6 昔日の青年(後)
灰色の日々が過ぎる。
春、夏、秋が去り、再び冬が訪れた。そうして季節を幾度巡っただろう。
その日、訪れたのは公家華族の花菱家。
広大な敷地を有する庭は、庭師によって無味簡素なほど完璧に管理されていた。家人の目を楽しませるためだけに計算された草花を横目に、延々と歩く。すでに家主への挨拶は済んでおり、門へと向かっている道中だった。
花菱家のご令嬢と出会ったのは、ほんの偶然だ。
大きなリボンで頭を飾った彼女が、いきなり緑茂る紫陽花からニュッと姿を現したのである。正直な話、突然植木に人の頭が生えたのかと思った。悪趣味な人面花は、僕の姿を見るなりすっとんでやってくる。
「初めて見るお顔だわ」
そして僕の周りをぐるぐると三周ほど駆け回り、目を瞬かせた。
「この家の使用人ではないからね」
「まあ、それじゃお客さま? わたしはね、迷子なの」
だからなんだと思った。
彼女は期待するような目で僕を見つめ続ける。
「……もしや、僕を案内人にするつもりかい?」
「ええ。助けてくださる? このままだと一生戻れないかもしれないのだもの」
彼女は親に続く子ガモのように僕についてきた。僕が人さらいだったなら、こんなにも素晴らしい獲物はなかなかお目にかかれなかっただろう。実にいいカモだ。女中も令嬢を見守らずにどこでなにをしているのやらと呆れつつ、仕方なく家人のもとへ送り届けてやることにした。
その間も彼女は人懐っこく、お喋りを続けている。天気について、迷宮にも似た広い家について、仕事について……。
「あなたはなにを売ってらっしゃるの? お米? お味噌? お豆腐?」
「宝石だよ。今日はこの家の奥方が翡翠の帯どめをご所望だったんだ」
「宝石! それなら、わたしも持っているわ」
少女はごそごそと袂を漁りだす。ずいぶんととんでもない場所に保管してあるらしい。さすがは華族のご令嬢だと半ば呆れて眺めていると、目の前に現れたのはなんてことのないガラス玉だった。
彼女はそれを嬉しそうに太陽に透かして眺めだす。
「ぶどう石よ、母さまがくださったの」
通称ぶどう石とは、一般的に黄色から緑色を帯びている斜方晶系の宝石プレナイトを指す。
だが、残念ながら、彼女が持っているのは黄緑に着色された擦りガラスの玉のようだった。
「これはビードロ玉だな。ぶどう石ではないよ」
満ち足りた笑みの小娘が妙に小憎らしく、僕は突き放すように真実を告げた。
(……なにをしているんだ、僕は。子供相手に大人気ない。泣かれるぞ。適当に機嫌でも取っておけばよかったというのに)
しかし、彼女は目を丸くしたものの、涙の気配は見せない。甘やかされて育ったお嬢さまかと思いきや、存外そうでもないらしい。
「とっても物知りなのね?」
「……おかげで食い扶持には困らないよ。今のは僕が勝手に見たから、鑑定料は特別に免除しておこう」
「ありがとう。ガラス玉だったの、知らなかったわ」
「悲しいかい」
「いいえ。だってこれは、わたしにとってずっとぶどう石なの。ぶどうみたいねって母さまとお話ししたから、それでいいのよ」
あっけらかんと言われ、呆気にとられた。
子供は世の流れなど意に介さない。否、子供だからこそ、確固たる世界を内に秘めている。世事は所詮、他人事だ。現実は子供の夢想を前に意味をなさない代物なのである。
その傲慢なまでの素直さは僕にとって羨ましくもあり、腹立たしくもあった。
黙り込んだ僕を前に、彼女はまたも袂を漁りだす。次に取り出したのは小さな缶だ(ずいぶんといろいろ詰まった袂だ)。蓋を開けると、いつか兄と食べた砂糖菓子が詰まっている。
「ご覧になって。琥珀も持っているの。この間、お父さまがくださった宝物なのよ」
「……お嬢さん。残念だが、これは琥珀ではなく琥珀糖だよ」
「琥珀でしょう?」
「琥珀糖」
「琥珀」
話にならない。うんざりした。
年甲斐もなく苛立ったのは、少女のまなざしが兄の目に似ていたせいだ。真正面を見据えながら、自らの境遇を受け入れている目。重ねて見てしまったのは、僕の目の前にいつか兄と食べた砂糖菓子があったせいだろう。
