2 女学校の噂話

 そして、週が明けた月曜日の朝。

 晩冬の寒さから逃れるように駆け込んだ教室は、残念ながらまだまだ肌寒かった。つけたばかりの石油ストーブがその力を発揮するには、それなりの時間がかかるようだ。


「ごきげんよう、花菱さん」

「ごきげんよう」

「今日はいつもより遅かったのね。あたし、あなたを待ってたのよ」


 すでにクラスメイトは半分以上集まって、それぞれの席でお喋りに興じていた。そんな教室の入り口で外套を脱ぐわたしを迎えてくれたのは、ゆりえさんだ。

 腕を組んで、仁王立ち姿を披露している彼女は、どういうわけか、わたしを待ち伏せしていたらしい。

 目が合えば、眼鏡の奥にある彼女の瞳が怪しく輝き始める。


「ふふふふ……」

「ど……、どうなさったの?」

「ふっふっふっふ……」


 質問には、怪しい笑い声が帰ってきた。申し訳ないのだけれど、正直に言ってしまうととても怖い。


 わたしはあえてゆりえさんから距離をとって、自分の席に向かった。


 ……とはいえ、彼女の席は隣なので、逃れようもない。

 わたしに続いて自分の席についたゆりえさんは、いそいそと椅子を私の真横にくっつけてくる。

 そしてニヤニヤと笑う顔を、そっとわたしに近づけた。


「どうしたの、ゆりえさん……」

「ふふ……。どうもこうもないわ。いいえ、あったのかしら? あったのでしょうね。あったに決まっているわ。だって花菱さん、昨日はお楽しみでいらしったのだものね……」

「昨日? お楽しみ?」


 なんのことかしらと、わたしは首を傾げる。


 すると、前の席に座って教科書を眺めていた野々村さんまでが、思わせぶりな笑みを口元に乗せて振り返った。


「ごめんなさいね。だけど私たち、見てしまったのよ。琴子さんが、殿方といらっしゃるところ」

「そうよ。あたしたち、見ちゃったの」


 生暖かい笑みを浮かべる野々村さんに、きゃっきゃとはしゃぐゆりえさん。


 ふたりの言葉の真意を理解したとたんに、わたしはバツが悪くなった。

 昨日、一緒にいた殿方といえば、水哉さん、父さま、そして兄さまだ。

 『見ちゃった』とまるでいけないことのように話すおふたりは、なにやら誤解をしていらっしゃるらしい。


「ゆりえさんたち、昨日は山手公園に行ったのじゃなかったの? テニスをなさるって、金曜日はお話していたでしょう?」


 わたしも誘ってもらっていたものの、今回は父と兄に会うために辞退したのだ。


「ええ、山手公園でテニスをしたわ。ゆりえさんったら、場外ホームランを連発しちゃったのよ」

「あたしったら、テニスじゃなくて野球の才能があるみたいなのよね。男子だったら、間違いなく全国中等学校野球大会に出場して、優勝に貢献していたはずよ」


 ゆりえさんはおさげをぴょんっと跳ねさせて、誇らしげに胸を張った。


「で、それはさておき」

「……」


 このまま話がそれてしまうことを祈っていたのだけれども、残念ながら、現実はそう甘くない。


「その後よ、あたしたちが花月園に行ったのは」

「ここだけの話だけれどね、花月園少女歌劇団を見に行ったの。先生がたには秘密にしておいてちょうだい」


 学校では生徒のみでの観劇が禁じられているので、野々村さんがこそこそと声をひそめてつけ足す。


「でもねぇ、そこであたしたちが見ちゃったのは、少女歌劇団じゃあなくて……。なんと、花菱さんがボートの上で殿方を押し倒して、熱いキッスを交わしているところだったの!」

「か、か、交わしてないわっ!」


 あまりにも突飛な目撃談に、わたしは文字通り飛び上がって叫んだ。


 おかげで、おしゃべりに花を咲かせていたほかのクラスメイトたちの視線が、こちらへ一斉に集中する。わたしは気恥しさを誤魔化しきれないまま、そろそろと椅子に座りなおした。


