3 昔日の乙女

 ふと、空を焼く夕日が雲間から覗いた。とたんに斜陽を受け止める海面が、砂金をまぶしたようにちらちらと輝き出す。


 思わず家から飛び出して四半刻。

 わたしは海岸通りからひとり、港を眺めていた。

 立ち尽くしている間にも、物売りや客待ちの車夫、パラソル片手に帰路を急ぐ女学生が通り過ぎていく。近隣にはグランド・ホテルやクラブ・ホテルが立ち並んでいるためか、外国人の姿も多かった。


 いつもなら、乗るはずの人の波にも加われず、ただ潮風を受け続ける。

 のんびりとした汽笛が響いた。


(わたしでなくても、よかった)


 知っていたはずの事実が、今になって胸に重くのしかかる。


(そんなこと、初めからわかっていたのに)


 水哉さんが求めたのは政略結婚だ。わたしではない。

 華族の血が必要だというのなら、姉たちでもよかったし、そもそも花菱家である必要すらなかった。

 それでも、選ばれたのがわたしだったということに、愚かにも抱いた期待を捨てきれずにいたのだろう。


 しかし、相手を選んだのは水哉さんではなく、きっと花菱家のほうだ。

 家から出すのに、わたしが一番都合がよい——つまりは花菱家の末娘といえども、わたしが庶子だったために。



 明治末期、わたしは新橋の花街で生を受けた。

 母は、花菱家当主の贔屓でもある新橋の芸者だった。


 決して、裕福な暮らしではなかったけれど、記憶に残る花街での生活は幸せに満ちている。少なくとも、わたしにとっては幸せな日々だった。


 脂粉の香り、夕風に舞う柳結び、赤提灯に感じるもの悲しい郷愁。


 今でも思い出す。鮮やかに刻まれた、在りし日の記憶を。

 それはまるで、螺鈿らでん蒔絵まきえの宝石箱から見つけ出した、翡翠色の宝珠のように美しく。



「——あら、琴子。また母さまの小物入れを覗いているの?」

「うん。この石、本当にきれいねえ」


 風に踊る若竹の影が映り込んだ障子を開いて、晴天に透かした珠を覗き込んでみる。母の宝石箱から取り出したその石は、ころんと丸く、果粉に包まれたぶどうの果実にそっくりだった。


「これはね、お父さまと湯治に行った先で拾ったのよ。ぶどうみたいだから、ぶどう石って名前をつけたの」


 母さまはいつも懐かしそうにその石を眺めた。


「でも、まだすっぱそうね」

「そうでしょう? でもお父さまが言うには、西欧にはマスカットといって、緑のおいしいぶどうがあるそうよ。琴子に食べさせてあげたいけど、八百屋さんには売っていないのよねえ……。残念だけど、せめてこの石は琴子がもう少し大きくなったら、あげようね」


 母は微笑んで、ほっそりとした白い指でそっと髪を梳いてくれた。


 優しく美しい、自慢の母だった。


 朝はわたしが先に起きて、食事の支度をして、お寝坊の母さまと遅い朝餉をとる。

 午前、芸事のお稽古に行く母を見送った後は、掃除を済ませて近所の子供たちと遊びまわった。コマ、鬼事、かくれんぼ……。やることは山ほどあって、毎日どれほど時間があっても足りない。

