8 花街の悪夢

「いいかい、僕がこんなことを許すのも今夜ぎりだ。そもそもこんな不自然なこともなかなかない。本来なら、少女を連れて花街に来る男など女衒くらいのものなんだ。わかっているのかい」

「わかっています。今日わたしの我儘を聞いてくださったことにも、感謝しています」


 軽やかな三味線と長唄が夜風に絡む料亭、田島屋の一室。

 遠い部屋から響く、酔いに身を委ねた男の人たちのわらいさざめく声を背に、わたしは水哉さんにこんこんと言い聞かされていた。


 せめて書生の恰好か、女中さんの恰好をしてくるべきだったのかもしれない。さすがに校章は外したけれど、女学生と一目でわかる恰好は目立つ。とにかく彼は、いつものようにわたしが隣にいるのが落ち着かないらしい。


 ……お座敷遊びについてくる女の子など前代未聞だろうから、気持ちはわからないでもないけれど(そもそも花街育ちとはいえ、わたしだってお座敷に上がるのは初めてなので緊張してしまっている)。


「それにしても、ロレーヌさんが苦しい恋をなさっているなんて存じ上げませんでした。あんなに楽しくてお優しい方なのに、ままならないものですね」


 ロレーヌさんは恋する胡蝶さんに拒否されているため、料亭の表に停めた車のなかで吉報を待っている。置いてきぼりのようで、なんだか可哀想だ。


「先方がミシェルを嫌うのもわかるさ。ここは日本であって、あの男は異人だ。誰もが蝶々夫人にはなりたくないものなのだからね」


 水哉さんは肩をすくめて、ずいぶん挑発的な台詞を口にした。


「蝶々夫人にたとえたらあんまりです。だってロレーヌさんとピンカートンは違うでしょう?」

「ミシェル自身がどうあれ、やむを得ない事情で祖国に引き上げる日が来ないとも限らない。明治期に技師としてもてはやされた独逸ドイツ人ですら、先の大戦では捕虜として収容されたのが記憶に新しいじゃないか。もしもこの先、日本が仏蘭西と戦うことになったら、彼もあるいは帰国を余儀なくされるかもしれない。その時、この国でできた恋人は置いていかざるをえないだろうね」


 連れ帰ったところで敵国人、針のむしろなのだから、別れこそが優しさになるのだとしても。愛していても、死地で生きていく決断を下すことは容易ではない。それは、わたしにだってわかっていた。


 だからこそ答えられずにいると、目を伏せた水哉さんの額に銀灰色の前髪がさらりと流れる。


「本人の意思にかかわらず、この世は進んでいく。だから、君も考えるべきだと言ったんだ。僕としては琴子くんが今後どのような道を選ぼうと、生涯困らないだけの遺産は残すつもりでいるがね」


 三月、東京へ出向いた時のことだ。


 水哉さんはわたしに『万一、僕が帰らないようなことがあったなら、待たずともいい』と切り出した。

 この人は、自分がいなくなる時のことをさもなんでもないような顔をして口にする。今もきっと、この話がわたしにとって想像すら恐ろしい仮定だとは知りもせずに繰り返しているのだろう。


「……わたしはなにがあっても、お待ちします。頼まれたって不義など働きません。再婚も……。夫婦は二世といいますから」


 実際にはまだ夫婦にもなっていないのだけれども、せめてそのくらいの未来は信じたい。


「つまり君の来世も僕のものというわけかい。それは悪くないね」


 意地になって言い返したわたしに、水哉さんは目を細めて冗談めかした。そんな彼を、少しうらやましいと思ってしまう。


「……男の子になりたかったわ、わたし」


 師弟は七世のつながりがあるのだという。夫婦の二世より師弟の七世のほうが慕わしい人のそばに長くいられる。どうせ恋によって結ばれることはないのなら、彼の部下や書生になっておそばに置いてほしかった。


