3 堰かれて募る恋の情

 高台にある我が家へ帰り着くなり、水哉さんは車を降りることなく、グランドホテルのある横浜の中心街へととんぼ返りしていった。


「こちらへどうぞ」


 蝉の謡う庭から彼を見送って、わたしは胡蝶さんを応接間にご案内する。


 窓から流れ込む涼風は、蝉の大合唱をまとっていた。

 夏日とはいえ、日陰に入れば幾分涼を取ることもできるもので、応接間にはひやりとした空気が満ちている。


 わたしに続いて屋内に入った胡蝶さんは白檀のうつし香が残る、白地に二尾の金魚が泳ぐ京扇子をゆるりと閉じて帯にさした。


「おかけになってお待ちになってくださいな。今、お茶をお持ちしますから」

「いいえ、お気になさらず」


 お定まりのやり取りの後、ひとまず台所に引っ込んで、まずはお茶を準備する。


 朝のうちに仕込んで冷蔵箱に入れておいた氷だしのお茶は、すっかり仕上がっていた。手早くお盆の上に茶器と茶菓の水まんじゅうを乗せて、わたしは胡蝶さんのもとへ舞い戻る。


 そうして茶菓子を供したわたしは、胡蝶さんの前のソファに腰を下ろした。


 それから、どうしたものか。わたしが言葉と視線の置き所を探して目を泳がせていると、胡蝶さんは花顔をほころばせた。


「お嬢さん、なにか私にお話ししたいことがあるのでしょう。私でよろしければどうぞ、なんなりとおっしゃってくださいな」

「ど、どうしてお話したいことがあるってわかったんですか?」

「お顔を拝見すればわかりますわ」


 彼女はたおやかな目元を細め、梨の花びらのように白いまぶたを伏せる。


「けれど、お嬢さんのお悩みは私のような女にはお力添えできるとも思えません。きっと、お話を伺うだけになりましょう。それでもよろしいですね?」

「いえ! わたしこそこんなふうにお呼びたてしてしまった上に、ご相談なんて、すみません……」


 わたしはソファの上で縮こまった。


「あの、こんなことを言っても困らせてしまうでしょうけれど……。水哉さん、わたしとの婚約を解消なさりたいのかもと思って、どうしたらいいものかと……」


 抱えきれない胸のうちを、優しい沈黙に後押しされて吐露していく。


 もとより、水哉さんから多額の融資を受けている花菱の家にこんな話をできようはずもない。また、ゆりえさんや野々村さんを困らせてしまうのもわかっていた。ロレーヌさんは、水哉さんのお友達なので相談しづらいものがある。


 考え抜いた結果、わたしよりもずっと大人で聡明な胡蝶さんならば、と思ったのだ。


 けれど、いざ話し出すと今度は彼女に多大なるご迷惑をおかけしている気がして申し訳なくなってきた。


「なぜ、婚約の解消などとおっしゃるのです?」

「水哉さんにはお好きな方がいらっしゃるのですって。もし、その方を奥方にお迎えしたいのならわたしは邪魔になってしまうでしょう? だから、……どうすべきかをずっと考えているのに、答えがでないんです」

「お嬢さんはどうなさりたいのです。解消してもよろしいと?」

「……わたしは、水哉さんのご希望に沿いたいと思います」

「それは、貴女の意思ではないでしょう。それが本心ならば、お受けすべきではありませんか。心から願っているのなら、惑いもしがらみもないはずですから」


 そうでしょう、そう問われても答えられなかった。きっと本心は、彼女に言った建前からは遠い場所にあったから。

 わたしが黙り込むと、沈黙を埋めるように蝉の声が部屋に満ちる。

 どうやら開け放した窓のすぐそばには、ツクツクボウシが止まっているらしい。賑々しい声に、胡蝶さんが目を細めた。


「ずいぶんと賑やかですこと。今年の夏は去年よりも暑くなりそうですよ。……それにしても、鳴く蝉よりも鳴かぬ蛍が身を焦がすとは、よく言ったものですね」

「え? ええ……、そう思います」


 突然変わった話題に、戸惑いながらもうなずく。

 胡蝶さんは色香の漂う目を細め、わたしを見つめた。


「お嬢さん、私はしょせん商売女です。学者さまのように、貴女のお役に立てる話ができようはずもありません。それでも恐れながら老婆心から申し上げますが、人は火遊びをして火傷をし、痛みを知って臆病になり、そうして大人になっていくものです」


