5 昔日の青年(中)

 片桐水哉と名付けられた男は、明治の世に商家の次男坊として生を受けた。


 片桐家は欧州で一大旋風を巻き起こしていたジャポニズム――所謂、江戸末期から明治にかけて人気を博した日本趣味——の時流に乗って、骨董品の輸出で財を成した家だ。


 家には父と母、そして兄がひとり。

 兄は生まれつき身体が弱く、日がな一日、布団のなかで過ごさねばならなかった。


「おいで、水哉。今日はなにを読んであげようか。昨日はオデュッセウスの冒険譚だったから、次は英国の怪奇譚なんてどうだい?」


 いつも退屈をしていたのだろう。

 僕が部屋の前をとおるたび、兄はそう言って弟をそばに呼び寄せた。


 英語も欧州の文化も、見知らぬ世界はすべて兄に教わった。


 優しく、おおらかで、聡明。聖人君子のように清らかな兄はなにもかもが、僕とは異なる人だった。

 兄の素直で愛情深いところも、慈しむような口調も。僕の偏屈で疑り深く、皮肉ばかり吐くこの口も。全てが似ても似つかない。


 見目も到底兄弟とは思えなかった。髪も瞳も、僕とは違う。兄は美しい黒真珠のような澄んだ色の瞳と髪の持ち主だった。


「どうして僕と兄さんはこんなにも違うんだろう」


 僕は兄の横顔を盗み見ながら、常々不思議に思っていた。

 その理由を知ったのは、ほんの偶然のことだ。


 空風の吹く季節だった。場所は屋敷の奥深く。障子に取り囲まれた、薄暗い女中部屋の前を通りかかると、その声は聞こえてきた。


「ねえ聞いた? 雪哉ゆきやさま、もう長くないそうよ」


 おしゃべりな女中たちは、その日もぺちゃくちゃと噂話に興じていた。いつもなら聞かずに通り過ぎる話も、兄のこととなれば無視もできず。


(嘘だ。兄さんが死ぬなんて。だって昨日も本を読んでくださった)


 つい立ち止まった僕は、聞いてしまった。


「ずっとお具合が悪いものね。じゃあ、水哉さまが跡取りに?」

「順当にいけばそうじゃない? お館さまだって、そのために水哉さまを引き取ったのでしょう?」


 引き取った。その言葉を聞くなり、胸がざわめいた。それはつまり、僕がこの家の一員ではなかったということに他ならないから。


 腹違いの子か、はたまた縁もゆかりもない養子か。


(ああ、そうか。だから……)


 母の愛情は、僕が物心つく頃にはすでに兄にのみ捧げられていた。


 その理由を、僕はこの時はっきりと理解した。髪や目の色の違いは関係なかったのだと。なにせ僕はあの母の子ではなかったのだから。

 僕はその足で母のもとへ向かい、真相を問いつめた。


「なぜ、これまで僕になにも教えてくださらなかったのですか」

「教える必要もないでしょう。旦那さまの子であるのは事実なのだから」


 鏡台に向かって化粧をしていた母は、コロンを胸元に降りかけて、鏡越しに僕を見た。その視線は如何なる時でも刃のように冷たくとがっている。ぽってりとした赤い唇から吐き出された言葉は、氷よりも冷え切っていた。

 それが、夫を奪った余所よその女の息子に向けられるものだと、僕はようやく合点がいった。


 彼女はずっと、僕と言葉を交わすことすら厭わしかったのだ。


「それでも、僕には知る権利があるはずだ。僕の母は今、どこにいるんですか」


 生きているのか。


 暗に秘めた問いに、彼女は煩わしげに言い捨てた。


「好き好んで知りたがるなんて、愚かな子。そういうところは母親にそっくりね。愚昧もいいところだわ。藪の蛇を自らつついて、知らずともいいことに手を出して、勝手に悲しんで被害者ぶるのね」

「誰が被害者ぶるものか。貴女はいつもそうだ。僕が正しい道を行くことはないと信じ、蔑んでいる。僕は貴女の言うような人間にはなりはしない」


 カッとなって言い返す。幼い心は生母への思慕と、彼女の名誉を守るのだという正義に突き動かされていた。


 そんな僕を見て、今日まで母と信じてきた女は愉悦に瞳を歪ませる。


「そこまで言うのなら教えてあげるわ。いいこと、よくお聞き。おまえの母はおまえを捨てて国に帰ったのよ」

「嘘だ!」

「事実よ。旦那さまに妻も子もあることも知らずにおまえを孕んで、全てを知った後になかったことにしたの。それで? そんなことを知っておまえはどうするつもり」


 彼女の嘲笑に眩暈がした。


 捨てられた。その言葉は存外、僕の胸をえぐったらしい。

 茫然として答えられずにいると、笑っていたはずの彼女は笑みを引っ込めて深々とため息をついた。


「ほんに、異人は信用ならないわ。自分の後始末もできずにごくつぶしを残していくなんて。おまえはあの母親の血を引いているのよ。正しい道を行くというのなら、できることはひとつっきり。いつまでも旦那さまの厚意に甘えず、早く出て行って親のしりぬぐいをしなさいな」