「それは困るな」


 それなのに、どういうわけか水哉さんは眉根を寄せる。


 彼はさらになにかを言いかけた。

 けれど、そこへ満面の笑みを浮かべた女性がもみ手でやってきてしまい、会話が途絶える。


 おそらく、女将さんだろう。彼女の背後には、黒々とした髪を結いあげた細面の美人がふたり。どちらも牡丹か芍薬か見まがうほどの艶麗な芸者だ。


「片桐の旦那、本日もようこそおいでくださいました。お連れ様も、お待たせしてしまい申し訳ございませんねえ」

「やれ、焦らすのが胡蝶の趣味なのだと思っていたから、謝罪などされると困ってしまうな」

「ええ、ええ。それはもう、我儘娘の教育が行き届かず本当に申し訳ない限りで……」

「なに、彼女の意向を無視して無理を言っているのはこちらだ。責めるつもりはないとも。くれぐれも無理強いするのはよしたまえよ」

「はあ、いつもお気遣いいただいてありがたい限りです。それでその胡蝶なのですが……今夜はぜひともお会いしたいと申しておりまして、ただ、その条件が」

「なんだい」

「お連れ様のみならば、と」


 女将さんは恐縮しきった様子で、しきりに手をもんでいる。

 どこからどうみても困惑している。けれどもそれはこちらも同じ。


 まったく想定していなかった展開に、わたしは水哉さんと目を見合わせた。



 * * *



 百花繚乱の花園。

 華やかな内装の廊下を渡り、たどり着いた一室でわたしはひとり、彼女と対面していた。


 イ草の香りが清々しい、青々とした畳の縁は香織の模様。清雅な筆致の襖絵は花鳥画、床の間には花海棠が活けられおり、欄間には松の意匠が施されている。


 彼女はそのどれにも勝る、嫋々じょうじょうたる花顔玉葉の持ち主だった。


(この方が、ミシェルさんの……)


