幸せを素直に望めないほど。わたしは独りよがりの恋に身を焦がしている。



「——琴子くん?」


 呼びかけに、はっと心づく。幾度か、水哉さんはわたしを呼んでいたらしかった。


「顔色が悪いが、大丈夫かい?」

「……ごめんなさい、なんだか体調が優れなくて。このお話の続きは後日じゃ……いけませんか」


 ぽつぽつと途切れる言葉で懇願する。それでもどうしたって今は冷静に聞けそうになかった。


 水哉さんは顔を逸らし、吐息交じりに呟く。


「すまなかった」

「……っ」

「すまない、琴子くん。突然、たしかにこんな話をされても困惑するだろうね。君の言うとおり、少し時間を置こう」


 逃げたのはわたしなのに、どうしてこの人が謝るのかさっぱりわからなかった。


 いつか――それも遠くない未来に必ず聞かねばならない話だ。

 これまではごまかして、結論を先延ばしにしてきただけだった。わかっているのに恐ろしい。その時、真実を受け入れられるかわからず、わたしはうつむいた。


 ずっと、今のままいられたならよかったのに。


 わたしは心底そう思い、初めて変わらぬものを求めた胡蝶さんの気持ちを痛感したのだった。

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