4 昔日の青年(前)
——時計の針が、またも進んだ。
「やれ、『蝶々夫人』か……」
帝國劇場。それはルネサンス様式を基調とした洋式劇場の名である。
琴子くんの父君の還暦祝いに東亰を訪れ、都内に一泊した僕たちは、翌日の夕暮れにこの日本初の本格的な洋式劇場に足を運んでいた。
彼女を実家に預け、午前中に商談を済ませた後の本日最後の予定である。
早めのディナーを済ませ、彼女の父兄を伴って観劇したオペラの題目こそが『蝶々夫人』だった。
「実に結構な作品じゃないか。お義父上がたと見るには不向きだがね」
許嫁の父兄と別れ、新橋ステイションに向かう電車を待ちながら、僕はぼやいた。
すでにガス灯にあかりが燈る時刻ということもあり、誰もが帽子を深々とかぶって帰路を急いでいる。
三月も末に近づき、周囲を漂う夜風はほのかな甘さを孕んでいた。どうやら、どこかで桃でも咲いているらしい。
その香りに誘われてか、短い前髪を風に遊ばせて周囲を眺めていた琴子くんは、愚痴っぽい僕の言葉に丸い目をこちらに向ける。
「まあ、水哉さんはお気に召しませんでした? わたしは素敵だと思ったんですけれど……」
原題は『Madama Butterfly』、日本名に『蝶々夫人』と冠せられたこの作品は、長崎を舞台に没落士族令嬢である蝶々とアメリカ海軍士官ピンカートンの悲恋を描いた、ジャコモ・プッチーニ作のオペラである。
とはいえ、一口に悲恋という美しい響きで着飾ったところで、その内情はごまかしようもない。
ことの発端から終局に至るまで、全てがピンカートンの不実、不義理、不誠実、これにつきる。
驚くべきことに、やつは蝶々を妻に迎え、子をもうけた上で本国へ帰還する。その先で今度はアメリカ女性と婚儀を挙げるのだ。蝶々は夫を信じて日本で待ち続けるが、ついに真実を知る日が来てしまった。彼女の子供はピンカートン夫妻に引き取られることになり、蝶々はついに短剣で自らの喉をついてその生涯に幕を下ろす。
「あれを素敵というには、ピンカートンの人間性があまりに出来すぎている」
無論、僕とて彼を非難できるだけの清廉潔白な人物とは言えやしないのだが。
「やつの悪どさには、さしもの僕も舌を巻いたね」
「でも……、蝶々さんの高潔さにはちょっと胸を打たれましたでしょう?」
「君はそう言うだろうとは思っていたが……、ぞっとしないね。あれでは因果も応報もあったものじゃあない。不遇を耐えるだけが美徳ではない。僕としては、デウス・エクス・マキナのほうがよほど誠実に思えるよ」
デウス・エクス・マキナとは、つまり機械仕掛けの神を指す。
古代ギリシアで好まれたが、近年でもゲーテの『ファウスト』に見られる、解決困難な悲劇を突如現れた神が解決に導くという使い古された演劇の手法だ。
カビが生えたような古臭い話運びとはいえ、自己犠牲のうちに物語に終止符を打つよりは、よほど爽快だというのが僕の持論だった。
「水哉さんは大団円がお好みなのね」
琴子くんが意外そうなのは、存外あの物語がお気に召したためかもしれなかった。
(参るね、これは)
日本の乙女というものは、一概に高潔かつ貞淑な妻となるよう育てられている。家庭教育、学校教育ともに画一されており、今もってなお女性に用意された道は少なかった。昨今では職業婦人なる人々も姿を現しつつあるが、未だ一般的な存在とは言い難い。
そんな少女たちは、かの作品の悲劇の主人公に共感できるらしい。
どうにも哀れで、僕は苦々しさに顔をゆがめた。
現実に、悲劇の糸を解く神は現れない。ゆゆえに今、僕の隣に立つ少女には自由に生きる道は許されていなかったために。
「君、彼女にあこがれるのは構わないが、追従するのはよしたまえよ」
「どういう意味ですか?」
「万一、僕が帰らないようなことがあったなら、待たずともいいということだ。君はお義父上にでも頼んで良縁を見つけるなりして……」
「……それは」