「交わしてないわ……」


 大事なことなので、もう一度。今度は小さな声で念を押しておいた。

 だけども、とんでもない誤解にそれ以上は言葉が続かない。わたしはすっかりたじたじになって、目を泳がせた。


 そうしてわたしが顔に集まった熱と格闘している間にも、ゆりえさんはなんだか妙に嬉しそうに「んふっ」と笑い続けている。


「あら、あらあらあら……」

「ゆ、ゆりえさん……、その笑顔はなに……?」

「んふふふふ……、笑顔にもなるというものだわ。だって、花菱さんったら、否定しないのだもの。つまり、キッスは誤解だとしても、抱き合っていたのは事実ってことよね?」


 ……などと言って、またまた細かいところを見逃さずに突いてくる。

 この方は案外、職業婦人——それも探偵なんかが向いているのではなかろうか。

 現実逃避し始めたわたしを、ゆりえさんはさらに追い詰める。


「ということは、あの方が花菱さんの未来の御夫君なのかしら。ぜひとも、熱い抱擁の感想をお聞きしたいわ!」

「ハレンチ!」


 すかさず、野々村さんが合の手を入れる。

 わたしは彼女に感謝して、事情を説明することにした。


「見ていたなら、もうご存知でしょう? あれは抱擁をしていたわけじゃなくって、事故だったの。帽子が風に攫われそうになったから、慌てて取ろうとして転んでしまっただけよ」

「花菱さんったら、読書家なのにお忘れ? 男女の仲っていうのは、事故によって深まるというのが物語の定番じゃない。たとえば、『魔風恋風まかぜこいかぜ』とか」


 『魔風恋風』。


 それは明治三十六年から、讀賣新聞にて連載されていた小説の題名タイトルである。

 女学生、萩原初野と彼女の友人の婚約者たる、夏本東吾の悲恋を綴った物語だ。初野の乗る自転車が東吾を跳ね飛ばすという事故から始まるこのお話は、明治の一大流行小説のひとつであり、今でも女学生に広く好まれている。

 

「……待って。たしかに小説では恋が始まったけれど、あれは悲恋じゃない」


 なにしろ、東吾の許嫁は初野の親友だ。結ばれようのない、このふたり!


「そうね、悲しい話だったわねぇ」


 うんうんと野々村さんが同意してくれる。追体験したくはない物語だということで、わたしたちの意見は一致した。

 それでもゆりえさんは、眼鏡をきらめかせて指を振る。


「大丈夫よ。だって、花菱さんはすでに婚約しているのだもの。ちゃんと幸せな結末が準備されているわ」

「ゆりえさん、だけれど本当に誤解なのよ。恋なんて生まれていないの。あくまでお家のおつき合いというものが優先されているのだから……」


 だから、どこまで行ってもこの想いは一方通行だ。小説のように山あり谷ありの道だったとしても、その果てに彼はいない。


 肩を落として否定をすれば、ゆりえさんは野々村さんと顔を見合わせた。


「そうかしら? 親し気で、とってもお似合いに見えてよ。琴子さん、大切にされていらっしゃるんだわって、私たち喜んだもの」

「ええ、うらやましいほどだったわ。結婚は人生の一大事だけれど、花菱さんはきっと幸せにおなりだわ。あたし、本当にそう思ったのよ」


 そうかしら。

 本当にお似合いに見えたなら、ちょっと嬉しい。

 なにしろ、水哉さんに大事にされている自覚はある。彼は優しいし、いつでもわたしを気遣ってくれる。

 だけどそれは、家柄や血筋など、あくまで道具として価値があるからだと思っていた。


 それでも、親しいおふたりの言葉を聞いていると、なんだか期待をしたくもなってしまう。


 単純なわたし。



 * * *


「それじゃあおふたりとも、また明日!」

「ええ、お気をつけて!」


 一日の課業をすべて終えて、寄宿舎に戻るゆりえさんと野々村さんとお別れを済ませる。


 新しい木造校舎を出て、わたしはひとり、街角へ。

 白いスーツに山高帽子の紳士や、車夫さんが行きかう道を急ぎ、高台にある家に辿り着いたのは、夕暮れの少し前の時分だった。


「ただいま戻りました」


 わたしは玄関先で外套を脱いで、屋内に入る。

 それから、胡麻幹決ごまがらじゃくりの衣架コートハンガーに外套をかけた。先にかけられていたコートは、水哉さんの取引相手でもある貿易商のロレーヌさんのものだ。


(ロレーヌさん、いらっしゃってるのかしら?)