 酔蝶花と呼ばれる植物がある。花弁の桃色が次第に薄く色が変わっていく様子を酔った蝶に見立てた花だ。

 完成された色香を帯びている彼女はまさに、飛び立ち舞う花の蝶のようだった。それこそ、同じ女であっても惚れ惚れとしてしまう。


「胡蝶と申します。どうぞ以後お見知りおきを」

「わたしは花菱琴子です。ロレーヌさんの件でお話をさせていただきたくて今日は……、……」


 思わず見惚れてしまったわたしに、彼女はゆうるりと微笑した。


「どうされました」

「あ……、ごめんなさい。あんまりにもおきれいな方で驚いてしまって」

「あら、嬉しいことをおっしゃる。けれどもここは花街。美しい花は、休みなく咲いております。ただ、枯れない花がないだけ」


 婀娜あだっぽくためいきをついて、彼女は目を細めた。


「ささ、まずはおひとついかが」

「い、いえ、わたしお酒は……」

「それではお茶をお入れしましょう」


 胡蝶さんがわたしの食事の給仕を始めたので慌ててしまう。今日はお座敷を楽しみに来たわけではないのだ。


「あの、わたし今日は……、その、ロレーヌさんについてお聞きしたくて」

「お聞きしましょう。されど、どうぞこのままおもてなしさせてくださいまし。それが私の仕事ですから、今夜はお嬢さんに心を尽くしてお仕えしたいのです」


 仕事と言われてしまうと弱い。けれども、この代金を払うのが水哉さんだと思うと、わたしは恐縮して料理の味もわからなくなってしまう。


「さて、まずはなにから伺いましょう」


 それでも胡蝶さんに問いかけられ、わたしは目的を果たさんと気持ちを奮い立たせた。


「ロレーヌさんは、胡蝶さんにお会いしたがっています。どうしてお会いしてくださらないのか、教えていただきたいんです」


 私生活ならともかく、お座敷仕事だ。

 先ほどの女将さんを見るに、彼女もまた困惑している様子だった。

 たとえ売れっ子であっても、胡蝶さんが女将さんの意向を無視してまでお客さんを選ぶのはよほどの理由があるはず。


 率直に尋ねると、彼女は鈴を転がすような声でころころと笑った。


「簡単なことです。ロレーヌの旦那が、私のような者に本気になっていらっしゃるから」

「それはいけないことですか?」


 花街でなくともままあることだ。

 たとえ、望まれない恋でも想うことさえ許されないだろうか。


「それは旦那の自由でしょうね。けれども、あの方は、私を手に入れたがっていらっしゃる。恋の名を振りかざし、自ら報われようとするのはいけません」


 艶やかな目元を細める彼女の心意は、わたしには読めない。


「殿方は白昼夢にうつつを抜かしてはならないのです。叶わぬ夢を追い続けるのも不憫なら、お目を覚ましていただくほかないでしょう」

「それは……絶対に叶いませんか?」

「ええ。網の目にさえ恋風がたまる、などと申しますけれど、色恋にふけるのは私の矜持にもとります」

「けれど、恋は矜持に背くでしょう?」


 恋は理性や理屈で抑え込めるものではない。私はそれを、身に染みて知っている。


「おもしろいお嬢さんね、お土産にお菓子をさしあげましょう」

「ど、どうもありがとう存じます……」


 手のなかに金平糖の包みを握らされた。まるきり子供扱いだ。

 けれど、ここに来たのが水哉さんなら、きっと金平糖に大喜びして心を掴まれてしまったに違いない。


「おっしゃるとおり、恋をすると人は正気を失くします。まるで美酒のようではありませんか。快い酔いに人をいざなうけれど、深くはまり込んだ先に待つのは酩酊ばかりなんて」


 お茶を飲み終わると、彼女が九谷焼の湯飲みにまたお茶を注いでくれる。受け取った湯呑は熱を帯びており、わたしはしばし器を指先で遊んだ。


「お嬢さんは、美酒と恋の決定的な違いをご存知?」

「……わかりません」

「目に見える酒と異なり、恋は目の前にあると気づいた時にはもう手遅れ。深い酔いにむしばまれているということだけでしてよ」


 もの悲しいほどに冷たい声が、宵の空気に溶ける。


「お嬢さんは、恋をしてらっしゃるのね。お相手は片桐の旦那かしら。初めはロレーヌの旦那かと思ったけれど、それなら媒介するのはおかしいですものね。きっと片桐の旦那と私の仲をお疑いだったのでしょう? だから、今夜この席にいらしたんだわ」


 花街に来たのは、たしかに彼女の言うとおりの理由だった。図星をさされて、頬に熱がさす。思わずうつむけば、胡蝶さんはくすりと笑った。


「けれど、安心なさって。私は誰にも恋をしません」

「胡蝶さんは……、これまでも恋をされたことがありませんか?」

「いいえ、かつては私も燃えるような恋をいたしました」


 その想いはついぞ達せられなかったのだろう。だから、彼女の言葉はどこか冷ややかなのだ。未だに気を抜けば身を焼く想いが胸に残るために、冷たく切り離すほかない。


「恋も容姿も、すべてが美しいままでいられたらと願わずにいられませんわ。誰もが、懐かしい思い出のなかで生きていけたならと」

「それでも……、わたしは変わってこそ美しいのだと思います」

「枯れない花をお望みではない? 最後には腐り落ちると知りながら? 女はほんのわずかなひと時を、美しさで殿方の目を楽しませておしまいなのかしら」

「いいえ、そうじゃないんです。花は実を結びます。実は種になり、やがては芽吹いてまた花を咲かせるはずです。その花は美しい蝶だって育みます。それは人も花も、……恋も同じだと思うんです」


 いつかなにかを育むなら、今あるものの全てに意味がある。

 ただ、わたしがそう信じたいだけだったけれど。


 大人の彼女と子供のわたしの意見はきっと違う。

 それでも、胡蝶さんがこんな話をわたしにした理由は、なんとなく察しがついていた。


 きっとこの女性は、ロレーヌさんが本気で恋焦がれている限り、彼と顔を合わせるつもりはない。


「あの……。もし、ロレーヌさんがお座敷でのすべてを夢だと割り切ったら、胡蝶さんはまたお会いしてくださいますか?」

「所詮、私は芸者です。旦那が芸者遊びと割り切っていらっしゃるのなら、お断りはいたしません。その時はどうぞおいでくださいとお伝えくださいまし」


 笑顔でもたらされた宣告を最後に、座敷に漂っていたほのかなもの悲しさが消えた。



 ——結局、その後も彼女の心づくしのおもてなしを堪能してしまったわたしは、すごすごと料亭を退散することになった。


(本当にきれいな方だったけれど、なんだか謎めいていて本心が読めなかったわ)


