6 波のまにまに

 聞き知った声の響きに、わたしたちは弾かれたようにそちらを振り返る。


 その先に立っていたのは、険しい面持ちの水哉さんだった。走ってきたのか、息を切らせている。秀麗な容貌にみなぎっていた怒気は目が合うなり影を潜め、彼は安堵したように長息した。


「どうやら、間に合ったようだ」

「水哉、さ……」


 吹き抜ける強い海風が頭に撫でつけた前髪もそのままに、水哉さんは兄さまと向き合う。


「さて、義兄さん。僕の許嫁殿がずいぶんと世話になったようですね。ですが、もう日も沈む。そろそろお返し願いたいのですが」

「……なぜ、あなたがここに?」


 わたしと水哉さんの間に立つ兄は、忌々し気に毒を孕んだ声で呟いた。

 水哉さんはさして興味がなさそうに、淡々と答える。


「優秀な芸妓が教えてくれただけですよ。兄を名乗る男が琴子くんを連れて、逗子方面へと向かったとね。東京へ向かうならともかく、このあたりはまだ未発達だ。車のように目立つ乗り物では、人の目もごまかしきれない。ずいぶんとあなたの車を見ている人間は多かったですよ。彼らの証言が、僕をここまで案内してくれました。停まっている車を見つけた後は、人の踏み入った形跡のある藪道を辿ったにすぎません」

「兄妹水入らずの時間を邪魔するとは、あなたもまたずいぶんと不躾だ」

「無論、無礼と存じ上げたうえでのことですよ。僕としても貴方に至急、お聞かせ願いたい話があったものでね」

「聞きたい話……?」


 水哉さんが一歩歩み寄ってくる。

 革靴が草をかき分ける音は、辺り一面に響く波音に飲み込まれた。


「貴方が琴子くんを連れて僕の家を出たと芸妓が告げに来た後、東京の花菱家から電話がありました。花菱家ご当主が倒れたと。貴方は普段、東京にいるはずだ。どうして事実を知ってから電話よりも早く横浜に辿り着き、琴子くんを連れ出せたんです」


 兄さまは、答えない。


「貴方はわかっていたんでしょう。父君が倒れると。そして、ことが起きるより早く横浜に向かっていたんだ。僕が知りたいのはね、その理由ですよ」

「兄さまが、父さまに毒を盛ったと」


 代わりに答えて、わたしはこちらに背を向ける兄さまを見た。

 水哉さんを見据える彼の顔は見えない。あの優しかった兄が今どんな表情をしているのか、わたしには想像もつかなかった。ただ、水哉さんを見ているのはたしかだ。


 水哉さんもまた、射貫くように兄さまを見ていた。その目に浮かぶ感情の色はわからない。憤りか、疑念か、はたまた落胆か。そのどれでもあるように見えたし、どれでもないような気もした。


「……先日の女衒も、貴方の仕業ではありませんか。花街で人を攫うという、行き当たりばったりの犯行は本職の仕業ではないと思っていた。逮捕された下手人は結局、依頼人の名を出さなかったが……。金に困っていたそうですよ。貴方は彼を金銭で篭絡し、手札にしたのでは?」


 水哉さんが言葉を区切れば、沈黙をヒグラシが埋める。


「……はじめは、あの男の狙いも僕だと思っていた。だが、この数か月間僕が狙われている兆候はなかった。ならば、僕ではないとしたら。琴子くん自身を狙っているとしたら、彼女を狙うことで得をするのは誰だ? その目的は?」


 水哉さんはもうすでに確信を抱いているようだった。それは、迷いない足取りに現れる。


「来るな!」


 弾かれたように叫んだ兄の声に、水哉さんの足取りが止まる。


「……義兄さん。なぜ、こんなにも愚かな真似を?」

「これを愚かだと言ってしまえるあなたには、わかるまい」


 兄さまは諦めたように漏らした。


「父が死ねば、花菱家の当主の座は僕のものだ。琴子は公にはまだ花菱の家に属している。それなら、僕が当主になればこの子の婚姻の無効を告げることもできるだろう?」


 水哉さんは怪訝そうに眉を顰める。


「婚約を破棄すると? 僕が花菱家にどれほどの援助をしているとお考えか。到底、看過できない。それ以上に、得策ではないと申し上げるほかありませんね。貴方の家は後援なしには到底、立ちゆきませんよ」

「それでいい。家になどなんの価値がある? 家は、僕を救ってはくれなかった。彼女だけが僕に寄り添ってくれた。笑ってくれた。夢を見させてくれた! 琴子が手に入るなら、家などいらない!」

