5 真相
舗装されていない道を走る車は、ガタガタといっそ大げさなほどに揺れ続けた。
わたしは飛ぶように過ぎる景色を窓から見て、運転席に座る兄さまに声を上げる。
「兄さま、道が違うわ!」
つい先刻のことである。花菱家の父が倒れたという急報を受けてすぐに乗り込んだ車は、あっという間に横浜の街を抜けた。
葉末から蝉の悲鳴に似た声が響く雑木林に差し掛かったころに、わたしは気づく。
「このまま進むと、三浦か藤沢に行ってしまいます。東京に行くなら、反対に……」
「いいや。東京にはいかないから、あっているよ」
「え?」
おっとりとした物言いに、わたしはわけもわからず振り返る。
ハンドルを握って前を見据える兄の横顔は、相変わらず蒼白だったけれど、それでも落ち着いて見えた。
「お父さまは東京の病院にいらっしゃるのじゃないんですか?」
「さあ、家に医師を呼んだかもしれないし、あるいは病院へ運ばれたかもしれない。それは僕にはわからないな」
「……じゃあ、わたしたちはどこに向かっているんですか?」
水哉さんは、もう帰宅したころだろうか。兄と東京の父のもとへ行くという書置きを見ただろうか?
なんとも表現しがたい不安に苛まれながら、わたしは答えを待った。
「さあ、どこでもいいな。ふたりになれるところなら、どこだって」
石でも踏んだのか、ガタリとまた車が跳ねる。
「もう、君は解放されたんだ。花菱の名に囚われて、好きでもない男と暮らすことはない」
「おっしゃっている意味がわかりません。わたしは、……納得して水哉さんのところに行ったんです」
傾いた花菱の家のため、面倒をみてくれた父のため、わたしではなく華族の家格がほしいという水哉さんの想いを知った上で、進む道を選んできた。わたしは自らの意思で、水哉さんのそばにいることを望んだのだ。
選択肢はけっして多くはなかったけれど、後悔はなかった。
それなのに、兄さまは首を振る。わたしの想いをまるきり否定するように、迷いなく。
「おまえの意思は尊いと言えるだろうね。家のために身を捧げ、未来を犠牲にした。だがすべて、無意味だったんだよ。琴子、おまえは花菱の人間ではないのだから」
その断言に、絶句する。
――わたしの母は、芸妓だった。贔屓してくれた花菱家の当主と、いつしか恋に落ちてわたしを生んだ。だから、たしかにわたしは嫡出子ではない。それゆえに、妾の子だと姉たちはわたしを蔑んだ。
兄は、今まで優しく笑いかけてくれた。そんな彼に投げかけられた言葉に、わたしは動揺して本心が見えなくなる。
「わ……わたしは、花菱琴子です。誰も認めてくれなくても、父さまがおっしゃってくれる限り」
「違うよ、あの人は君を娘だと欺瞞しただけだ。君には花菱の血など、一滴も入っていないのに」
「うそ」
それでは、なぜ母はわたしを花菱の家に預けたのか。父はなぜ、私を娘として受け入れたのか。
「君の母は慎ましい人だった。長年、父の援助を断ってきた。身請けの打診さえも断った。それはね、ふたりの間に愛がなかったからだよ。ただあるのは哀れみと贖罪だった。だからこそ、彼女はかつての恋人に操立てし続けて、恋人でもない男の家に入るのを拒絶したんだ」
次々とあふれ出るわたしの疑問に、兄はよどみなく語った。歴史の教科書に連ねられた事実を読み上げるように、淡々と事実だけを羅列する。
曰く。母の恋人は、父さまの親友だった。彼もまた、とある華族の次期当主として将来を期待されていたのだという。だからこそ、芸者を正妻に迎えることは許されず、ふたりの仲は引き裂かれた。
だが、青年はついに恋のためにすべてを捨てて駆け落ちする覚悟を決めた。花菱家の当主がその決意を後押しし、手はずを整えた。彼は親友たちの恋模様をずっと傍らで見守ってきたので、――あるいは、義務という鳥かごから出られないわが身の代わりに――ふたりの想いが成就することを願っていたのである。
「だけど、待ち合わせ場所に母君は来なかった。恋人の将来のため、身を引いたんだ。だが、父君は諦めなかった。そして、待ち合わせ場所から置屋に向かう道中、彼は事故にあって命を落とすことになる。残されたふたりは大層悔いて、責を感じた。母君は、こんなことになるのなら一緒に逃げるべきだったと。父は、こんなことになるのなら駆け落ちなど勧めなければと。その時、すでに君は母君の腹に宿っていたんだよ。だからこそ、母君は恋人の忘れ形見として君を生み育てた。たったひとりきりでね。いつしか病に倒れた時は、真っ先に君の将来を案じた。このまま生きれば、芸妓になるほかない。己と同じ運命を辿るだろう娘のために、ついに花菱家当主の援助の申し出を彼女は受けたんだ。ひとえに君のためを想って」
そして、わたしは花菱家当主の落胤として華族の屋敷の門をくぐった。苗字を変えて、花菱琴子として。
母は、恋人への想いとわたしの未来を天秤にかけた。そして、たとえ想い人ではない男の妾だったと噂されたとしても、わたしに不自由しない暮らしをさせようと考えて花菱家の当主に託したのだ。
「父さまが……、兄さまにそうおっしゃったの?」