月明かりに髪を濡らし、琴子くんはじっと僕を見つめた。ガス灯のシャンパンゴールドの輝きを閉じ込めた、あえかな瞳に僕が映り込む。
「……つまり、水哉さんにはほかに、その……」
「よそに結婚を望む
その時は、せめて彼女には幸せになってほしい。
亡夫に殉じるなり、髪を切って道観に入り、夫の冥福を祈るために生涯を費やすなり、そんな前時代的な慣習など不要だ。彼女は僕のことなど忘れ、新しい人生を生きればいい。そう思って口にした言葉に、琴子くんは目を釣り上げた。
石のように身を固くして、悲痛とさえいってもいいだろう顔をして僕を睨む。
「なんてことおっしゃるんですか。もしもの話にしたって不吉すぎます」
「万一の話だよ。何事も備えはしておくべきだ。君の兄上のようにね」
「……兄さまは用意周到すぎるんです」
僕らは同時に彼女の兄君に想いを馳せた。
本日の観劇に同席した兄君は、今日も今日とて例の心配性を遺憾なく発揮していた。
琴子くんが少しでも離席すれば人さらいを疑い、彼女がくしゃみをすれば手持ちの薬を与えようとする(驚くべきことに、胃薬、頭痛薬、風邪薬とあらゆる薬をお持ちだ。その品揃えはブレット商会に匹敵するかもしれない)。さらには医者を呼びに行こうとして、父君に諫められる始末。
「そう悲観することではないだろうが。おかげで、君が愛されているのがよくよくわかった」
「そうかしら……」
彼女は少し照れくさそうな、それでいて困ったような微笑を浮かべた。
そこにようやく電車が到着する。するするとホームに滑り込み、やがて停車した車両に僕らは乗り込んだ。
ちょうど空いていた座席に琴子くんを座らせる。彼女は礼を言って、つくねんと置物のように腰かけ、話の続きを口にした。
「だけれど、兄さまったら、本当にどこか悪いのじゃないかしら。お食事の後、飲んでいた胃薬の量を御覧になりました? 前よりずっと増えたみたい」
「ふむ。服薬については、君から一度忠告しておくべき問題だろうね。漢方ならともかく、西洋の薬は副作用が顕著に表れる。睡眠障害、せん妄、肥満……。薬も過ぎれば毒となると言うじゃないか。……いや、やはり申し上げるべきではないのかな。余計な心配の種を植えつけ、かえって薬の量を増やすことになりかねない」
いかにももっともらしく想像してしまい、僕は肩をすくめた。
「昔から気の強い方じゃなかったけれど、あそこまで心配性じゃあなかったんですよ。いつからだったかしら……」
きっかけでも考え出したのか、琴子くんは顔を車窓に向けた。
そうかと思えば、ややあって口元を隠してくすくすと笑い始める。
「おや、なにか思い出したのかい」
「ええ、ごめんなさい。思い出し笑いなんて。でもわたし、おさみしそうな水哉さんを思い出しちゃったんですもの」
「うん?」
琴子くんは上機嫌に笑い、薔薇色の頬をそのままに僕を見上げる。
「おかしなことをってお思いでしょう? だけれど、今日、わたしが兄さまとお話をしているとき、水哉さんがおひとりでぽつねんとされているお姿がなんだかとってもさみしそうに見えたものだから……」
「なるほど、それはさぞさみしかったのだろうね。なにしろ、君が隣にいないのだから」
「またそうやってすぐにわたしをからかうのはおやめになって!」
「難しい相談だ。なにせ僕は本気なんだから」
彼女は信じていないようだった。
とはいえ、僕はそれ以上の訴えは飲み込んだ。彼女の言葉をきっかけに僕もひとつ思い出したことがあったために、気がそれていたともいう。
『水哉さんは、いつもさみしそうだわ』
僕はいつか、似た言葉を彼女にかけられていた。
あれはいつのことだったろう。そしていったいどうして、そんな風に思われたのか。
たしか、当時の僕はまだ、片桐の家を出て今の仕事を始めたばかりだった。
夜陰に飲まれた電車に揺られて、過去の記憶を掘り返す。家路はまだ果てなく、そのための時間は手に余っていた。
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