 ロレーヌさんの使いの役目も、半分も果たせたか怪しいところだ。とはいえ、これ以上の長居もできず、幇間の案内で外に出たわたしは水哉さんの姿を探す。


 パラソルの下で見渡した街は、霧雨にしっとりと包まれていた。黒檀のように黒く染まった路地を、店の窓から零れるあかりが照らしだす。


(水哉さんは外で待っていらっしゃると聞いていたけれど)


 どうやら、わたしは裏口に出てしまったらしい。あたりには水哉さんどころか、ひと気のない暗い路地がどこまでも続いている。振り返った先にも、すでに案内してくれた幇間の姿はなかった。


 車を停めたのは表通りのため、水哉さんは料亭を挟んだ向こう側にいるのだろう。


(路地裏を通れば回れるかしら)


 なかに戻っては、せっかく見送ってくれた幇間の間違いを指摘するようで申し訳ない。そのため急いで水哉さんに合流しようと、わたしが路地裏に足を踏み入れた時だった。


「おっと、お嬢ちゃん。あんたはこっちだぜ」

「……っ?」


 突然、暗闇から伸びてきた腕に肩を掴まれた。

 そのまま強引に腕を引かれて、パラソルを落とす。悲鳴は、汗臭い手に口を覆われて喉の奥に掻き消えた。あまりに突然の出来事に、なにが起きたのかもわからず身体が固くなる。


「へへっ、いい子だ。大人しくしてりゃ、殺しはしねえよ」


 直後、暗闇に引きずられそうになり、混乱しながらもわたしは逃げだそうともがいた。けれど、もみ合ううちに口だけでなく、鼻まで覆われて息苦しさに四肢から力が抜けていく。


 男は殺しはしないと言ったが、その言葉を信用できるはずもなく。

 わたしは力を振り絞り、死に物狂いで男の脛を蹴って、口をふさぐ手に噛みついた。


「いてっ! こいつ、噛みやがったな!」

「やっ、誰か……っ!」


 助けを求めて叫んだ次の瞬間には、髪を鷲掴みにされていた。

 乱暴に壁に押さえつけられて、身がすくむ。悲鳴を上げたくても、声が出ない。あまりに恐ろしくて身体がこわばっていた。


 大通りから差し込むかぼ細い提灯のあかりのなかで、太い腕の影が降り上げられる。

 思わず身構えたけれど、痛みはなかった。



 振り落とされた腕をとっさに掴んだ人がいたからだ。


「……なにをしている?」


 それは、体の芯から震えあがりそうなほどに冷え冷えとした声だった。血を吐くように、重苦しい響きが雨音を打ち据える。


「ゆ、水哉さ……っ……」


 髪を雨に濡らし、そこに立っていたのは水哉さんだった。

 彼の姿を見るなり、安堵が胸に広がった。それでも恐怖に凍りついた舌はもつれて、慕わしい彼の名前すら途切れる。


 男を睨み据える水哉さんの顔には、侮蔑が浮かんでいた。


「……下賤が、この子に触れるな」

「なんだてめえ。怪我したくなけりゃ引っ込んでな! こいつはもう俺の商品だ」

「下賤ではなく女衒だったか。では買い戻そう」


 水哉さんは無表情のままスーツのポケットから小包を取り出し、地面に放る。黒い水たまりのなかに中身が零れた。ちらちらと輝いたのは、無数の宝石だ。


 一瞬だったけれど、男はたしかに気を取られたらしい。


 その間隙を縫って、水哉さんは男を蹴り飛ばした。直後、わたしの腕を掴んで駆け出す。


「っ……!」

「てめえ! 待ちやがれ!」


 すぐさま怒気に顔を赤く染めた男が追ってくる。


 わたしは風のように走る水哉さんに腕を引かれたまま、震える足に叱咤して路地裏を駆け抜けた――

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