 弱々しく、傷ついた心が揺れた。母を擁護したかった。それでも見知らぬ女性を守る言葉や根拠を僕は持たなかった。

 息子であるというのに、名誉ひとつ守れない。押しつぶされそうな後ろめたさと罪悪感が胸に染みつく。


 どうして僕が彼女の部屋を出て行ったのか、それは覚えていない。


 ただひたすら、なぜ父が僕に真実を告げてくれなかったのかを考えていた。今日まで母と思っていたあの女の仕打ちを、父は知っていたはずだった。僕は彼女が母と信じて耐えてきた。違うのなら、なぜ、一言でも諫めてくれなかったのか。


 しつけと称し、食事を抜かれ、折檻を受け、冬空の下に放り出されたこともある。いつも、助けてくれたのは兄だった。

 僕が本当に息子であるというのなら、長年、父が無関心を貫いていたのはどういうわけか。


(父さんも、僕を愛していないんだ)


 父の関心は商売にのみ注がれている。母も、あの兄でさえも、興味の対象にはなりえなかった。僕らは駒だった。母は生む機械、兄は跡取り、僕は跡取りの代替品。


(この家は腐っている!)


 物心がついてから何年も経って、ようやく気づいた時には日が落ちていた。

 僕は薄暗くなった部屋で膝を抱えて泣いていた。いつの間にか、隣には兄がいた。本当なら寝ていなければならないはずの人なのに、羽織もかけずに僕に寄り添ってくれていた。


 触れた肩がじわりと熱を帯びる。

 兄の息遣いに、次第に僕は落ち着きを取り戻した。


「……母は、僕を捨てたと」


 そして、僕は先ほど聞いた話を包み隠さず話した。彼は、沈鬱な面持ちで話を聞きとげ、その黒真珠の瞳を僕に向ける。


「なにか……、事情があったのではないかな。親は、子を愛さずにはいられない。あんな母であっても、私のように不出来な息子であっても、親子の情はあるのだから」

「兄さんは愛されるに値する人だから」

「この世にそんな値はどこにもないとも。誰であれ、人を愛し、愛される権利がある。私はおまえも可愛くて仕方がないよ。だからもう泣くのはおやめ」


 兄は袖で僕の目じりをそっとぬぐった。

 涙が枯れ果てると、こっそり僕の手に琥珀糖を持たせてくれる。もうそんな甘味に喜ぶ歳でもなかったが、兄の心遣いは嬉しかった。

 一緒に食べたその甘さを、きっと僕は生涯忘れることはない。


 今思えば、兄はすべて知っていたのだろう。

 だから、僕に母の母語である英語を教えた。母の故郷である欧州の情勢、文化を教えたのだ。いつか、僕が本当の母に会いに行けるように。


 そして、ついにその時は来る。

 僕は予定していた帝国大学への受験を取りやめ、英国ダラム大学への留学を目指した。長い旅の果てで、僕は生涯の腐れ縁となるミシェル・ロレーヌに出会うことになる。その後は、やつと共に母の足跡を探り、辿った。


 当時——、もっとも今でも、極東の日本まで渡航できる人間は限られている。

 ゆえに、彼女を探し出すのにさしたる困難はなかった。


 彼女の名前はアメリア・スミス。

 アッパー・ミドル階級の淑女だ。とうに帰国していた彼女には、すでに英国人の夫との間に一人の息子がいた。


「家庭があるのなら、会いに行くのはよすべきだろうか。母は、僕を歓迎しないかもしれない。僕としても、彼女の生活を壊すのは本意ではない」


 ただでさえ、僕を生んだことで想像もできない苦労を負っただろう人だ。

 叶うなら、心穏やかに暮らしてほしい。


「なんだよ、おまえ。まさか怖気づいたのか?」

「……そうかもしれないね」


 僕を小突いたミシェルに自嘲する。

 会わずに済む理由を探すのは、きっと彼女のためだけではない。僕自身、拒絶されるのを恐れているのだ。

 だが、そんな僕の不安を吹き飛ばすように彼は笑う。


「おいおい、おまえらしくないぜ、ユキチカ! 持ち前の偉そうな態度で攻め込めよ。おまえの唯一の長所を持ち腐れるなって」

「……待ちたまえ。ミシェル、それは長所なのか?」

「自信に溢れてるっていうのは長所だろ? おまえなら大丈夫。さあ、そうと決まったら決断しろよ。会いたいか、会いたくないのか。どっちだっていいぜ。でもな、俺は今動かないと一生後悔するって断言してやる。会えなくなってからじゃ、遅いんだ」

