四章 焼き餅焼くとも手を焼くな

1 とある青年の独白

 今が盛りとばかりに季節の花々が咲き誇っている。


「なにをなさっているの?」


 ぼんやりと縁側に腰かけて、ひとり、花の庭の花を眺めていると背後から声をかけられた。

 振り返ると、もとより丸い目をさらに真ん丸にした少女が僕の顔を覗き込んでいる。


 ――これは、夢だ。そう直観した。


 なぜなら、僕はこの景色を知っていた。この後に起こることも、彼女と交わした会話もすべて。


 これは時計の針を巻き戻したところで取り戻せない、遠い昔に過ぎた時間。少女と隣同士に腰かけて、和やかに笑っていられたかつての日々の夢なのだ。


「僕がなにをしているか気になるのなら、当ててごらん」

「ええと……、瞑想かしら。それとも日向ぼっこ? お花の観察って可能性もありますよね」

「残念ながら、すべて違う。正解は『なにもしていなかった』だよ」

「まあ、休憩中だったんですか。お邪魔しちゃいましたね。いつもお忙しそうだから、てっきりなにかなさっているのかと」

「無論、予定は詰まっているよ。とはいえ、時計が止まってしまったからね。今なにをなすべきかがわからなくなってしまったんだ」


 本来ならば、すぐにでも準備をしなければならないのに、その日は妙に億劫だった。いっそ、課せられた義務もすべて投げ出してしまいたい。そんな気分になっていた。


 少し遅い五月病というものだったのかもしれない。


 もとより生まれながらの義務という重圧に耐えかねる弱い人間の僕には、弱音を吐くことも許されない立場が耐え難かった。


 そんな時に、愛用していた懐中時計が壊れた。

 僕はこれ幸いと時計の呼称を理由に、影のように追いかけてくる責務のすべてに背を向けたのである。


「働きに行くべきだと、君は思うかい? 僕が働かないとこの家は立ち行かなくなるからね。そうすると、君も困るだろう」


 だが、もたらされた嫋やかないらえは、きっぱり「いいえ」と告げた。


「その時はわたしも働けばいいんです。だから、おひとりで背負い込まないでくださいな」

「いや、そういうわけには」

「心配なさらずとも、なんとかなるものです。わたしが小さいときは、周りの女の人はみんな働いていたんですよ。華族の女性が働くのは珍しいかもしれないけれど……、わたしは働くのは苦じゃないですから。そうね、たとえば本の編集さんなんてどうかしら」


 その返答は、想定外だった。


「君は……ずいぶんと先進的だね。急進的ともいえる。多くの人間は、現状維持に躍起になって変わるということを恐れるのに」

「逆に、状況が変わるからいいことが起きるとも考えられませんか? 本の続きが出るし、季節ごとにお花は咲きますし。未来永劫、今のままじゃ絶対にいつか行き詰ります。それこそ困っちゃうでしょう?」


 晴れやかな笑顔を前にして、僕はほんの少し彼女を哀れに思った。

 彼女は愛する母を亡くし、花菱家当主に引き取られた。住まいと家族と引き換えに、華族社会に縛られ、かねてよりの友人や知人との面会も許されていない。


 この娘は未来に希望をいだかなければ、生きていけない。現状になんら望みを抱いていないのだと知ってしまったから。


「……君の作った本は、少し読んでみたいね」

「じゃあ、いつか作れるように努力します。そうしたら読んでくださいませ。約束です」


 ささやかな、なにげない会話だった。

 だが、その結果、僕が未来をほんの少し楽しみに思うようになったのは事実である。


 だからこそ、僕は懐中時計を修理に出して自分の義務に向き合うことにした。


 そして、時計は再び動き出した。ささやかな救いの潜む日常に向けて。


 だが、僕のうちにある時計の針は、未だ幸福だったあの日から止まったままだ。

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