「……家に価値はない、か。その点においてのみは同意しますよ」


 水哉さんはご実家のことを思い出したのか自嘲した。

 わたしはただ、口をはさむ隙も見つけられずうろたえるばかり。


「僕は琴子がほしい。この子さえいるのなら、ほかにはなにもいらないんだ。だが、あなたが必要としているのが花菱の血だろう。それなら……」


 だけど、兄さまが本質を口にしようとした時、口元が震えて言葉が飛び出した。


「やめて、兄さま!」

「琴子にはその価値はない」


 林に並ぶ若木が潮風に弄ばれておののく。その枝は折れんばかりにたわみ、今にも折れそうなほど頼りない。


 兄さまの声は静かだったけれど、その場にいた人間に届くにはじゅうぶんだった。


「この子は父の親友と芸者の子だ。花菱の家に、一切の血の繋がりはない」


 水哉さんは、ただ黙っていた。その沈黙がなにより恐ろしい。まるで糾弾されているようで、わたしはすくみ上った。


 いつかは打ち明けなければならなかった事実だろう。それでも、今はまだ水哉さんに知られたくなかった。身勝手な想いを裏切られ、わたしは彼から目を逸らした。

 溢れる涙が、視界を歪ませる。


「この事実を知った時、僕がどれほど歓喜したか! 妹と思って抑えてきた禁忌も、もはや過去のものだ。隠し立ては無用になった。……片桐水哉、華族の血がほしいのなら好きにすればいい。正当な妹たちが家にはまだ残っている。琴子の代わりに、どれでも好きなものを連れていけ」

「……彼女たちはものではありませんよ。対価としてなど受け取れません」


 ことのほか、水哉さんは静かな声で答えた。

 わたしの裏切りを知ったにも関わらず、驚いた様子も見せずに落ち着きはらった顔で兄さまを見つめている。


 意外だったのは、兄も同じだったらしい。


「……なぜ、落ち着いていられる?」

「知っていたからですよ、もとよりすべて。彼女が花菱の血を継いでいないことなど」


 彼のテノールが、土に染み入るように響く。


 いよいよ太陽が水平線の先に飲み込まれようとしている。たそがれの最後の欠片に焼かれて、ウミウが叫ぶ。その悲鳴にも似た声に、心がきしんだ。


「無論、初めはご当主も口をつぐんでいたさ。彼女の名誉のために。だが、彼女との婚約が決まった時には、包み隠さず話してくれましたよ。あの善良が服を着て歩いているような御仁が、夫となる僕に彼女すら知らない秘密を黙っていられるとお思いか? いつか、彼女の出生が暴かれた時に守るためにも……、彼はこの事実を僕に隠しておくわけにはいかなかった」


 つまり、水哉さんは承知の上でわたしを横浜の家に迎え入れたのだ。


「そして、僕はそれでもかまわないと思ったから、彼女を許嫁にとった」

「どうして」


 どうして、知っていてわたしを側に置いたのか。

 女学校に通わせてくれて、許嫁として大切にしてくれたのか。


(どうして、……そんなに優しいお顔をするの?) 


 わたしの喉から零れ落ちた疑問に、水哉さんと視線が絡む。


「理由など拍子抜けするほど些細なことだよ。僕がずっと昔、君に救われたからだ」


 まるで覚えのない話だった。そのはずなのに、そのいらえはわたしの胸を打つ。


「それにも関わらず、僕は君の幸せを願えなかった。ほかの男の隣で笑う君を見たくなかった。勝手な男だよ。君を愛せないと知りながら、誰の手にも渡したくなかったなんて。だから僕は、君を買った。恥知らずにも……、金で君を手に入れた」

「でも、水哉さんは華族の血がほしいとおっしゃったわ」

「金で君を買った男が、どうして愛を乞えた?」


 ずっと、隠してきた。抱え込んだ思いも秘密もすべて。この人はわたしが傷つかないように、出生の真相など知らないふりをして守ろうとしてくれていた。愛せないと言いながら、真綿で包むような優しさを与えてくれた。


 ひたひたと涙が忍び寄る。瞳が熱を帯びて、頬を小さなしずくが転がり落ちた。


「——そうか、あなたもか」


 蜻蛉の翅のように淡い声色で兄がつぶやいたのは、それが最後だった。

 わたしの腕を掴んだ手に、痛いほどの力が籠められる。それから彼は、はっきりと水哉さんに宣告した。


「心底、目障りだよ。片桐水哉、あなたさえいなければ……」

「お互いさまではありませんか」


 水哉さんは皮肉げな笑みを浮かべ、口元をゆがめる。


「彼女を連れてどこへ逃げるつもりだったんです」

「僕は琴子と、新しい人生を始めるんだ! そのためには、あなたは邪魔だ。……今すぐに、ここから飛び降りろ。あなたが飛び降りないのなら、僕は琴子と身を投げる。あなたにだけは琴子は渡さない!」

「兄さま、なにを……っ」


 腕を力強く引かれて、兄さまの手がわたしの身体を抑え込んだ。

 背後には、崖。打ち砕ける波濤の響きにぞっと背筋が泡立つ。


「やめて……」


 けれど、わたしの制止は水哉さんに向けられた。たった一言しか言えなかった。言葉が喉の裏に張りついたように途切れて千切れたのは、水哉さんが迷いない足取りで崖の終わりへと歩を進めたからだ。