「まるで、後悔したことがあるような口ぶりだ」

「あるに決まってる。俺なんて後悔ばっかだ。だからおまえ、俺の真似はするなよ。俺には野郎とお揃いになって喜ぶ趣味はないんだからさあ」


 ミシェルに発破をかけられ、僕は決断した。


 すべて知った日から、ずっと子供ながらにあこがれた人だ。

 彼の言うとおり、会わずに日本へ戻れば僕は必ず後悔する。それはわかりきっていて、それならば会いに行くべきだと重い腰を上げた。


(今更愛してほしいとは望まない。僕の家族になってほしいとは、望めない)


 ただ、ほんの一言で構わない。慕わしい言葉を交わしたい。


 僕はすぐに旅の手続きに着手した。

 翌日には馬車に乗り込み、固いシートに腰を落ち着けて、向かうは湖水地方の小村ニア・ソーリー。母はちょうど、その村で短い夏の余暇を過ごしていると聞いていた。


 道中、僕はひたすら緊張をしていた。それこそ車窓の牧歌的な風景すら、ほとんど記憶に残らないほどに。柄にもなく神になど祈って、何時間を過ごしたのだろう。


 ようやくたどり着いた長閑な村。静けさに包まれた池のほとりに、僕は彼女を見つけた。


 落日の気配迫る夕空は、オパールのようにその表情を絶えず変えゆく。

 斜陽。僕たちの足元に長い影が伸びた。

 彼女は樫の木に吊されたブランコに腰かけて、頬に水気を帯びた風を浴びながら本のページをめくっている。足元では、幼い少年がガチョウと戯れていた。少年が、時折なにか声をあげると、彼女がくすくすと美しい微笑をこぼす。


 それは夢のように幸福な光景だった。僕がなにより焦がれ、憧れた親子の姿だ。


「あら……、見ない顔ね」


 思わず僕が立ち尽くすと、気づいた彼女がおっとりとした微笑をそのままに声をかけてくる。


 目が合ってまず、あまり似ていない、そう思った。

 麗人の瞳は、僕と同じ色をしていたが、髪は僕とは違い、夕日に輝くはちみつ色。輝く真珠色の肌は愛されている証なのだろう。四十路を超えているはずの彼女の頬が茜色に染まりゆく。幸福に満ち溢れた、穏やかなおもざしに、僕もまた次第に落ち着きを得た。


「突然失礼。貴女がアメリア・スミスですか」

「ええ。貴方は?」

「僕の名前は、……片桐水哉」


 彼女の質問に、僕はあえて日本語で答えた。

 近くに座す、僕の弟らしい少年に知られないように。見知らぬ兄の存在が彼らの家族に不和を呼ぶことを恐れて。


 しかし、遠い東洋の言葉の響きを聞くなり、彼女の表情は凍りついた。


「カタギリ……」

「ええ。母さん、あなたに会いに来たんだ」

「……っ、知らないわ!」


 飛び上がった彼女は、即座に子供の手を引いて抱き寄せた。

 僕からかばうように、少年を胸のうちに隠して後ずさる。


「……母さん」

「来ないで! あなたなど知らないわ。知らないのよ……。だからお願い、帰って……」


 蒼白になった彼女の顔を見て、理解した、この女性は今、虚実を口にした。

 本当になにも知らないのなら、表情を変えることはない。思い当たる節が、たしかにあったのだ。その上で、彼女は僕を切り捨てた。


 知らないと、繰り返し嘘を吐き続けながら。


 この時、いつか片桐の家でえぐれた胸の傷が決定的なものとなった。いびつにひび割れた心がきしむ音が、耳の奥に響く。


(僕は不実の子だったのか?)