 案の定、まだまだ遊びたりない昼下がり。帰宅した母が仕事の支度を始める。

 きらきらした簪や美しい着物で着飾った姿も、ろうたけた面差しも、わたしの憧れだった。

 夜は母が座敷仕事に出てしまうので、わたしが先に休む。けれども、朝方、目覚めると隣に母が寝ている……。


 そんな日々を何度繰り返しただろう。

 なんの疑いもなく、わたしは母とのふたり暮らしが永久に続くと信じていた。


 わたしが十を迎えるころに、彼女が長患いの婦人病を悪化させるまで。


「ねえ琴子」


 長梅雨が明けたばかりの、じっとしていられないほど蒸し暑かった朝のこと。

 野花を摘んで病床に持ち込んだわたしに、すっかり痩せてしまった母さまは言った。


「琴子は花菱のおじさまを覚えている?」


 わたしは頷いた。花菱のおじさまは時折置屋を訪れる母さまのお客だ。

 毎度、わたしにもおはじきや手毬といったお土産をくださるので、よく覚えていた。


「おじさまをお好き?」

「うん、好き」


 優しい上に、時には一緒に遊んでもくれたので素直に頷く。

 すると、母さまは安堵したように口元をほころばせた。


「じゃあ……、おじさまがお父さまになったら嬉しい?」

「おじさまがお父さまになるの?」

「そうよ。琴子がお父さまと呼んだら、可愛がってくださるわ。そうすると花菱の奥様も琴子の新しいお母さまとして、琴子のご家族になってくださるのよ」

「……? わたしの家族は母さまだけよ」


 母さまが不可思議なことを言うので、わたしはしきりに首を傾げた。

 その時、わたしの頬に冷たい指先が触れた。気づかわしげに、その形を忘れんと願うように、母は幾度も繰り返し頬の輪郭を撫でる。


「……ごめんね。母さまはね、もうじきいなくなるから。そうすると、琴子がひとりになってしまうの。それでは大変でしょう? だから……」

「いやっ」


 わたしは母さまの言葉を遮って、お腹に飛びついた。

 いなくなるだなんて、いじわるを言っていると思ったのだ。


「わたし、ずっと母さまといる。お姐さんたちも、お座敷のお仕事教えてくれるって約束してくれたもの……。母さまのぶんもわたしが働くから、一緒にいてもいいでしょう?」


 一緒にいられるのなら、労苦も幸福になるだろう。幼いわたしはただひたすらに信じることしかできなかった。

 だけれど、結局は涙に濡れた母さまの目を見て、言葉を違えることになる。


「……わたし、やっぱり母さまの言うとおりにするわ。今日からでも……」


 そうすれば、わたしを育てるために割く花代も全て薬代に替えられると信じたから。まだ間に合うのだと希望をもって、自分にできることをしようと思い立ったのだ。


「いい子にしているから、母さま、早くよくなって迎えにいらして」

「ええ、そうねえ」


 けれども、大きく温かな手がわたしの頭を撫でてくれたのは、それが最後だった。

 それから間もなく、わたしは母にもらったぶどう石を手に、迎えに来た父さまに連れられて花街を出ることになった。あれからすぐに、母さまが儚い人になったためだ。


「今日から私がおまえの家族だよ。困ったことがあったらなんでも相談しなさい」


 こうして花菱家の門をくぐったわたしは、門というものが、どこでも別世界の入り口らしいと知る。


 家族にはそれぞれ女中がつきそい、ひとりになる時間はない。さらに女中をまとめる老女の厳しい監督下にあり、それまでの友人やお姐さんたちとのつき合いは到底許されなかった。


 また、広大な屋敷は『表』と『奥』にわかたれているのが普通らしい。表は基本的に来客の対応に使われる。奥がもっぱら家族や女性の住まいだった。


 両親や兄たちとは、朝や夕のあいさつ以外はほとんど顔を合わせることもない生活の始まりだ。


 家には兄がふたり、姉が三人いたけれど、突然末席に加わった妹への反応は当然ながら様々だった。父と長兄は優しかったものの、継母と次兄は無関心、三人の姉には卑しい生まれと蔑まれた。そもそもに、男性との接触は家族といえども非常に限られていたので、目下の問題は姉たちだった。


