10 密談

 コーヒーを楽しみながら、ひた走る秒針の足音を数える。


 窓は閉められているはずなのに、降りしきる雨のためか、室内は湿っぽい空気でいっぱいだった。そのなかには、今を謳歌する月季花の香りが混じっている。その元を辿って部屋の隅を見れば、花瓶いっぱいに咲き誇る花が活けられていた。


 商売を始めたばかりの頃、ひとりの時間をつぶすために始めた趣味は今も続いているらしい。


 やがて、花の主人が応接間に降りてきた。

 うつむくユキチカの顔は薄暗がりに紛れて見えない。


「コトコは?」

「眠ったよ。平気そうな顔をしていたが、ずいぶんと堪えたようだからね。……当然だが、ひどく怯えていた」

「おまえのその人殺しみたいな顔のせいじゃないのか?」


 歩み寄られてはじめてユキチカの表情が目に入り、俺は顔をしかめた。


(これはまた、ずいぶんと手ひどくやられたみたいだな……)


 とはいえ、激昂するのもわからないではない。

 この男は、傍目に見てもあの少女を珠玉のように大切に慈しんでいた。もとより、どこの誰ともわからない男に宝物を傷つけられて黙っていられる紳士でもない。


「ちょっとは落ち着けよ。明日、またあの子に怖い思いさせるつもりがないならな」


 ユキチカは深々とため息をついて、顔をおおった。

 それからいつもどおり、冷淡なまなざしを取り戻してテーブルの上を見る。


「僕のぶんがない」

「淹れたっておまえ、どうせコーヒーなんて飲まないだろ。泥水だ汚泥だって文句しか言わないし。あっちに冷めた紅茶ならあったぜ」

「琴子くんのあまりものだな。ありがたくいただくとしよう。元はと言えば僕が淹れたものだが」


 努めて、いつもどおり。

 ユキチカはすっかり冷めたストレートティーを手に取り、さらに花鳥図の文様が施された柴山細工の飾り棚から隠されていたシュガーポッドを回収して、ソファに身を沈めた。


「……おまえそれ、コトコが隠してたやつじゃないのか?」

「そうとも。だが、探す時間は十二分にあったからね」


 よくもまあぬけぬけと言うものだ。さて、今は眠るあの子は気づいているのやら。


 ユキチカはシュガーポッドを抱えたまま、白い角砂糖を漬物のようにかじりだす。今は苦言を呈するコトコもいない。いずれは中身が減ったことに気づいた彼女のお叱りを受ける羽目になるだろう。

 だが、それは彼女が日常を取り戻した後の話だ。むしろ、それはこのふたりにとって望ましい未来だったのかもしれない。


「それで、なにがどうなってるんだよ?」


 コトコが女衒に攫われかけた。ユキチカは女衒の気を逸らすために宝石を放り投げた。そのままふたりは車に飛び乗り、愛の逃避行。警官をつれて現場に戻った俺は、宝石を拾う女衒とご対面、大捕物を目の当たりにした。


 ユキチカと状況を整理した俺は首を傾げた。


「なんか変じゃないか?」


 頭を悩ませ、煙草を飲む。紙煙草のほろ苦い煙を吐き出せば、白い靄は蛇のようにのたうち回って闇に消えた。


「ああ、おかしな話だね」


 また、ユキチカが角砂糖を口に放る。


「あれは、本当にただの女衒だったのか? 女衒というのは、花街で商品を調達し、失敗した後に宝石を拾いに現場に戻るような間抜けの総称かい?」

「やっぱり変だよなあ。俺が女衒なら、そもそも女の子を花街で攫ったりしないね」


 花街にいる娘など、関係者くらいのものだ。売り飛ばしたところで、見知った顔も多いだろう。すぐに拐引の足はつく。

 貴族の狩猟場で狩りをするようなものだ。かえって面倒が増えるばかりではないのか。


「だいたいに、なぜ彼女は表ではなく裏口から出された? 本来なら、芸者衆が表口まで客を見送りに出るはずだ。冷やかしならともかく、彼女は僕の代理だぞ。些か礼を失しているように思えるね」

「それも変だぜ。俺が警官連れて料亭に戻った後、女将がコトコを探してたんだ。芸者衆は、あの子が帰ったのを知らなかったみたいだぜ」


 かえってあの子を動揺させると思って、先ほどは伏せていた。


「つまり、彼女を見送ったのも宝石泥棒のお仲間じゃないか? 送り出した後はしらを切る。となると、なにも知らない料亭の連中は関与していないってわけだ。ただひとりの嘘つきを除いてな」

「隙をついて誘い出し、彼女を襲わせた料亭内の人間か。……金で買われた幇間か、あるいは野だいこかもしれないな。彼女に顔を見られているから、もう田島屋にはいられまい。日が昇り次第、署に届け出るつもりではいるが……。うまく逃げおおせるだろう」


 ユキチカは憎悪すら滲む声色で吐き捨てた。

 今更探しに戻ったところで、もう遅いことがわかっているからだ。


 野だいことは、芸者置屋に所属しない野良たいこ持ちを指す。所属がないからこそ、素性は不確かなものも紛れている。だからこそ、行方を辿るのは困難が予想された。


 おそらく、筋書きとしてはこうだろう。


 まず野だいこが彼女を裏口から出し、扉を閉ざしたところで相方の宝石泥棒に襲わせる。コトコを物陰に連れ去った後は、この幇間もどきが車でも使ってどこぞに攫う手はずだったのだろう。

