7 雨のち
逃げる。あてどなく、月あかりが色濃く影を落とす林のなかをどこまでも。
けれど、逃走はいつまでも続かなかった。ついに背後から手を掴まれたのである。
勢い余ってわたしの腕を掴む手をそのままに、茂る
青い草の茂る大地を背に、わたしを抑え込んだ水哉さんを見上げる。彼の背後には、上ったばかりの金色の月が輝いていた。
「は、離してください……っ」
「駄目だ。離せば君は逃げるだろう。その前に僕の話を聞きなさい」
「いやです、いや……!」
捨てないで、そばにおいていて。
この期に及んで自分本位な願いが口を突いて出そうになる。
さらけ出すつもりのなかった心は、幼子のように泣いていた。
もう逃げることができないのがわかっていたからだ。
花菱の血を継いでいないのを、水哉さんもわたしも知ってしまった。この期に及んで、彼の家に居座ることなどわたしにはもうできない。
近い将来、彼は家に本当に愛する人を迎えるだろう。その時が来るのがたまらなく悲しくて、怖い。
「聞きなさい、琴子くん。でなければ、このまま話そう」
片腕は、彼に掴まれたままだった。空いた手で耳をふさいだところで、水哉さんの言葉のすべてから逃れることなどできやしない。
「ご、めんなさ……っ。わたし、知らなくて、だましていてごめんなさい」
だからわたしは、彼の拒絶を聞くのが恐ろしくて、いやいやと首を振りながら必死に言葉を紡ぐ。ごまかして結論を先延ばしにしたところで無意味だと知りながら、どうにもできなかった。
みっともなく泣いて縋ることしか、なにも持たないわたしにはできなかったのだ。
「わ、わたし、お父さまの子供じゃないなんて知らなかったんです。でも、それじゃ……わたし、華族じゃない。華族じゃなかったら、水哉さんのお役に立てない。それはわかってるんです。だけど……!」
「琴子くん」
弱ったような水哉さんの声に、それ以上なにも言えなくなった。
困らせているのがわかってしまって、ただ目を固くつむって唇を噛む。そうして、わたしは時間の流れに身を委ねた。
「僕の目を見たまえ」
潮時だ。そう思うのに、できなかった。身体が固くなって、あふれる涙を追いやるように閉ざした瞳が開かない。
「見てくれ、琴子くん」
懇願にも似た声色が頬に落ちてくる。そっとわたしの頬に触れた手は温かかった。そのぬくもりに閉ざした心がほころんで、わたしは恐る恐る目を開く。
月光に淡く輝く彼の青い瞳は、まっすぐにわたしへと向けられていた。
「言っただろう。僕はちゃんと、全部知っていたよ。そもそも、華族のつながりなど下手ないいわけだよ。父君と知り合った時点で得ていたようなものだからね。君が花菱の血を継いでいなかろうと、僕にはさしたる問題じゃあない」
「でも……、水哉さんにはお好きな方がいらっしゃるんでしょう? どうして行かせてくれないんですか。水哉さんはわたしなんて放っておいて、本当にお好きな方をお迎えにいってさしあげるべきです」
ほんの少しタイミングが悪ければ――あるいはわたしの思い切りが悪ければ、水哉さんは崖から飛び降りていた。二度とこんなことがないとは限らない。次も助かる確証はない。
「わたし、こんなご迷惑をおかけして……もうおそばにいられません」
「それは困る。僕の想い人は君だから」
視界の端では、幾重もの神話に彩られた星が瞬いていた。空を流れるのは天の川だ。
「うそ」
「この後に及んで、嘘など言うものか。ずっと君が好きだった。僕のものにしたかった。そんなことで君の気持ちは得られないと知りながら、……手を伸ばさずにはいられなかった。だから、僕は君が何者でも構わない。君が、君でさえいてくれるなら」
波音が聞こえる。潮風が吹き抜けて、心を揺らした。
「華族の血など、ただの言い訳だったんだ。本当は君が君であればよかった。愛していたから。君がいてくれたから、僕は生きていていいのだと思えた。……君のおかげで、母に、過去に向き合うことができた。僕にとっては、君が生きる意味なんだ」
わけもわからず、涙があふれ出る。
「この間は、それを君に話したかった。君は察していると思っていた。……だが、そうか。やはり、言葉にしなければわからないことばかりのようだね」