どうにも彼女のそばは居心地が悪かった。
今の僕は、兄の言ったように自由に生きてなどいない。ただ、そつなく仕事をこなし、代わり映えのない日々を渡り歩くだけ。どういうわけか、強くそれを思い知らされたからだ。
「……お嬢さん。そこの隅を曲がると、家扶の部屋がある。後は君ひとりで……」
耐え切れずに逃げ出そうとしたところで、小さな手が僕のズボンを掴んだ。
「ご案内ありがとう。ここでお別れなら、あなたにこれをひとつあげるわ」
そう言って、彼女は僕に琥珀糖を差し出した。
「なぜ? 君の宝物なのだろう。礼のつもりなら結構だよ」
「それもあるけど、一番の理由はあなたがとってもさみしそうだから。元気になっていただきたいのよ」
そんなはずはないという言葉が出てこなかった。
母に捨てられ、兄を失くし、家族を置き去りにし、手元に残ったのは無機質で無味簡素な日々。金は余るほどにあったし、それなりに楽しくやってきたはずだった。
それでも満たされずにいたことを、僕はこんな小さな子供に見透かされたのだ。
子供の琥珀色の瞳が午後の日差しに透ける。可憐な笑みを浮かべ、彼女は再度琥珀糖を僕に差し出した。
「ね。持っていって。お守りなのよ。だってわたし、これをいただいた時、本当に嬉しくって元気になれたもの」
「……そうか。それなら、ひとつばかりいただいておくとしよう」
どうにもバツが悪く、僕は誤魔化すように受け取った琥珀糖をかじった。
口に含むと同時に、ほろりと溶けた砂糖菓子。それは昔、兄と食べたものと同じ味がした。
すると、どうしたわけだろう。すっと肩の荷が下りたような心地になった。
過去と現在は地続きだ。それを痛感し、懐かしい兄の気配を今一度そばに感じたような気分になったためかもしれなかった。
僕は少女に思い知らされた。今もって自由の身ではないのだと。この身ひとつでどこにでも行けたとしても、心は過去に囚われたままだったことを。
だが、自覚してしまえば同じ場所に留まることもできない。
ようやく、新しい一歩を歩めるような気がした。
……にもかかわらず、彼女はあんぐりと口を開けて、それから泣き出した。
「た、た、たべっ? 食べたっ。琴子の宝物を食べちゃったわ!?」
「待ちたまえ、なぜ泣くんだ? 琥珀糖だぞ。食べてはならないなら、僕にどうさせたかった」
「お、お守りって、わたし! 言ったっ」
泣きながら彼女は庭を掘り始めた。
聞けば、『こはくのはか』を作るらしい。あまりにもどうしようもなくて、思わず吹き出してしまう。心の底から笑ったのは、何年振りだったろう。
「残念だが、琥珀糖はもう僕の腹の内だ。その墓にはなにを埋める? 僕ごと埋めるのはよしてほしいものだね」
「…………う、埋められないわ」
埋めるべきものがないと気づき、当惑したらしい彼女にまた笑ってしまう。
「……君の名前は琴子というのかい?」
「そうよ。花菱、琴子……」
僕は立ち去るのをよして、その場にひざまずいた。子供と目線を合わせて、華奢な手を取る。
「そうか、では琴子くん。僕の名前は片桐水哉だ。今度会う時にでも僕の持っている宝物を君にくれてやるから、それで手打ちにしてくれないか」
「宝物ってなぁに?」
「宝石だよ。翡翠でも
「……それじゃいやだわ。今くださいな」
今与えたところで、彼女たち華族一家を監督する老女にでも奪われておしまいだろうが。
彼女が望むのなら、それを叶えるのも一興だろうと僕は応じることにした。
「なにがほしい? 今は商品の帯どめくらいしか持ち合わせがないな。それでよければ……」
「お友達」
「なに?」
「水哉さんが、わたしのお友達になって。それではいけない?」
欲のない子だと思った。さらに言わせてもらえるのなら、もの知らずだとも。
そんな言葉では友人は得られない。彼女は、言葉がどれほど取り繕えるものか知らないのだ。
