終章 在りし日の欠片

1 ふたりの終着点

 ――時は進み、盛夏。女学校は夏休みに入り、ゆりえさんと野々村さんは閻魔帳片手にそれぞれ古里へと旅立った。


 わたしは水哉さんと一緒に東京を訪れていた。往来にも夏鶯の声高らかに響く、猛暑日の昼下がり。レースのパラソルでは、今夏の涼をとるにはいささか心もとないようだと思いながら、ハンカチで額に浮かんだ汗をぬぐう。


「また今日はずいぶんと暑いですね」

「一雨ほしいくらいだよ」


 わたしがぼやけば、水哉さんはそう言いつつも涼しい顔で肩を竦めた。


 どこか近くでは、縁日が開かれているのだろう。お囃子の音色を乗せた風に背中を押され、わたしは彼と一緒に都内の病院へ向かっていた。目的は、入院している父さまのお見舞いだ。


 道中、地図とにらめっこしながらたどり着いた病院は、まだ日が高いにも関わらず静かなものだった。


 消毒液の香りのする受付の板張りの床は、一歩進むごとにぎしぎしときしむ。窓の外に見える裏山からは、絶えず地に染み入る蝉の鳴き声が響き続けていた。


「こちらで花菱様がお待ちです」


 わたしたちは、年若い看護婦さんの案内で訪れた病室の扉をくぐる。ここもやはり、消毒液の香りで満たされていた。

 風鈴がひとつばかりぶら下がった窓際の白いシーツのベッドの上に、父はいた。


「失礼します。父さま、琴子です。お加減はいかがですか?」

「ああ、琴子。待っていたよ。こちらへおいで。水哉くんも、遠いところすまないね」


 面会が昨日許されたばかりの父さまは、やはりまだやつれていた。起きているのはつらいようで、わたしたちに椅子をすすめるなり、ベッドの上で枕にもたれかかる。

 わたしと水哉さんはそろって椅子に腰かけて、持ってきた果物の籠をサイドテーブルに置いた。


「梨をお持ちしましたよ。初物なんですって。さっそく剥きますね」

「ありの実か、楽しみだね。ああ、果物ナイフならそこの棚のなかに入っている。たしか庭にもそろそろなりそうなのがあったが、今はどうなっていることやら……」


 父はそう零して、ため息をつく。物思いにふけるように宙を辿った視線は、窓の外へ。


 わたしが兄さまに連れ出されたあの日。自宅で茶を煎じた父さまは、にわかにめまいに襲われた。直後、呼気もままならなくなり、激しい腹痛に襲われたのだという。

 異変に気づいた義母さまが、すぐにお医者さまをお呼びしたため、最悪の事態は免れたもののしばらくは危険な状態だったそうだ。


 原因は父さまが点てた抹茶のなかに含まれていた、細かく砕かれたイチイの種だった。


 犯人は、兄さまだった。父さまが、いつもおやつ時にお茶を点てるのを知っていた兄さまは、イチイの種を茶壷に混入させた後、お昼前に東京を出て横浜に向かったのだと聞いた。


 ことの顛末はすでに知ってのとおり、お医者さまの処置のおかげで父さまは一命をとりとめた。今は入院中だけど、夏の終わりには花菱邸に帰宅が許される見込みらしい。


 一方で――、兄さまも入院することになった。


 おりしも華族夫人が不倫の末、駆け落ち心中をはかった千葉心中事件が世間を騒がせたばかりだ。華族の醜聞は秘匿されることとなった。つまり、事件はまるきりなかったことにされたのだ。


 彼の退院の目途は、ついていない。


 父さまは重苦しくため息をついた。


「すまない。おまえにとっては不本意だろうが、こらえてくれ」

「そんな。わたしはできることなら、もとの兄さまに戻ってほしいです……。お優しくて、心配症で……」


 あの一件を経て、兄を憎むようになったわけでもない。

 わたしは手のなかで鈍く輝く小刀を見下ろした。少し硬い梨の皮に刃を入れて滑らせると、みずみずしく甘い香りが部屋に満ちる。それは、院内に漂う消毒液のにおいと入り混じって、どこかもの悲しい気配を帯びていた。


「兄さまは……、いつかお治りになるのでしょう?」


 顔色を探るも、当主の顔をした父さまはわたしの質問には答えなかった。


「……あの子には開いた口がふさがらんよ。たしかにあれも、はじめはおまえを純粋に案じていたのだろうね。だが、許されない過ちを犯してしまった。おまえにも水哉くんにも、もはやなんと詫びるべきかもわからんよ」

