7 フレッシュ・ガールの過ち
「ふっふっふっふ……」
その日、わたしは教室に入るなり既視感に襲われた。
それもそのはず、仁王立ちのゆりえさんが先日とまったく同じ笑顔を浮かべて、わたしを待ちかねていたからだ(今日も今日とて、お手本のようなニヤリスト!)。
「ご、御機嫌よう」
「ええ、御機嫌よう」
にっこりと怪しいまでにきらめく笑顔。ついでに眼鏡もきらきらどころか、ギラギラと輝いている。わたしは恐る恐る彼女のわきを通り過ぎ、席に着いた。
するとやはり、すぐさま彼女も席につく。もちろん、わたしの隣だ。
これもまったく先日と同じ動作!
「……ゆりえさん、今日はどうなさったの?」
「んっふっふ、聞いて驚きになってちょうだいな! なんとあたしったら、昨晩も花菱さんたちが一緒にいらっしゃるのを拝見しちゃったのよ」
「まあ、お熱いこと!」
すでに季節は四月に入っていた。
いつの間にか、桜の花は散り、青葉が光り輝いている。
窓辺から差し込む長閑な日差しを浴びながら、前の席の野々村さんがぱたぱたと手で顔を仰いで振り返った。
いったいなんのお話なのかすらわかっていないのは、どうやらわたしだけの模様。
「……昨晩?」
おそらく、ゆりえさんが言っているのはわたしと水哉さんのことだろう。
だけれど、思い当たる節はない。
「昨日はわたし、ずっと家にいたわ。本を読んでいたの。ゆりえさんの見間違いではなくって?」
「まさか、絶対に間違いはないわ。この眼鏡にかけてもよくってよ!」
「まあ、眼鏡はかけるものだものね」
野々村さんが大真面目な顔をして相槌をうつ。
ゆりえさんは自信たっぷりに、眼鏡をくいっと押し上げた。
「とにかくねえ、この眼鏡のおかげであたしの視界は良好。見間違いなんて絶対しないわ。それに御夫君はとっても目立つ方でしょう?」
たしかに彼女の言うとおり、水哉さんは人目を引く容姿の持ち主だ。
銀灰色の髪も、春の青空のような瞳も、まるでひとつの芸術作品のように美しい。ほかの人と見間違えるなんて、そうそうないだろう。
「あたし、昨日は文運堂のノートを買いに行くついでに、散歩をしていたの。そうしたら、あっという間に空は真っ暗、門限過ぎているじゃない! 焦って俥に飛び乗ったところで、おふたりをお見かけしたのよ。たしか、関内のあたりだったと思うわ」
「関内って。どうしてまたそんなところに?」
わたしはびっくりして問いかけた。
関内は花街があるため、女学校の校則では出歩くことが禁じられている区画だ。わたしも行ったことはない。
「ゆりえさんはフレッシュ・ガールなのだもの。暴走機関車、手綱の切れたじゃじゃ馬、自由の女神なのよ。校則なんかで止められるものですか。昨夜だって、窓から寮のお部屋にお戻りよ」
「だって入り口に猟犬ケルベロスみたいなお顔の寮母さんがいらっしゃるのだもの。正面突破なんて想像しただけでぞっとしちゃう」
野々村さんの言うフレッシュ・ガールとは、はつらつたるお嬢さんのことだ。たしかにゆりえさんにぴったりの呼びかけだけれども、わたしはやはり首を傾げた。
「だけどわたし、本当に……」
「……はっ! や、やっぱりあたしの見間違いだったかもだわ」
「急にどうなさったの」
「いえ、なんだかそんな気がしてきたの。だからきっとそうね。そうだわ。そういうこと。ところでおふたりとも、宿題はもう終わっていて?」
突然、ゆりえさんが話を逸らす。
けれども、かえってそのためにわたしと野々村さんもひとつの可能性に思い至ってしまった。
花街で殿方が女性と歩く。その理由として考えられるのはひとつきり。
女学校の教室では話題にあげるのも気まずい、『芸者遊び』である。
わたしたちも同じ結論に思い至ったことを悟ってか、ゆりえさんは珍しく肩を落とした。
「ごめんなさいね。あたし今、きっととっても余計なことを言ったわ……」
「気になさらないで。わたしは大丈夫だから」
あの木枯らし吹く夕暮れ、水哉さんのお気持ちを知ったわたしは改めて心に決めた。
わたしは彼に求められる役目だけ果たす。そうすることで、そばにいられるのならそれでじゅうぶんだから、と。
そのはずなのに、結局その日のわたしは一日ぼんやりしてしまったのだった。
* * *
(しかも、来てしまったのだわ……)
放課後。
ふらふらぼんやりと有隣堂に寄り道した私は、そのまま横浜を徘徊し、ついには関内にまでやってきてしまった。
夕暮れ前の花街にはまだそれほど多くの人通りはない。
当然、水哉さんの姿も見当たらない。
開いている雑貨屋の店頭には伊東胡蝶園の練り白粉、中山太陽堂のクラブ美身クリーム、桃谷順天館の美顔水など、芸妓向けなのだろう、美容品が並んでいた。