だが、それでいい。知らずにすむのなら、それもある種の幸福だろうから。
この時、僕が抱いたのは恐らくささやかな庇護欲だった。そうして、人並みの情があることを確かめたかったのだろう。彼女に手を差し伸べ、兄の真似でもしたかったのかもしれない。
今なお、たしかなことは言えない。
わかっているのは、ただひとつ。この時以来、僕は甘いものを手放せずにいるというどうしようもない事実のみ。
それからまた、時は進んだ。
とある夜会の席で、僕は偶然に花菱家当主と同席する機会を得た。
花菱家当主長景。彼は恰幅のよさと、柔和な笑みが印象深い壮年の男だ。線の細い琴子くんにはあまり似ていないようだった。
では、彼女は細君に似たのだろうか。しかし、気位が高く、冷ややかな美貌を持つかのご婦人ともやはり似ていないように思われたのだった。
「水哉くん、いつも家内が世話になっているね。この間の珊瑚の簪は気に入ったようで、よく身に着けているよ」
「恐縮です。なにかご不便ありましたら、いつでもお申しつけください」
「うむ。伝えておくよ。それはそうと、琴子もずいぶんと君に懐いているそうじゃないか」
「はは、御冗談を」
華族令嬢とつき合うには、僕はふさわしいとは言い難い。
だが、彼は諫めることもなく、柔和な目じりに愁いをにじませる。
「そう謙遜するものではないよ。君は苦労をしてきただろう。顔を見ればわかる。そんな君だから、頼みたい」
ちょうど、きらびやかなダンスホールには重厚な弦楽器の音色が満ちていた。給仕が運んできた葡萄酒に口をつけて、彼は音に声を潜める。
「あの子は庶子なのだよ」
「……そうでしたか」
「だから、苦労をかける。琴子はなにも言わないが、私の目が届かないことも多いだろう。水哉くんさえよければ、これからもあの子の友人として接してやってくれまいか」
僕は答えることができなかった。僕ほど、彼女のような少女に不釣り合いな男もいない。それを知ってか知らずか、ご当主は人のいい笑みを浮かべて「頼むよ」と繰り返すばかりだった。
実際、彼が人情に溢れた温和な男だということは間違いない。だが、その穏やかさが時に仇となる。世界大戦がはじまり、日本が不況の波に飲まれていくと、花菱家もまた没落の一途をたどった。彼には不要なものを切り捨てることができなかったのだ。大勢の家人を守るために、優しさなど腹の足しにもならないと気づいていながらも。
すでに、琴子くんと出会って数年が経っていた。
僕は、花盛りの乙女の時を謳歌する彼女を見捨てるのが忍びなかった。だが、僕に差し出せるものといえば、味気のない金のみ。
そして、それを差し出せば今の対等な関係が崩れることも重々理解していた。金によって生まれるのは信頼ではない。主従だ。僕は彼女を従えたいわけではなかった。
(琴子くんには、自由に生きてほしい)
そのため融資を名乗り出るか悩んでいた僕は、茶会に招いてくれた彼女と庭を歩く機会を得た。
飛び石を渡りながら、琴子くんが口を開く。
「水哉さんは、いつもさみしそうだわ」
木漏れ日が彼女の肩のあたりで揺れていた。
紅の生地に咲き誇る吉祥の草花を描いた銘仙は、まぶしいほどに美しい。
見上げれば、葉の間から輝く空が金泥を塗りこめたように輝いていた。いつの間にか、また春になっていたらしい。
「心外だ。君には僕が随分と陰気で後ろめたい過去のある哀れっぽい男に見えているらしいね」
「そこまで言ってませんったら。ただ、なんだか哀愁を感じるだけです。わたしの勘違いかしら? なにかお悩みなのではなくって?」
相も変わらず、聡い娘だった。
とはいえまさか、君の家が零落するのが忍びないなどと言えるはずもない。
「心配は無用だよ。ここだけの話、君がそばにいるとさみしさを感じる暇もないから」
「どういうことですか?」
「君のことばかり考えて気を紛らわせているんだ」
「まあ、わたしのことを考えていらっしゃったの」
話を逸らせば、彼女はなぜか嬉しそうに瞳を輝かせた。
それから、僕に秘密を打ち明けるようせがむ。