彼の告白を信じたいのに、まだ心が恐れている。臆病なわたしは、おずおずとこれまで抱いてきた疑問を口にした。
「でも、水哉さんは、すぐに結婚しなかったわ。許嫁のまま、学校に通わせてくれたから……、それはわたしには興味がないからなんだって、ずっと思ってきたんです」
「君を無理にもらい受けて、これでも引け目を感じていたんだ。琴子くんの気持ちの整理がつくまで、自由に過ごしてもらいたかった。ただそれだけだ」
わたしが目を瞬かせると、水哉さんは困り顔で目を逸らした。
ほんの少しだけ、気まずそうな顔でわたしの襟元から零れた金の鎖を見おろす。
「君こそ、……かたくなに指輪をしなかったから。僕を嫌悪し、軽蔑しているのだろうと思っていた。だからこそ、本心を告げるのを恐れた」
「それは違いますっ。わたしだって、水哉さんがわたしを好きじゃないと思って…………」
常に首飾りに指輪をさげて身に着けておきながら、踏ん切りがつかなかった、弱いわたし。
「本当は、指輪をしたかった。でも、できなかったんです。つまらない意地を張って……。怖かったから」
本音をこぼせば、水哉さんは困ったように微笑した。
「僕はじゅうぶんに尽くして示していたつもりなんだがね」
「大事にしてくださっているのはわかってました。でも、それは恋とは違うでしょう。わたしは、妹みたいなものなんだろうって、ずっと……」
「待ちたまえ。妹に指輪を贈り続ける男など、気味が悪いだろう。こちらとしてもお手上げだったさ。ヒヤシンスの花も、ブローチも、なにを贈っても君が物憂げな顔をするからね。その様子だと、帯どめの意味もわかっていないだろう?」
「帯どめ……」
先日、水哉さんに贈られた帯どめを思い出す。
「ダイヤ、エメラルド、アレキサンドライト、ルビー、エソナイト、サファイア、ターコイズ」
彼が数え上げたのは、あの帯どめの飾りに使われた宝石だ。
「頭文字を並べるとDEAREST、その意味は最愛の君へ。かつて欧州で流行したんだよ。宝石でメッセージを贈るというお遊びがね」
「水哉さん」
「結局、僕はいつも中途半端な男だった。君に知られたくないと思いながら、知ってほしいと矛盾した想いを抱き続けてきた」
星が瞬くのよりもずっと早く、心臓は波打っていた。
「だが、知られた以上はもう抑えない。僕は君を愛している。愛してるんだよ。君が僕を愛してくれているのなら、もう耐えるのはやめにする。……君の答えを聞かせてくれないかい」
ずるい質問だと思った。わたしの答えなんてもう決まっているのに。
「……好き、です。わたしも、ずっと水哉さんが好きでした」
優しくて、甘いものが好きで、少しひねくれているのに本当は誰より純粋で、強い心を持つこの人が大好きだった。憧れていた。わたしに彼のためにしてあげられることなんてないと思っていた。
それでも、わたしでもいいと言ってくれるなら。
「好きなんです。水哉さんのお嫁さまになりたかったんです。ずっと……、おそばにおいてほしいんです」
しゃくりあげながら泣いてしまう。
こんな日が来るなんて、夢にも思っていなかった。諦めて、流れに身を委ねようと思っていたから。
「無論だとも。誓って、君以外の誰も妻になど望まない。僕も君のそばにいたいんだ」
額に柔らかな口づけが落ちてくる。思わず震えれば、安心させるように大きな手で頭を撫でられた。まぶた、鼻の頭、頬を下り、最後に唇同士がかすめる。
くすぐったくて身じろいだ拍子にしゃらりと音を立てた首飾りを外し、水哉さんは指輪をその手に取った。
「今後は、これをつけてくれると嬉しいんだが」
「……っ、はい……!」
地面にひっくり返っていたわたしの手を引いて、水哉さんが立たせてくれる。そして重なったままだった手に、彼が指輪をはめてくれた。
そうして、手の甲に口づけられる。慣れない柔らかな口づけの感触に、わたしはまた大げさなくらい震えてしまった。
彼はまるで西欧のおとぎ話のようにひざまずいて、わたしを見上げて微笑する。
「僕は生生世世、君ひとりを愛しぬくと誓う」
夜空には宝石箱をひっくり返したような星がきらめいていた。
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