 それならば、生まれてこなければよかったのだ。生まれてくるより早く、花落ちて、実を結ぶこともなく死ねばよかった。


 それでも、僕は生きている。なぜかもわからないまま、ただすべてが煩わしくて厭わしい。


 もはや、言葉など信用に値しなかった。ただ一言、慕わしい言葉を交わして僕はいったいどうするつもりだったのだろう。

 無意味だ。無価値だった。言葉はいくらでも虚飾に飾れるのだから。


 結局、僕は無言で小さな村を立ち去るほかなかった。

 その後は自分でもずいぶんと荒れた数か月を過ごしたと思う。飲めない酒に溺れ、酔いつぶれては一日を無為に過ごすばかり。


 だが、感傷に浸る日々も長くは続かなかった。本国の兄の体調が悪化したため、帰国を促されたのである。


 ニア・ソーリーの母に会いに行くよう、僕の背中を押したミシェルは、僕の醜態の責任を感じているようだった。彼が申し訳なく思う必要はないにも関わらず、帰国の日にはわざわざ見送りにまでやってきた。それは根無し草のようにつかみどころのない彼にしては、珍しいことだった。


「元気でな。いつか、俺が日本に行くことがあったら案内してくれ。それまで死ぬなよ」

「さて、約束はしかねるが。知人のよしみだ、ガイド料は安くしておくとも」

「金とるのかよ」


 傷の舐めあいが無意味だと知らない歳でもなかった僕らは、つとめていつもどおり過ごして別れの挨拶を済ませた。


 そうして、僕がようやく日本に帰り着くころには、すでにひと月と半月が過ぎていた。


 七月の横浜港は蒸し暑く、蝉はかしましく、すっかり夏の息吹に飲み込まれている。緑深い山も濃密な水の香りを含んだ空気もたしかに母国のものなのに、どういうわけか、あたりにはよそよそしい空気が漂っていた。


 つまるところ、日々、目まぐるしく歩み続けるこの国は、僕が留守にしている間にすっかり忌まわしい西洋の風をまとっていたのである!


 バロック様式の橋。レンガ造りの建物。ガス灯。馬車鉄道——。


 もとより横浜は欧風の街並みだったが、もはや西洋の片隅といっても遜色のない街と化していた。否が応でも、母の国を思い出す。極東に逃げ帰ったというのに、この港街は逃げ場にはならなかった。長居は御免こうむりたい。僕は早々に横浜駅から実家に向けて旅立った。


 やがて、生家に辿り着く。

 僕を迎えてくれた兄は、ずいぶんとやせ衰えていた。頬がこけ、目は落ち窪み、到底二十代とは思えないほどやつれている。ただ、知性的な瞳の輝きは潰えることはなかったらしい。 


「おかえり、水哉。あとで私の部屋に来なさい。留守にしている間、おまえが好きだった文芸誌を集めておいた。旅の話も聞きたいからね。倫敦ロンドンが霧の都というのは本当なのかい?」

「冬はどうにもね」


 相変わらず、兄はよく喋った。

 往年の容色が失せても、兄は兄のままだ。容貌は本質を映しはしないのかもしれない。

 そう思うと、この国もまだ捨てたものではないと思えてくる。

 おかげでようやく僕は一息つくことができた。


 そして、僕は部屋に移動した兄を寝かせて、寝物語がわりに英国での生活を語って聞かせた。


「そうか、母君が……」


 兄は布団に横たわりながら、考え込むように目を閉じた。

 しばらくそのまま動かずにいたので、僕は彼が寝ているのかと勘違いしたほどだ。


「兄さん?」

「いや、残念だと思ってね。もし、私が女だったらおまえの母がわりにもなれただろうに、と」

「はは、兄さんが母さんか。そうしたら、僕も少しは孝行ができる気がするよ」


 僕らは互いに、下手な慰めを嫌っていた。世の中にはどうしようもないことがある。

 兄の余命は残り少なく、僕は寄る辺を失くそうとしている。

 時の流れに抗う術を持たない僕と兄は、そんな現実を冗談めかして笑うことしかできなかった。


「水哉。……結局、私はおまえに世話ばかりをかけて、なにも残してやれなかったね。おまえはいつも私につき合ってくれていたというのに」


 ぽつりとつぶやいた兄の目に、諦念は滲んでいなかった。ただ、静かに運命を受け入れている、そんな顔を僕に向ける。


「おまえは自由に生きなさい、私のぶんも」

「……笑えない冗談だね。生憎だが、僕は兄さんのぶんなど生きられやしない。貴方と僕は違う。僕は、貴方のように優しくない。貴方のようになど生きられない」

「いいや、むしろ私のように生きてはならない。好きに生きなさい。おまえは優しい子だから、大丈夫。これまで母を想い、私を想い、いつも人にために身を引いていた。人の都合につき合ってきた。もうじゅうぶんだよ。この家に縛られず、さみしさを埋め、幸せになる。おまえには、その権利があるのだよ」