「常用していた薬によって中毒になり、せん妄の症状に苛まれていたのだと聞きました。一概に彼が悪いとも言い切れないでしょう。漢方にもハシリドコロなど、容量を誤れば幻覚や異常興奮を起こすものがあります。西洋医薬ならなおさらです」


 水哉さんが目を伏せて言う。だけど、父さまは静かに首を振った。


「心を病まぬ人間はいない。その上で、どう生きるべきかが我々にとって重要なのだよ。倅の弱さを知りながら、次期当主としての重責を背負わせた。結局は、私の目が濁っていたのだろう」


 父さまが眺める病室の窓の向こうには、入道雲が立ち上っている。

 風に押し流されて迫ってきた曇天が、ややあって青空を覆い始めた。もうすぐそこに、夕立の気配が迫っている。


 父は、わたしが梨を向き終わるまで静かに空を見つめていた。ガラスのお皿に切り分けた梨を乗せて、爪楊枝を添えてサイドテーブルに置く。それから、わたしが水差しからコップに真新しい水を注いだところで父は振り返った。


「すべて聞いてしまったのだろう」


 さまざまな感情の入り混じった声だった。気が咎め、困り果てたような……。

 そこに込められた思いのすべてを理解できたわけではなかった。なんにせよ、わたしには正直に答えることしかできない。


「……父さまは、母さまの恋人ではなかったと」

「そうだ。おまえの本当の父はね、私の友人だったのだよ。一番の、友だった。私がかけおちなど、余計な勧めをしなければあれはまだ生きていたかもしれない。ほかに、方法があったのかもしれない。おまえの母に恨まれるのも道理だ……」

「……母の本心はわかりません。でも、わたしはあの人が誰かを恨むような話をしているのを聞いたことがないんです。それはきっと、そういう人間でいたいと母が思っていたからです。だから、どうかご自分を責めないでください」

「……そうだな。恨まれたいというのは、私の勝手な願いに過ぎない。贖罪をすれば、許される気がしていただけなのだよ。父のぶんもおまえを立派に育て上げれば、彼女が私を許してくれると信じたかった。なにをしたところで、あのふたりが戻ってくるはずもないのになあ……」


 今になって思えば、母さまはこの方のことをいつも花菱の旦那や花菱のおじさまと呼んでいた。彼女が父さまと呼んでいた人は、きっと別人だったのだろう。


「あの女性は病に倒れなければ、きっと誇りを胸にひとりでもおまえを育て上げたろう。おまえのお母さまは、強く、立派で、素晴らしい人だった。誇りなさい」

「ありがとう存じます。母の願いを叶えて……わたしを……育ててくださって、ありがとう。おかげでわたし、今とても幸せです」

「そうか」


 父さまは目じりのしわを深め、晴れやかな顔で笑った。


「だから……、もう花菱の苗字を名乗れないとしても構いませんから。これからもあなたを父さまと呼んでもよろしいですか?」


 わたしにとって、長年父としてそばにいてくれたのはこの人だ。ずっとこの人を本当の父だと思っていたわたしには、今もってなお、その想いは変えられずにいる。たとえ、血の繋がりがなかったとしても。華族の当主に対して、不敬かもしれないけれど、それが私の願いだった。


「無論だとも。おまえは花菱琴子だ。いつになっても、私の可愛い娘だよ」


 その温かな声が、いつもわたしを安堵させてくれるのだ。



 * * *



 東京で一泊した翌日の夕暮れ、わたしたちは横浜に帰り着いた。


 水哉さんが買い込んだ栄太楼のもなかなど、たくさんのお土産のおかげで行きよりも増えた荷物のなかには、父さまから預かった懐中時計がある。兄さまが愛用して、いつも身に着けていた銀時計だ。跡取りとして成人した時に、祝いの品として贈ったものだという。


 もうその針は動かない。ロレーヌさんに抑え込まれ、地面に落ちた拍子にねじがはずれて壊れてしまったらしい。それでも、時間は進み続ける。一瞬たりとも、留まらずに前へと進むのだ。


 わたしは手のひらのなかで銀色に鈍く光る時計を、じっと見おろした。


「琴子くん、よそ見は椅子に座った後の楽しみにとっておきたまえ。土に足を取られた挙句、地面と抱擁したいというのなら止めはしないが」


 いよいよ家に帰り着いて門を越えたところで、わたしの注意を水哉さんが笑い交じりに引き戻す。


 もうじき日が沈む。日中の蒸しあがりそうなほど暑い日向と比べ、我が家の庭は幾分涼しくなっていた。


 青々と茂る草木が、夕焼け空さえ覆い隠すほどの勢いで葉を広げて季節を謳歌している。

 木陰ではヒグラシが鳴いている。

 夏影の庭を、夕涼みにおあつらえ向きな風がそよいでいる――。


 思えば、許嫁になって初めて水哉さんに連れられてここに来た時はまだ春だった。花も緑も、今日ほどの勢いはなかった。それから夏を迎え、秋が過ぎ、冬が春に代わって季節は廻った。