「お父さまに取り入った女狐の娘が、厚かましくも我が家に入り込んだわ」


 取り入ったなどと言われるのははなはだ不本意だ。母をけなされるのだけは我慢ならなかったけれど、ぐっと言葉を飲み込んだ。

 いい子にして待つと、母と約束したのだから、破ってしまっては悪い子になってしまう。そんなことになれば、母が悲しむと思ったからだ。


 わたしにできたことは、大人しく、嵐が過ぎるのをただ待つばかり。


 それでも一変した環境に慣れず、家族から隠れるように過ごした。

 そんな時に出会ったのが、水哉さんだ。


 出会いはほんの偶然だ。

 ひとりになりたくて、女中の目を盗んで庭で遊んでいたわたしは、気づけば広い敷地内で迷子になっていた。

 ちょうど、そこを歩いていたのが彼だった。


 初めて会った時、彼はとてもさみしそうな目をしていた。表面上は取り繕っているくせに、まなざしににじみ出る寂寥を隠しきれていない。……そんな顔だった。

 鏡を見ているようだと思ったのを覚えている。彼のまなざしが、わたしに似ていたから。


 だから、わたしは友達になろうと彼に提案したのだ。寄り添うことで、そのさみしさを埋められたらと願ったけれど、目下その目論見が成功したとは言い切れない。


 それでも、水哉さんはわたしに優しかった。


 母が恋しくて、耐え切れずに一度だけ家を逃げ出してしまった時も、迎えに来てくれたのは彼だった。



 夕暮れ時の銀座を、彼の買ってくれたあんぱんを食べながら歩いた日のことを、わたしは今でも忘れられずにいる。


「……水哉さん、見つけてくれてありがとう」


 よくよく考えてみれば、路面電車の乗り方も知らず、所持金もないわたしが母と暮らした長屋に帰れるはずがなかったのだ。そもそも、帰ったところで恋しい母はもういない。


 しんみりと肩を落として呟けば、水哉さんはあんぱんを次々と胃に収めながらわたしを見おろした。


「僕に見つけられたことを感謝すべきかは、保留したほうがいい問題だろうね。君は、いったいどこへ行こうとしていたんだい? ことと次第によっては、無理して屋敷に帰る必要もないとは思うが」

「ええと、わたし……。母さまに会いたくて、帰ろうと思って……」


 わたしの告白に、水哉さんはなにもおっしゃらなかった。

 けれど、聡い人なのでその一言でわたしの立場を理解してしまっただろう。

 そう思うと、すぐに怖くなった。姉たちのように、この人もわたしを蔑むかもしれないと不安を覚えたのだ。


 わたしはすぐさま誤魔化すように笑顔を浮かべて、水哉さんを振り仰いだ。


「……おとなしく帰るわ。きっとたくさん叱られるでしょうけど、しょうがないわ。だってわたし、贅沢者なんですもの。お父さまもお義母さまもいらっしゃるのに、足りないの。母さまに、どうしても会いたいなんて……」

「それは当然だろうね。恥じることではないよ」


 叱ってほしい時でさえ、水哉さんはそうしなかった。


 いつだって、静かに隣に並んで寄り添ってくれた。寄り添おうと思ったのはわたしだったはずなのに、本当のところは助けられてばかりだ。


 そもそも考えるほどに、わたしは本心から彼に寄り添おうとしていたのかわからなくなる。自分のさみしさを埋めるために、彼の友達になろうと思ったのではないだろうか。打算があったのではないか。

 暗くなりゆく路地を歩きながら、次々と湧き上がる疑惑に、わたしは自分で自分が嫌になってしまった。


 そんなわたしに、彼は秘密の話をするように声を落として囁いた。


「……実はね、僕も昔、母に会いたくなって家を飛び出したことがある」

「まあ、水哉さんも?」


 驚くと、水哉さんは唇へ人差し指を寄せて微笑する。


「秘密の話だが、君には特別に教えてやろう。当時、僕の母は英国に戻っていたから、家どころか、国を飛び出したよ。……だが、誰も僕を叱らなかった。だから、今日は僕が一緒に女中に叱られてやろうじゃないか。君の気持ちが僕にはわかる。こんな僕では君を叱ってやることができないからね」