 その先では、断崖絶壁の下に砕ける海が大きな顎を開けて獲物を待っている。


 彼のたしかな足取りが、強固な意志を語っていた。飛び降りるつもりだ、そう直感して戦慄した。


「水哉さん、やめて! もう、いいですから……! いつも、助けられていたのはわたしなんです。だから、もうやめてください」


 花菱の血も持たないわたしには、結局のところ彼になにを返すこともできない。

 これまでのすべての厚意に報いることもできない。


 彼はわたしに救われたというけれど、実際のところは逆だ。わたしはずっと水哉さんに助けられてきた。母が亡くなってひとりぼっちになって、それでも寂しくなかったのは彼がいてくれたからだ。わたしのために、これ以上この人が犠牲になるのは耐えられなかった。


「琴子……?」


 兄が不思議そうにわたしの名前を呼ぶ。わたしは兄に掴まれたまま、一歩下がった。その先は、大地の切れ目。もう足を受け止めてくれる地面はない。もうあと一歩、足を踏み出すだけですべてが終わる。


「……待て、琴子くん」

「水哉さん、今までずっと大事にしてくれてありがとうございました。もうじゅうぶんです」


 彼は、愛する人がいると言った。水哉さんには、大切な人と幸せになってほしいから。

 最後に少しでも役に立てるなら、わたしが彼の命を長らえさせられるなら、死んだっていい。心底思う。今もってなお、留めようとしてくれる彼の優しさがただ嬉しかったから。愛しかったから。迷いなんて、なかった。


(ただ、さみしいだけ)


 もう彼の優しさに触れられないのが、惜しいだけだ。

 微笑んで、かかとを浮かせる。必要なのはたったの一歩。あまりに小さな一歩だった。


「よせ!」

「駄目だ、琴子!」


 宙に浮いたわたしの腕を、完全に顔から血の気を無くした兄さまが引く。水哉さんは地を蹴ってわたしに手を伸ばす。


 そして——ぐるりと回転した視界は、ほんの一瞬で紺碧に塗りつぶされた空に覆いつくされた。


 浮遊感はない。かわりに熱いほどの体温に包まれ、かすかな薔薇の香りを感じた直後、気づけばわたしは地面の上にひっくり返っていた。誰かがわたしの手を掴み抱き寄せる。


「……馬鹿な真似を……っ。無事かい?」


 すぐ水哉さんの低い声が耳に届いた。そして、わたしは彼の腕によって引き留められたのだと知る。


 はっと顔を上げると、すぐ近くに倒れる兄さまをロレーヌさんが抑え込んでいた。


「あっぶないだろ、コトコ! 無茶するな! 俺が間に合ったからよかったものの……」

「遅いぞ、ロレーヌ。危うく僕は身投げするところだった」


 もうすっかり平静な口調で文句を言う水哉さんに、ロレーヌさんは目を吊り上げた。


「馬鹿、おまえが俺を俺を置いていったからだろ! 焦ってたにしろ、ちょっと待ってくれればよかったじゃないか。ここまで来るの大変だったんだぜ。途中で車泥棒……じゃなくて、ちょっと強引で違法な手口で知らないおっさんから車を借りたりするくらいにはな! 俺が捕まったら保釈金はおまえが払えよ!」


 ぷりぷりと怒るロレーヌさんは、どうやら水哉さんを追って駆けつけてきてくれたらしい。


 彼に抑え込まれた兄さまは必死にもがくが、そもそも体格が違うのだ。ロレーヌさんの手からは逃れられそうにない。


 近くの草の上には、兄さまの懐中時計が落ちていた。倒れ込んだ衝撃で飛んでしまったのだろう。開いた蓋から見える針は、壊れてしまったのか動く気配がない。


「諦めて、大人しくお縄にかかれよ。もうじき、俺のコチョウの呼んだ警官が駆けつけるからな。花菱家の当主も一命をとりとめたって連絡が入った。逃げられるなんて思わないほうがいいぜ」

「黙れ、離せ! 片桐水哉、琴子を返せ! 僕のものだ、彼女は僕のものなんだ!」

「貴方のものではない。彼女は、彼女のものだ」


 獣のようにわめく兄の、初めて見る姿に言葉を無くす。水哉さんは私の視界を広い背で隠した。


「琴子くん、ここはミシェルに任せて君は車に戻りなさい」

「ゆ、水哉さん。ごめんなさい、わたし……」


 できないと、思ってしまった。どうして、全てを知ってしまって平然とあの慕わしい家に帰れただろう。わたしのせいで、彼を危険に巻き込んでしまったのに。


「っ、琴子くん!」


 気づけばわたしは無我夢中で彼から逃れ、走り出していた。


 本当は彼の腕のなかに戻りたかった。だけど、わたしにはもうその価値がないことを知ってしまったから。わたしはただがむしゃらに、闇雲に宵に飲まれた草原を駆け抜けたのだ。

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