「なにを考えているんだい」


 庭を眺めていると、そう尋ねられる。


「はじめてここに来た時のことを思い出していたんです。水哉さん、軽くおうちの案内をした後、すぐにお仕事に行ってしまったわって」

「好きでもない男と一つ屋根の下にいたくもないだろうと思ったんだよ」


 水哉さんは肩をすくめた。それからふと、どこからか飛んできた病葉わくらばを目で追う。


「……僕はずっと、幸せになるつもりなどなかったんだ。幸せになる資格などないと思っていたし、人でなしの僕に幸せを享受できる度量があるとも思っていなかった。なにより、僕がなんと言おうと君が成金に買われた華族令嬢だと噂されるのも後ろめたかった」

「誰が誤解したってかまいません。水哉さんに人買いなんてできないこと、わたしちゃんとわかってますから。お優しい方だもの」

「君は僕を買いかぶりすぎているよ。あいにく、打算的な男でね」


 気怠い熱気を内包した風が、月季花の合間から吹き込んで打算からほど遠い柔らかな声を運んだ。


「実はかねてから考えていたんだ。なぜ君は僕が優しいなどというのか。今わかったよ。仮に僕が優しいのだとしたら、それは単に僕が君にいい顔をしたいがために行動を起こしているのが原因だ」

「またそんなことおっしゃって……、絶対にそうじゃないですったら」


 彼が自分に下した評価は間違っているはずだ。なぜなら、出会ったその日から彼は優しかった。なんだかんだ、困っている人を見捨てられない性分の持ち主だった。恋情が優しさに拍車をかけることはあるかもしれない。けれど、けっしてそれだけが理由ではなかった。


 わたしは、この人の優しさに人生を変えてもらったのだ。


 ずっと、花菱家の琴子だと思ってきた。それでも、彼がわたしを見つけてくれたから、わたしは母と過ごしていたころのただの琴子に戻ることができた。


 そして、これからも一緒に歩いていけることがなにより幸せで、目が熱くなる。


 ふと、延ばされた彼の指先がわたしの頬をくすぐった。

 とたんに鼓動が騒がしくなって、胸が甘く痺れた。じわじわと顔に滲んでくる熱を隠したいのに、頬に触れた手が俯くことを許してくれない。


「どう……なさったんですか?」

「君が泣きそうに見えたから」

「ちょっと落ち着かないだけです。こんな日が来るなんて、夢にも思わなかったから」


 恋は、本で読むのとはまるで違う熱を隠している。到底、耐えられそうにないほどの熱が胸を焦がす。


「幸せなはずなのに……苦しくて、死んでしまいそう」

「それは困る。僕はまだ想いの全てを君に告げていない」

「それは問題ないかと……。もうわかりましたから」

「わかるはずもないさ。どれだけ君に惹かれているのか、僕自身にもわからないんだから」


 火がついたように顔が熱くなる。

 これまで知らなかった。恋しい人に愛される幸せに、わたしはずっと気づかずにいた。流れていく言葉の数々が、なんだかもったいないような心持でうつむく。


 彼は以前にも増してわたしに甘くなったように思う。声も、指先も、そのまなざしも、わたしを平静ではいられなくするのだ。少なくとも、今はまだ。


「……やっぱり、心臓が壊れそうです。あの、鍛えなおしてきます。古今東西の恋愛小説などを読み込んで……」


 そう告げて逃げ出そうとすると、水哉さんは肩を揺らして笑った。


「百聞は一見に如かずという。習うより慣れなさい、今すぐに。こと君に関しては僕はもう耐えるつもりはないからね」


 わたしたちを包むように、甘い山梔子の香りを含んだ夏の風が吹いた。

 傾く太陽に霞をかけていた綾絹の雲が流れ去ると、熱いくらいの西日にさらされる。もう、陽射しが熱いのか、わたしが熱いのかわからないほどだった。


 愛おしさが溢れて、ふと涙が零れ落ちる。抑えきれない熱が頬を濡らすと、水哉さんはかがんでわたしの顔を覗き込んだ。


「どうして泣くんだい」

「わかりません」


 けれど、涙が溢れて止まらない。多分、その答えはひとつだった。


「……きっとあなたの妻になれるのが、嬉しくて」


 ――夢見心地のまま答えた。


 どこかで鳴きはじめた蝉がかき回す大気に、溶けてしまいそうになりながら。

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女学生の宝石帖 梅本梅 @umemotoume

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