雑貨屋をのぞき見した後、今度はほとんど売り切れてしまった和菓子屋さんや、仕込み中の料亭の前を通り過ぎる。
(もし、母さまが生きていたなら、わたしは今でも花街に住んでいたのかしら)
きっと、水哉さんと知り合うこともなく、半玉として芸者修行にいそしんでいた。もしかしたら、水揚げが済んで今頃は芸者になっていたかもしれない。
(そうして、いつか花街で水哉さんと会えたかしら)
想像して笑ってしまった。きっとそんなことになったら、わたしは今と同じように彼に会えるのを待ち遠しく思うに違いない。
(違う人生でも、わたしは今とほとんど変わらないなんておかしいわ)
往来をやや強い風が吹きぬける。そうかと思えば、やがて涙雨が降り出した。
水滴がぽつぽつと路面を色濃く濡らす。とたんに薄暗さの増した往来には、赤提灯が燈りだした。
そろそろ帰らなければならないとわかっているのに、わたしはパラソルをさして、どこからか聞こえてきた三味線の音に誘われて歩き続ける。
自分でも気づかないほど、ゆりえさんの言葉が気になっていたのかもしれない。
せっかく覚悟を決めたのに、これではいけないと頬を叩く。気合を入れなおし、町はずれまで来たのもあって、わたしは家に帰る決心をつけた。
踵を返す。そして、――早々にわたしの足は止まってしまった。
なにせ、すぐ横に停まった車から水哉さんが下りてきたのだから。
「琴子くん、やはり君か」
「水哉さんっ……」
宵の気配を含んだ青い空気が、周囲に漂っている。雨のなか、まるで水底に沈んでいるような心地だった。けれど、雨音にかき消されることなく彼の声は届いた。目の前には凪いだ湖の色をした、水哉さんの瞳。静かな視線が絡み合う。
「え、なに? なんでコトコ?」
続いて、ロレーヌさんまで車から降りてきた。
ふたりはわたしを前にして顔を見合わせる。
「なにしてるんだ、こんなとこで?」
「わ、わたしは、ええと、少しお散歩を」
「こんな場所で?」
ロレーヌさんの質問にたどたどしく答えると、水哉さんが声を尖らす。
「水哉さんこそ、まさかここでロレーヌさんと逢引きを……?」
もしや、昨日ゆりえさんが見たという水哉さんと連れ添っていたもうひとりの正体は彼なのでは。
思わず問いかけてしまえば、水哉さんは苦虫を嚙み潰したような顔をした。わたしは慌てて首を振る。
「ごめんなさい。出過ぎた質問を」
「そうじゃない。なぜ僕がこの男と逢引きしなければならないのかという疑問は尽きないが……。とにかく、車に乗りなさい。ここは君にふさわしくない」
すたすたと大股で歩み寄ってきた水哉さんに手首を掴まれる。
「えっ、まさかこのまま帰るのかよ?」
「琴子くんをここに置いていくわけにもいくまい。ちょうど、連日『田島屋』の一室を占拠するのも心苦しいと思っていたところだ」
残念そうなロレーヌさんを素通りして、水哉さんはわたしを車に乗せた。
水哉さんがお仕事でときおり使う車だ。その後部座席に腰かけて、わたしは可能な限り身を小さくした(今ほどナメクジになって塩を浴びたい気分になったことはない)。
だってまさか、こんなところでお会いしてしまうとは。
けれども、その疑問を抱いたのは水哉さんも同じらしい。
運転席に戻り、腕を組んだ彼に改めて問われる。
「それで、君はどうしてここにいたんだい」
言いづらい。されど、今更黙秘もできず。
助手席に乗り込んだロレーヌさんの肩をちらりと見て、わたしは小声で懺悔した。
「水哉さんとわたしが、昨夜一緒に関内を歩いているのを見たというクラスのお友達がいたんです」
「……? 君は昨夜、家にいただろう」
「だからかえって気になってしまって、……つい、確認をと……」
思い切って告げると、ロレーヌさんがぽんっと手を打った。
「わかった。それって、ドッペルゲンガーだろ」
「なんですか、それ?」
「もうひとりの自分の妖怪だぜ」
「わ、わたしの妖怪がいるんですかっ?」
衝撃の新事実だ。震えあがったわたしに、水哉さんが耐えかねたようにため息を吐く。
「ミシェル、くだらない冗談はよしたまえよ。文明開化もはるか昔のこのご時世に、そんなものがいるはずないだろう。彼女の友人が見たというのは、生きた人間に違いない。それならば……僕としても、思い当たる節がないでもない」
珍しいことに、水哉さんが言い淀んだ。
「げ……芸者さんかしら」
恐る恐る尋ねると、びくりと水哉さんが反応した。
そのままぶるぶると震えだしたかと思えば、ロレーヌさんをびしりと指さす。
「……っ、ええい、君のせいだぞ、ミシェル!」