「どんなこと?」
「いろいろだよ。よそ見をして歩いて縁側から庭の池に落ちたことや、
「ひどいわ、水哉さんっ。全部失敗談じゃないですか。もっと他にもあったでしょう? そんな大昔のことは忘れてくださいませ!」
「実に難しい相談だね。記憶にこびりついてしまうほど、強烈な思い出なのだが」
ぐっと言葉を飲み込んだ彼女の頬が、ぷくりと膨らむ(唇を一文字に引き結ぶと、なぜか頬が膨らむ特殊体質だということに、どうやら本人は気づいていないらしい)。
しかし、次の瞬間。彼女は早くも笑顔を浮かべていた。
くるくると変わる表情は、活動写真よりもよほど愉快で、僕は黙ってその姿を眺め続ける。
「わかりました。それなら、今おっしゃった失敗談は全部忘れてしまうくらいに、もっと強烈で楽しい思い出を差し上げます。思い出を変えることはできませんが、新しく作ることならできますから」
「それは小気味いい提案だね」
自分でも驚くほど、思いのほか素直な感想が出た。
だが、彼女は「信じてないでしょう」と不服そうだ。
もしかしたら、彼女の言うとおりだったのかもしれない。
それでも、僕は信じたかった。彼女の作る思い出とやらは、さぞかし見ものだろうと思っていた。いつの間にか、この子と同じ未来を見据えてみたいと願ってすらいた。
「……では、せめて君が結婚するまで、楽しませてもらおうか」
「どうして結婚するまでなんですか?」
「他人様の細君に手を出す趣味はないからね。誤解されるのも癪じゃないか。その時は、互いに疎遠になるべきだよ」
「それじゃ、水哉さんがわたしをお嫁さんにしてくれたらいいのに」
夢見がちな少女は、甘えるように子供らしい冗談を口にした。
それから、じわじわと頬を朱に染める。白い木蓮の花弁が、彼女にはらはらと降り注いだ。甘い香りの吹雪を頭に受ける彼女に、僕はつぶやく。
「僕は、誰と結婚するつもりもないよ。妻を敬うことも、愛することもできないから」
「……どうしてそんな風にお思いになるの?」
「思うもなにも、僕は愛情などという御大層なものを持ち合わせていない。こればかりはどうしようもないんだよ」
正直に言うと、琴子くんは唇を震わせた。ややあって、突然噴き出す。そして、お腹をかかえてころころと鈴のような笑い声をたてた。
「水哉さん、髪が花びらだらけでお花の精みたい」
「これはまたずいぶんとごつくて大きな精霊だね。そういう君も、さっきから花まみれになっているよ。取ってやるからおいで」
「いいえ、このままがいいです。せっかくお揃いなら、取っちゃうのがもったいないもの」
「お揃いなのはかまわないが、さすがにこの状態で茶室に入るわけにもいかない。僕のぶんは君に預けておこう」
僕は白い花弁をひとひらずつ摘まんで、彼女のたおやかなたなうらに乗せた。琴子くんは、やはり笑いながらそれを眺めている。
「先ほどのお話しだけれど、……水哉さんはとても愛情深くて根気強い、お優しい人だと思います。わたし、ちゃんと知っています」
「世間は僕を石のような男と呼んでいるよ。冷たく、堅苦しく、つまらないやつだとね。君は誤解しているんだ。石に花咲くことはないんだから」
「そんなことないわ。
琴子くんは、花の名前を出して僕の言葉をあげつらった。
「棘どころか毒のある花だね。実際には毒にも薬にもならない男だが」
そもそも字面に石とあるだけで、実際に石から生えるわけでもなし。苦しい反論だ。
「そんなことばかりおっしゃらないで。水哉さんはご存知ないだけなのよ。本当はとってもお優しい人だって」
だが、彼女が言うと、荒唐無稽な誉め言葉も事実のような気がするから不思議だ。琴子くんの言葉には、信じたくなるなにかがあるのかもしれない。
「そうか。君、それは驚くべき事実だよ。僕ですら予想もしていなかったね」
「そうでしょう、ずっとわたしの秘密だったんです。あ、でも、水哉さんも今知ってしまったから、わたしたちふたりの秘密になったんだわ」