 兄は横たわったまま顔を傾けて、窓から夜空を見上げた。

 なだれ込む青い月明かりに手を伸ばし、その光を掴む。


「水哉、今のおまえは自分が生きる意味を見失っているのだろう。それなら、探せばいい。心配は無用だとも。必ず見つかるよ。ここから出られなかった私にも、きちんと見つけられていたのだから」


 晨星落落。それが、兄との最後の会話となった。


 話し続けて疲れたのだろう、うとうととまどろみ始めた兄を残し、僕は彼の部屋を出た。自室はすでに片付けられていたので、その夜は客間で休む予定だった。

 すでに女中や下男は眠っている時刻だ。足音を忍ばせて暗い廊下を歩いていると、憤る母が声を荒げているのが聞こえた。


「では、あの子に継がせるおつもりなのですか! あんな女の子供に!」

「仕方がないだろう。雪哉はもう長くない。医者でなくともわかる。あの身体では、役には立つまい。私ももう若くはないのだから、店のためにも水哉には早々に仕事を覚えさせねば」


 この家は、変わらない。兄だけでなく、父も母も、時計の針が止まったかのようにかつてのままだ。

 会話の接ぎ穂を失くしたらしい母に、父は笑いを含んだような声で続けた。


「おまえもいい加減、アメリアを悪く言うのはよせ。あれは実にいい仕事をしてくれたよ。水哉は健常だ。あれの母親も、立派になった息子を誇らしく思っているだろうよ」


 僕は、なにも本質を見ていない男を嘲笑した。

 いくら骨董の目利きができたところで、あの男は周囲の人間すら見えていない。


(あの女性ひとは、僕を誇らしくなど思うまい)


 だが、構わなかった。彼女に望まれなかろうと、僕は兄のために全力を尽くすことができる。僕に生きる意味があるとすれば、今やそれだけだ。


 そう信じていたのに。翌日、兄は発作を起こしてあえなく息を引き取った。

 功を奏しない主治医の治療に業を煮やした母が、規定以上の薬を与えたためだった。すでに弱っていた兄は、薬の量に耐えられなかった、


(兄さん、すまない。ごめんなさい、……兄さん。生きる意味など、もう見つけられない)


 僕は、彼すら助けられなかった恩知らずだ。

 母にも父にも愛されず、ただひとり愛してくれた兄は救えず。ただむなしく呼吸を繰り返すばかりの人でなしだった。


 僕は、兄の葬儀が済むと同時に家を出た。爾来、家の敷居をまたぐどころか生まれ育った街にすら戻っていない。今後も戻ることはないだろう。


 ある時、風の噂で生家の商売が行き詰ったと聞いた。家計は傾き、母は男と駆け落ちしたのだという。父は半狂乱になって残り少ない財産にしがみつき、女中たちは離散したと。


(だから、なんだというのか。僕が家に残り、奉仕すればよかったのか。情愛のない家族のために、この身を呈して?)


 想像して自嘲した。

 やはり、僕は優しい人間などではない。遅かれ早かれ、僕は家を捨てただろう。これは運命だったのだ。

 鳥かごのなかで生きた兄が、僕の自由を望んだ時、それは決定的になってしまった。


(だから、兄さん。愛する人など、僕には見つけられまい)


 こればかりは、兄の言葉に従えない。

 僕はあの冷酷な父母の子だ。蛙の子は蛙。ただ、人でなしの子であっても、どうやら僕にはほんのわずかな善意が兄によって植えつけられていたらしい。


 妻を迎え、子をもうけたところで愛せまい。それがわかっていて、女性を弄ぶ気にもならない。愛せないのに、相手を縛り、時間を無為に奪うことは罪だ。


(それなら僕は、せいぜいひとりで自由に生きてみせるさ)


 長い冬が明けるころ、僕は来日したミシェルと再会し、横浜で商売を始めた。横浜を選んだのは商売のためであり、同時に意地だった。僕は母に関与せず、ここでひとりで生きていく。


 そう決めた僕は、やがて琴子くんに出会うことになる。否、出会ってしまった。

 どういうわけか、僕は結局あれほど嫌ったはずの鳥かごに彼女を捕えた。自由に程遠い、不自由な世界を与えた。


 こんな僕を、兄はきっと許さないだろう。

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