 まさか、花街内で攫った娘を縄張り内の色街で売り飛ばすような、足のつく真似はしないはずだから。


(危なかったな)


 所詮は犯罪者だ。相方が警官に捕縛されてなお、助けに飛び込む仲でもないだろう。


 幇間もどきも危機を察知したからには、すでに逃げ出しているはずだった。その行方はようとして知れない。


「下手をすれば、もう二度と彼女を取り戻せなかっただろう。とにかく無事だったのは喜ばしい。……だが、そもそもなぜ琴子くんが狙われた?」

「まあ……、一介の女学生を狙うからには、なんらかの理由があるよな」


 女学生は身元がたしかなものばかりだからだ。

 華族令嬢の身分を持つ者も珍しくなく、女衒が敵に回すには厄介な相手に他ならない。実際、コトコも公家華族花菱家の子女だと聞いている。


「やつらとて、売りさばくなら人を選ぶだろう。……いや、もしや選ばないのか? それを算段できる脳があれば、今頃は稀代の数学者殿にでもなっていたかな」

「とんでもない買いかぶりだぜ。普通に考えたら、原因はおまえだろ」


 真新しい傷をえぐると知りながら、俺は正直に思うところを告げた。


 頬杖をついて、角砂糖をかじっていたユキチカの目が鋭くなる。触れれば切れそうな雰囲気は、この男がかつて英国でやさぐれていた時にまとっていたのと同じだった。

 当時の刺々しさが蘇り、俺はため息を吐く。


「だから、怒るなよ。おまえが頭に血上らせてどうするんだって」

「僕は、琴子くんを危険な目に合わせるつもりはない」

「つもりはなくたって、現にあってる。許嫁だぜ? もし俺がおまえの敵なら、弱みにつけこむね。で、おまえの弱みなんてひとつっきりだろ。攫って身代金でも要求するつもりか、彼女を使っておまえに痛い目を見せるつもりか知らないけどさ、断言してやる。今日みたいなことはまた起きる。特に今回は犯人のひとりを取り逃がしてるんだ。今は冷静に状況を整理して、次に備えるべきだろ」

「……無論、どんな形であれ必ず始末はつけるとも。誰が首謀者であれ、この落とし前はつけてもらおう」


 ユキチカは深く息を吐くと、シュガーポッドの蓋を閉じた。


「そーいうこと。ま、今回は俺が我儘を言ったせいだけどさ……」

「そうだ。もう君がなんと言おうと金輪際、彼女は花街には関わらせないぞ」

「わかってるよ、俺だってもう胡蝶との仲を取り持ってくれなんて言うもんか。悪いと思ってるんだ。本当に、こんなことになるなんて想像もしてなかったんだから」


 お互いため息を吐くと、応接間は静まり返る。


「……僕は別に、君が悪いと責めたわけじゃない」


 ぽつりと呟いたユキチカに俺は苦笑した。

 結局、非情になり切れないのがこの男の弱さだ。だから、俺としてもどうにも放っておけないのかもしれない。


「あ、そうだ。宝石なら警官が回収してったから、明日、署に行くならついでに話しておけよ。取り戻せるかもしれないし。というか、あれはなんなんだよ?」


 花街に持ち込むにはずいぶん御大層な品だ。まさか常日頃から後生大事にポケットにしまい込んでいるのかと尋ねる。


「近々、琴子くんに帯どめを贈ろうと思って取り寄せた品だ。おかげで今夜ケチがついたから、せいぜい新しいものを用意するさ」

「……ずいぶん派手じゃないか?」

「指輪はそろそろ宝石箱から溢れ出るだらうからね」


 古時計が鳴り響く。いつの間にか、深夜の一時を過ぎていた。

 俺はホテルに戻るため、席を立った。預かっていた鍵をテーブルに乗せて、最後にもう一度ユキチカを見おろす。


「鈴木弁蔵が殺されて、まだ日も浅い。おまえもせいぜい気をつけろよ」


 昨年の初夏。日本中を震撼させたバラバラ殺人事件が起きている。

 『鈴弁殺し』として世間を騒がせたこの一件は、現代日本社会の闇を浮き彫りにした。金は甘い蜜だ。吸い寄せられる害虫はどこにでもいる。誰であれ、成金に敵はつきものなのだ。


「……彼は高利貸しアイスだったからね。一介の宝石商の僕より多く恨みを買ってはいただろうが、忠告としてありがたく受け取っておこう」

「ああ、そうしろそうしろ。それから、今夜の埋め合わせはどこかでさせてくれよ。しばらく、コトコをひとりにさせるのも心配だろ? 学校の送り迎えくらいなら手伝ってやるから」

「僕がやる」


 即答だった。

 そして、ユキチカは重苦しく呟く。


「……今後は、彼女が僕の許嫁ということも他言すべきでないのかもしれないな」

「おまえなあ……」


 いくらなんだって、それじゃあの子が可哀想だ。ただでさえ親元から離され、生まれ育った土地も離れ、薔薇に囲まれた箱庭に囲われているというのに(この男のことだから、どうせ、許嫁の立場がまずいなら隠しておこうなどと思っているにしても)。


 窓の向こうの港町を稲光が照らす。

 どうにも、もうひと荒れしそうな空模様だった。

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