「秘密、か。ところで、どうして僕が優しいなどと思ったのか、理由は教えてくれないのかい」
「ふふふ、水哉さんはもうご存知ですよ。だって、わたしは水哉さんを見ていてそう思ったのだもの。だから、誰より一番、あなたがわかっているはずです」
「残念ながら、わからないな」
「それなら、胸に手を当てて考えてくださいな」
結局、今に至るまで彼女はその時の答えを教えてくれないままだ。
だから、僕は時折考える。なぜ、琴子くんはこんな人でなしが優しいなどと誤解したのだろう。
わからない。わからないが、それは僕にとってたしかに救いだった。たったひとりでも、僕を信じてくれる人がいる。事実はどうあれ、彼女のなかで僕は人らしく生きている。そう思った瞬間、僕は生きていてもよいのだと感じた。彼女の瞳をとおして、荒んだ心が凪いでいった。
愚かしいことだ。彼女の目に映る美しい世界は、僕の現実と交わらない。現実に僕が人になれるわけではない。それでも、彼女の世界が愛おしかった。
だが、琴子くんは間もなく見知らぬ男の妻となる。僕にはそれが耐えがたい苦痛だった。
僕は、けっしてよい夫にはなれないだろう。なにせ、あの母と父の血が流れている。わかっていたはずなのに、その上で求めてしまった。それが、新しい僕の罪となると知りながら。
「すべて諦めて僕のもとに嫁ぎなさい」
彼女を罪人の妻にすると知った上で、僕は残酷な言葉を吐いた。
こんな男に愛など囁けるはずもない。形にならず、なんの保障にもならない言葉も尽くせなかった。
(彼女は、僕を許さないだろうな)
茶会の後、花菱家への融資の条件として僕は彼女を求めた。直接に提案をしたのは彼女の父だが、そう仕向けたのは僕だ。僕は金で彼女を買ってしまった卑怯者だ。
恐らく、琴子くんもそう思っているのだろう。ひとつ屋根の下で暮らそうと。彼女は婚約指輪をはめることはない。
夢見がちな彼女のことだ。恋をしていたかもしれない。それでなくとも、美しい恋物語を思い描いていたかもしれない。その相手役を見知らぬ男に譲れず、奪い取った。打算しかない僕は彼女にふさわしくなかった。
だからこそ、なおさら胸の内を吐露することを恐れた。謗られたくない。彼女にだけは拒絶されたくない。母を追って、英国を訪れたあの日から、僕は変わらず臆病なままだ。
(君に、愛していると言えたならよかったのに)
花顔をほころばせて微笑する彼女を見ていると、時折たまらない気持ちになる。
馬鹿馬鹿しい話だ。今更恐れたところでどうにもならない。賽は投げられた。すべてはすでに手遅れなのだから。
「……片桐の旦那」
ふと、呼びかけられて顔を上げる。目の前に、艶美な笑みを浮かべる女が座していた。
さざなみのように三味線と笛の音色が混ざり合い、宙に溶けていく。
花残月の夕べ。すでに、琴子くんと東京に出た際に感じた桃の香りは遠い。
代わりに脂粉の香りが鼻孔をかすめ、甘い声が耳朶をくすぐった。
「なにを考えてらっしゃるの? 今夜はずっと上の空ね」
「失礼。次になにを仕入れようか、悩んでいたもので」
「あら、お仕事道具の仕入れ? それなら、あたしが立候補しちゃおうかしら」
「おやめ。今夜の旦那がお望みなのは胡蝶の夢、あんたの出番はないよ」
女たちの軽口に、座敷は一層賑々しさを増す。金襴緞子で着飾った麗人に囲まれながら、僕はひそやかにため息を吐いた。
開け放たれた窓から見える日月星辰の様子は、行灯のあかり眩しい屋内からはうかがい知れない。まるで未来のようだった。一寸先は闇だ。もう早々に家に帰って綾絹の褥で休みたい。
(琴子くんは、今夜も僕を待っているだろうか)
彼女を家に残して、別の女と会う時間を割くなど自分でも呆れる。僕は苦々しさを飲み込まず、二度目のため息として吐き出した。
やはり、僕は彼女にふさわしくない男なのだ。
それを嫌というほどに思い知ったために。
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