 悪戯っぽいまなざし。私の髪を梳いた優しい指。包み込むような、優しい言葉。


 間もなく燃えつきようとしている空をカラスが行く。 火点し頃の街には、提灯を手にした人の姿があふれ出す。それがいつか暮らした花街の赤提灯、遊び疲れた夕の景色を思い起こさせた。


 なんだか無性に胸が切なくなって、わたしは立ち止まってしまう。

 振り返った水哉さんを見上げれば、彼は星空を背負っていた。


「……水哉さんは、どうしてそんなにお優しいの?」

「やれ、そんなつもりはないのだが。仮にそうだとしたら、それはきっと君がさみしそうだからだろうね」

「さみしそうだからって優しくしてあげられるのは、きっと水哉さんがいい人だからなのね」


 わたしには純粋な優しさを分け与えることが難しかった。なんとなく自覚して呟く。

 すると、水哉さんはすかさず苦虫をかみつぶしたような顔をした。口が渇いてしまいそうなほど、甘いあんぱんを食べ続けているのに。


(どうしてそんなお顔をなさるのかしら)


 正直に褒めたつもりだったのに、おかしな人だと思った。

 それでも——、わたしは彼にひどく感謝していた。気持ちがすっと軽くなったみたいで、いつか、水哉さんが困ることがあったら身を賭してでもお助けしようと決意する。


 あの時からずっと、その想いは消えないまま胸のうちに潜んでいた。



 それなのに、どうしてわたしは今でも自分本位なのか。考えるほどに、ほとほと嫌気がさしてしまう。


(でも、今はとにかく落ち着いて……、そろそろ帰らないと。もう暗くなってきたわ。家に戻って、わたしにできることをしなくっちゃ)


 うつむく視界、薄暮はくぼの海岸通りに、ひとりぶんの長い人影が伸びている。潮風に吹かれつつ、頭を冷やしていると、ガス灯が照らす石畳の上でふとふたつの影が重なった。背後に誰かが立ったのだ。


「琴子くん」

「ゆ……水哉さん」

「こんなところでなにをしているんだい。もう日が暮れている」


 彼は今日も迎えに来てくれた。

 振り返ったわたしの肩に、置いてきたはずの外套をかけてくれる。自分は外套も着ずに、いつものスーツ姿で立っているのに。


 だから、期待したくなってしまう。放っておいてくれたらいいのに、絶えず優しさを与えてくれるから。


(期待しちゃだめ。だめなのに)


 彼は遠ざかっては近づく、波のような人だ。わたしは翻弄されるばかり。


「……どうして、わたしがここにいるってわかったんですか?」

「君の行動を鑑みれば明白だ。外套が玄関先にあるのに、君の姿が見えない。ということは外套を忘れるほどに慌てて出て行ったんだろう。それなら、夕餉の品に買い物忘れでもあったのではないかと思ったんだよ」

「ごめんなさい。本当は、ちょっと散歩に来ただけですよ。帰ったのにご挨拶もせず飛び出して、すみません。その……、い、息抜きがしたくて」


 先ほど、ロレーヌさんと話していた彼の言葉がよぎる。

 だけども、ずるいわたしはふたりの話を聞いてしまったのだと正直には言えず、へたな言い訳をした。

 水哉さんはわずかに目をすがめたが、詰問するのはよしてくれたらしい。


「……海風は冷えただろう。息抜きが済んだのなら、家に戻るとしよう。帰ったら、暖炉にあたって熱い紅茶を飲みなさい」

「……はい」


 大きくて優しい手にそっと手を引かれて、わたしは考える。


 彼への感謝が、親しみが、恋情に変わったのはいつのことだったろう。


 今となってはもうわからない。考えたところで、詮無きこと。

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