「違う。今年の春先に母と父がふたり、密かに話しているのを聞いたのさ。この話を聞いて、僕がどれだけ狂喜したと思う? 僕はすぐに君に迎えをやった。それなのに、ごろつきどもめ。やつらはろくに仕事もこなせない役立たずだった」
この人から迎えが来た覚えなどない。ただ、頭をよぎったのは料亭田島屋を出たところで襲われた春の夜のことだった。
「まさか……わたしを襲わせたのは、兄さまだったの……?」
愕然として尋ねる。夏だというのに指先はひどく冷えて、震えていた。
「……じゃあ、今日は? 父さまが倒れたというのは、わたしを誘い出すためのうそだったんですか?」
「なぜ君に嘘をつく必要があるんだい? そもそもあの男は、君を政略の道具に使った。君のためだなどといって、金に目がくらんで売ったんだ。許せるものか。天がこの罪を見逃そうと、僕は許さない」
兄さまは、いつものように少し眉を落として、優しそうな顔で微笑んだ。
「だから、毒を盛ったんだよ。あの男に罰を与えるために」
「正気じゃないわ……っ」
いつか東京へ出向いた夜、水哉さんが薬の副作用の話をしていたのを思い出す。
懸念は現実のものとなっていたのか。けれどそれなら、いつから? いつからこの人は、妄執にとりつかれていたのだろう。実の父に毒を盛るほど、歪んでしまったのか。
「いいや、僕は正気だとも」
言葉がなかった。
狭い車内でふたりきり。うっそりと笑う兄に、わたしは戦慄して窓の外を見る。
いつの間にか、ひと気のない森に差し掛かっている。逃げ場はどこにもなかった。
「そう怯えなくてもいいよ。僕は君を襲おうなんて思っちゃいない。ただ、助けたかっただけなんだ」
「これでどうして助けることになるんですか? もし、父さまが亡くなったら……っ」
仮に彼の話が本当だったとして、父を想う気持ちに変わりはない。あの人はいつも私に優しかった。守ろうとしてくれていたのを知っている。今すぐ父のもとに駆け出したい気持ちを、どうして捨てられただろう。
「兄さま、後生ですから、家に帰してください……!」
「そうだ、帰ろう。僕たちの家に。今日からふたりで暮らすんだ。そして、本を作ろう。君を僕から奪った男たちは、君の価値を正しく理解していない。君のような先進的な女性は家庭に収まるべきじゃないというのに」
「本って……」
記憶を辿り、思い当たる。いつか、兄さまと花菱家の縁側でたわむれに話した午後のやりとり。
本が好きだから、女編集者に憧れていたわたしに、このひとは本ができるのを楽しみにしていると言ってくれたのだった。
だけど、わたしはもう花菱の家を出て、水哉さんのもとに行った。
その夢を叶えることは、もうできない。
(逃げなきゃ、逃げて……)
どこへ?
もしも、兄の言葉が事実ならわたしはもう水哉さんのもとへは帰れない。彼の求める華族の血が流れていないのなら、わたしは彼にとって無用になるだろうから。
かといって、このまま兄に連れられて行くことはできなかった。
父の容態も気にかかる。
(警察……そう、警察に行かなきゃ)
このまま兄を野放しにはしておくことはできない。
「琴子、なにをする!」
わたしは思い切って走行中の車の扉を開け放ち、宙に身を投げた。
風に攫われてうまく着地できずに、勢い余って茂みに倒れ込む。袴は泥だらけになってしまったけど、運よくひどい怪我を負うことはなかった。
そのまま、森のなかに飛び込んで逃げだす。
(今はどのあたりまで来てしまったの? とにかく人を探して、警察に通報しないと……!)
茂みをかきわけて、光のあふれるほうへと飛び出す。
そこは森の終わり、土地の末端だった。
切り落とされた斜面、崖の向こうに大海原が広がる。青々とした水面は、砕いた玻璃を散らしたように光の粒が輝いていた。水平線には今、燃え盛る太陽が沈もうとしている。
肌を焼く斜陽に、わたしは足踏みをした。
行き止まりだ。戻って別の道を探さなければと振り返る。そして、すぐ背後に兄の姿を見つけてわたしは後ずさった。
「本当に、君は豪胆な娘だよ。まさか走行中の車から飛び降りるなんてね」
「兄さま……」
「やあ、それにしてもいい場所だ。この辺りにはこうした切り立った崖が多いのを知っているかい。追い立てられた盗賊が、断崖の先に渦巻く波に足がすくんで捕らわれたという
一歩、兄が足を踏み出す。わたしもまた一歩下がった。
向けられたまなざしは悠然としていた。いっそ、慈愛すら感じられるほどに。
微塵も疑っていないのだ。どこにも逃げ場がないわたしが、結局は彼に従うだろうと。
夕日を受け止める袂が、潮風にはためく。
風が足元を煽る。掬うように豪風がかかとの下に茂る柔草を躍らせていた。
振り返れば、はるか眼前で波が砕ける。
(どこに逃げたら……?)
躊躇した数秒のうちに、延ばされた手がわたしの手首を捕えた。思わず身が固くなり、息を飲む。
「そこまでだ」
だけど、そこに響いた声は兄のものではなく――
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