そして、声高にミシェルさんへ罪をなすりつける。
「だから、僕は嫌だと言ったんだ。やはり余計な誤解をされたじゃないか!」
「やだ怒られた怖い」
ぎゅっと両手で身体を抱いたロレーヌさんに、水哉さんが冷たいまなざしを送る。
まだまだ言葉は尽きないようだけれど、ぐっと飲み込み咳払い。それから彼はわたしに視線を移した。
「君が誤解しているようだからはっきり言うが、僕は昨日たしかによその女性と会っていた」
「そうでしたの」
心が暗く沈む。
「それも、ミシェルの贔屓のためにね。彼女はミシェルを毛嫌いしている上に、この男は日本語が書けないから僕が文を代筆して届けたというわけなのだよ」
心が復活した。それどころか、ぱあっと花咲き春が来たような心地だ。復活祭。
「つまり、水哉さんはロレーヌさんの恋の媒介をしてらっしゃるということ? 素敵だわ」
「素敵なものか。おかげで君を巻き込んだ。そもそも分が悪い勝負だよ。なにせ相手は今時珍しいほどに気位の高い芸妓だからね。昨夜など顔も見せてくれなかった。そこで、帰り際に
水哉さんは髪をかきあげ、深いため息をついた。
「なんにせよ、もうここには来ないと約束しよう」
「それは困るぜ、ユキチカ! おまえがいないと、コチョウは俺に会ってもくれないんだ。今夜だってそのために来たってのに!」
「もうあきらめたまえ。女性は一度嫌ったものに心動かされることはないのだよ。往生際が悪いぞ」
「おまえにだけは言われたくないな! なあ頼むよ、コトコ。助けると思ってこいつを俺に貸してくれ」
水哉さんにすげなく袖にされたロレーヌさんは、今度はわたしの手をぎゅっと取った。
すかさず、水哉さんが彼の手をはたき落とす。
けれども、ロレーヌさんは気にも留めずに自らの恋愛譚を語って聞かせてくれた。
「一目ぼれだったんだ。彼女を見た瞬間、心が洗われたような心地だったよ。天女がいるなら、こんな人だろうって思った」
「君は恋をするといつも同じことを言う。以前はヴィーナスに仙女にマリア、今度は天女か」
「今回は本当の本当に運命なんだ!」
今年の初め、仕事の会合で向かったお座敷で彼が出会った芸者の名は胡蝶。
関内どころか横浜一の売れっ子芸者だという。胡蝶の夢の故事にかけ、夢か現かもわからないほどの一夜を約束するのが売りだとか、その名は東亰どころか京都にまで轟いているとか、なんとか。
「こんな気持ちは初めてだ。初めて出会った日から、コチョウが忘れられない。俺の全財産かけたっていいね」
「そう言って、何人もの男が蜜を吸いつくされたんだ。彼女たちは座敷で夢を見せるのが仕事だ。ゆえに金の切れ目が縁の切れ目。料亭を出たなら目を覚まして、現実に向き合うべきだね」
水哉さんはこめかみ辺りを人差し指でたたきながら言った。
けれども、忠告を受けたロレーヌさんは不服そうだ。
「たしかにそうだろうけど、夢のなかにだって本当のことがあるだろ? 俺が彼女に会えなくてつらいのも、貢いでいて楽しいのも、感じた気持ちは全部真実だ」
「本当にお好きなのね。どうしてその方は会ってくださらないの? ロレーヌさんはお客さまなんでしょう?」
「外国人を毛嫌いしているのさ。当然、相の子の僕も好かれちゃいないだろうね」
「まあ、水哉さんまで?」
水哉さんもロレーヌさんもいい方なのに。
わたしが眉を落とすと、ロレーヌさんはぬっと身を乗り出した。その目はきらきらと輝いている。
「そうだ。コトコなら、日本人だし大丈夫だろ。橋渡ししてくれないか?」
「ミシェル! 琴子くんにそんなことは……」
「やります」
すぐさま頷くと、水哉さんとなぜか言い出しっぺのロレーヌさんまで固まった。
「えっ、本当に? いいのかよ?」
「もちろんです。だって、ロレーヌさんにはいつもお世話になっているもの。お力になれることがあるならします。ね、水哉さん。いいでしょう?」
「駄目だ。華族令嬢が芸者と花街で逢引きなぞしてみたまえ。醜聞もいいところだ。明日の朝刊の一面を飾りかねない」
それにはさすがに困ってしまう。
父さまや兄さまにも多大なる迷惑をかけてしまうだろう。
とはいえ、ロレーヌさんが困っているのに見て見ぬふりをすることもできず。わたしは目を泳がせた。はてさてどうしたらいいのか、さっぱりわからない。
「ユキチカァ……」
「水哉さん……」
わたしたちが哀れっぽく呼びかけると、水哉さんはこの世のすべてを視界から締め出すように目を固く閉じる。
「……僕が共に行くのが条件だ」
そして最後の最後にぽつりと譲歩を口にした。
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