 耳を澄ませてみれば、応接間から話し声が聞こえてくる。


(商談中なら、お茶をお出ししないと……。すぐにお持ちしても、お邪魔にならないかしら)


 様子をうかがって近づいたわたしの耳は、扉越しに漏れ聞こえた水哉さんの声を拾った。


「——なにも、僕たちは自由結婚というわけでもないのだからね」


 玄関のガラス窓から差し込む、弱い午後の光が足元に淡い影を作る。

 日差しに縫い取られたように、わたしの足はその場に止まって動かなくなった。


「でもさ、悪しからず思っている相手と一緒に住んでるんだぜ。男なら誰だって、過ちくらい犯してしかるべきだろ?」

「僕の下半身を見て話すのはやめてくれないか。……申し訳ないが、僕は君の同類にはなれないようだよ。けじめはつけたい性質なのでね」


 おそらく、ロレーヌさんと水哉さんが念頭に置いているのはわたしのことだろう。

 聞いてはならない、立ち去らねばと思っているのに、やはり足は鉛のように重い。


「けじめって、おいおいおまえ……。まさか、コトコとは寝室もベッドも別だなんて言わないよな? 一緒に暮らし始めて、もうすぐ一年経つんだぜ?」

「無論、別だとも。暮らした月日は関係ないね。僕は情欲を発散する相手を求めていたわけではないのだから」


 日は、さらに傾いたらしい。影が色濃くなった。


「ただ閨の相手を求めるだけなら、婚姻など不要だ。遊郭にでも足を延ばせばいい。僕が彼女をうちに迎えたのは、そうすることで互いに利があると思ったからさ。僕は彼女を得る。彼女は食い扶持を得る。ようするに、商取引の契約のような関係だよ。だからこそ、彼女には礼をつくすし、けじめもつける」

「はあ、俺には勝手な理屈に聞こえるけどな。おまえ、照れ隠しの冗談でも、それは本人には言うなよ。愛がないのにコトコの一生涯を縛るって言っているようなモンだぜ」


 ロレーヌさんが最後に零したため息に、扉の向こうで水哉さんがどんな表情をしたのかはわからない。

 ただ、淡々と聞こえてくる声は落ち着き払っていた。


「そうかもしれないね。知ってのとおり、僕は自分勝手で傲慢な男だ。彼女にとっては、運の悪いことに。……さて、そろそろ琴子くんも帰宅する時間だ。無駄話はここまでにしようじゃないか」


 水哉さんが立ちあがった気配があり、わたしはとっさにきびすを返した。

 ようやく役目を思い出した足を必死に動かして、外に飛び出す。


 玄関の向こう側では、太陽がゆったりと落ちていくところだった。坂の上から見下ろせる横浜の街並みに、いよいよ夕暮れが迫っている。


 絶え間なく空を泳ぐ雲が、汽笛を残した船とともに水平線の果てへと消えた。

 その音にいざなわれるように、わたしは街へと駆けだす。


(知っていたわ、水哉さんがわたしをお好きで婚約したわけではないことくらい)


 彼が優しいのは、花菱の血のため。宝玉のように大切にしてくれるのも、わたしがそばにあることで華族との繋がりを維持できるからだ。

 優しいまなざしを向けてくれるのも、愛しているからではない。もしもそこに寸分でも情があるのだとしたら、それは兄妹のような——家族としてのそれだろう。


『僕が買うのは花菱家の家格だよ』


 お見合いの日に言われた言葉が頭をよぎる。


 知っていた。初めから、ずっと。


 それなのに、どうして身がすくみそうなほどに胸が苦しいのだろう。


 この恋が叶うなんて、思ってもいなかったのに。

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