 彼女は茶器を白魚の指で包み込んだ。


「たまに思うのです。私はかつて、生涯をかけた恋を失った。そうして長い間、喪失感に苦しむ時の流れに身をゆだねるばかりでした。それでも今、あの日々の始まりに戻れるのだとしたら……私はきっとまた間違えるはずだと。今度は、自ら望んで間違えるのです。お嬢さんは道半ばのようですから、申し上げておきますが、このように恋とはままならぬものですよ。ゆえに操ろうとしてはいけません」


 彼女の告白に、わたしはびっくりして目をしばたかせた。

 自ら進んで間違えるということは、失った恋の相手をまた愛するということだ。


「でも、それじゃロレーヌさんは?」


 そもそもわたしは、ふたりがすっかり恋人同士なのだと思っていたので、胡蝶さんに忘れられない人がいるというのは驚きだった。

 思わず尋ねてしまうと、彼女はころころと笑う。


「あの時、ロレーヌの旦那を私は知りませんでしたから考慮はいたしませんわ。けれど、……あの時に本気になったからこそあの方に出会えたのだと思います。いえ、むしろ間違わねば出会えなかった。もし、私が恋に破れた挙句、殿方に頼らずひとり花街で生きていくと覚悟を決めねば――あるいは恋を知らず、一芸者として過ごしていたのなら――今頃は身請けをされてどこぞの妾にでもなっていたかもしれません。つまるところ、過去の悩みも苦しみも、すべて今につながっていると思うのです。なればこそ、今を大切に思える上に、過去も未来も意味を持つのではありませんか」


 返す言葉もないわたしに、胡蝶さんはつけ足した。


「未来への過ぎた恐れは無益ですよ。どれほど悩んだところでわかるはずがないのですから、時にはお心のままに進むも一手かと存じます」


 艶やかな微笑を浮かべる彼女が紡いだ言葉は、子供じみたわがままからもっとも離れた場所にあった。

 わたしよりずっと大人で多くを経験した彼女の言葉だからだろうか。少し気持ちが楽になったようだ。


(心のままに……)


 わたしは虫語を乗せたそよ風に揺れるお茶の水色すいしょくを眺めた後、顔を上げた。


「胡蝶さん、わたし……もう一度、水哉さんとちゃんとお話をして、自分の気持ちをお伝えします。結果はどうあれ、このままお別れするのは本意じゃありませんから」


 わたしは、水哉さんに恋をしている。これは間違いない。

 けれど、それ以上に今のわたしがあるのは彼のおかげなのだから、お礼を言いたかった。これからも、報われずともせめて想い続けたいと願う。

 気持ちはすでに、はっきりとしていた。


「そうなさいませ。きっと大丈夫です。なにしろ、片桐の旦那は……」


 牡丹か芍薬かという笑みを浮かべ、胡蝶さんが続けてなにか言いかけた時だった。


 蝉の鳴き声すらかき消す物音が玄関から響いてきた。

 誰かが扉を叩いているのだ。いささか乱暴な来客の気配に驚いて、わたしはソファから腰を浮かせる。


「あら、お客様でしょうか。それなら私はそろそろお暇いたしましょう」

「あ……、ごめんなさい。急にお呼びしたのに、大したお構いもできませんで」


 とはいえ、今日は来客の予定もなかったはずだ。


 わたしは首を傾げつつ、応接間の窓から玄関を覗いてみた。そして、驚く。そこに立っていたのが、東京にいるはずの義兄の姿だったからだ。


「ごめんなさい、ちょっと先に要件を確認してまいります」


 わたしは胡蝶さんに一言断って、慌てて玄関に向かう。

 そして、扉を開けるなり顔面蒼白の兄さまに肩をつかまれた。血の気のない顔は、父さまの還暦祝いのために東京でお会いした時よりもずっとやつれ、憔悴しているように見える。

 兄は焦燥を瞳に浮かべ、なかば叫ぶように言った。


「琴子、すぐに僕と来なさい。父さまがお倒れになった」


 その意味を解するなり、どくんと心臓が強く跳ねて視界が黒く染まりゆく。



 ——時計の針が、また進んでいった。

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