2 往来の出会い
七夕の水曜日、今日は先生方の実習があるそうで半ドンだった授業を終えて、ゆりえさんと野々村さんと一緒に校舎を出る。
一歩外に踏み出して、さっそくわたしたちは正午の突き刺すような陽射しにさらされた。
狭い教室で蒸し饅頭にされる時間からの解放感から、胸いっぱいに吸い込んだ空気は夏特有の湿りけと熱を帯びている。
「ああ、暑い暑い」
ゆりえさんはぱたぱたと片手で赤らんだ顔を仰ぎながら、空を仰いだ。
「もうすっかり夏ねぇ。おふたりは今年の夏のお休みのご予定はもう立っているの? あたしは閻魔帳を飛ばしに汽車に乗るのよ」
そして、実家に戻るのよ――おまけのようにつけたす。
目的が帰省から汽車に乗る(さらに正確に言うのなら、閻魔帳こと成績表を風に飛ばす)ことにすり替わっているらしいゆりえさん。
野々村さんは呆れたように親友の横顔を見やった。
「ゆりえさん、あなた、冬休みはそれでお母さまにこってり搾りとられたっておっしゃってなかった?」
「そうよ。でも大丈夫。今度はもっとうまくやるわ」
意気込みは十分らしく、眼鏡を日光に輝かせた彼女は拳を握り締める。
さて、こうした話題になるのも、いよいよ長期休みを目前に控えているからだ。
「花菱さんは?」
「わたしは、……どうかしら。まだわからないわ」
言葉を濁したのはこのところ、許嫁であり、同居人でもある水哉さんとの仲がぎこちないせいだった。
(……水哉さん、お怒りなのかしら)
先日の入梅の夜、彼の告白を遮ってしまって以来、どうにもわたしたちはぎくしゃくしている。
(……それなら、日がな一日わたしが家にいては息がつまってしまうわよね。だからといって、花菱の本宅に戻るのも……)
体裁、迷惑、あれやこれやと考えを巡らせても、結局良案は思い浮かばず。
わたしは肩を落とし、ゆりえさんたちと一緒に運動場を横切って校門を出た。
それからいつものとおり、生い茂る街路樹のそばに停まる車のそばで立ち止まる。運転席に見える影は水哉さんのものだ。
「それじゃ花菱さん、ごきげんよう!」
救いを求めて顔を上げるも、ふたりは訳知り顔でにやりと笑って寮への帰路についてしまう。
わたしはしんみりと肩を落とし、「ごきげんよう……」となんとか返した。そのまま助手席へと回り込み、重たい扉を開く。
「水哉さん、今度から半ドンの日くらいお迎えはお休みになってくださいな。いつもと違ってお昼には授業も終わりますし、ひとりで帰れますから……」
「琴子くん、残念ながら悪人というものは年中無休でね。昼日中だからと安堵もできないのが、僕ら一般市民の悲哀だ。例の一件の犯人がお縄にかかるまでは、僕としても休むわけにはいかないとだけ言っておこう」
車に乗り込むなり口にしたわたしの主張は、水哉さんの反撃を受けた。
それ以上食い下がることもできずに、わたしは口を閉じる。
後はもう無言のうちにゆっくりと走り出した車が、往来を行く人々を追い越していく。
わたしは窓の外に視線の置き場を探し、そして、俥に運ばれていく美しい芸者さんの姿に気がついた。
ぼかし染めの単衣をさらりと着こなす彼女は、外出中なのだろう、以前お会いした時のように白粉を塗っているわけでも、紅をさしているわけでもなかった。初対面ならきっと芸者さんとは気づかなかっただろう。
それでも、そのろうたけたまなざしには見覚えがあり、わたしは水哉さんを振り返る。
「水哉さん、胡蝶さんがいらっしゃいます! お顔を見るのは本当に久しぶりだわ」
ロレーヌさんがうちにいらっしゃるたび、胡蝶さんのお話は聞いている。
けれども、花街の出入りは水哉さんに禁じられてしまったため(わたしも足を向ける決心がつかなかった)、彼女と会うのは久方ぶりだった。
「ご挨拶してもよろしい?」
「……彼女次第だね」
そう言いつつも、水哉さんは路肩に車を停めてくれた。
わたしは助手席から降りながら、胡蝶さんに呼びかける。すぐに停まった俥から彼女はむき出しの地面に降り立った。
「お嬢さん。ご無沙汰しております。こんなところでお会いするなど、奇遇ですね」
「わたし、学校の帰りなんです。胡蝶さんは……」
「長唄のお稽古がなくなったので、少し買い物を。今は用事も済んだので、置屋に戻ってお茶をひこうというところでした。それでこんな格好なのです。失礼をお許しくださいな」
「いいえ、とってもおきれいだからすぐにわかりました」
お互い帰り道というわけだ。
「あの、もしよろしければうちでお茶をしていきませんか。すぐ近くですから。いろいろとお話したいこともありますし。ロレーヌさんのこととか、……それに……」
わたしが口ごもりながら提案すると、彼女はちらりと水哉さんをその視界に入れた。
ふたりはなにやら視線を交し合う。
「水哉さん、だめですか?」
車を降りて、腕を組んでいる家主は目を伏せて答えた。
「……僕はこの後、ミシェルを訪ねる用事がある。鬼の居ぬ間に洗濯ともいうからね。琴子くんが自由に羽根を伸ばす時間だろう。お互い問題ないのであれば寄っていきたまえ」
「ふふふ、それでは喜んでお呼ばれしましょう」
彼女は含みを持たせた微笑をこぼし、俥から車へ乗り換えたのだった。
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