11 枯れない花
日が昇り、気温が上がる。
明け方まで降りしきっていた雨の影響か、蒸し暑さすら感じる一日だった。
「はい、おじゃんでございます。それじゃあ花菱さん、また明日!」
一日の授業を終えた後、近頃流行の挨拶を口にして、ゆりえさんたちと一緒に校門を出る。
わたしはすぐに、目の前に停められていた車に乗る水哉さんと目が合った。
今朝がた、「今日から君の送り迎えは僕がする」と宣言した彼はさっそく有言実行に移ったらしい。
それは、昨夜の一件と意外にも心配性な彼の性分ゆえなのだろうけれど、事情を知らないゆりえさんと野々村さんはニヤニヤ笑いながら寮へと帰っていく。
わたしはなんとも居心地の悪い視線を背中に浴びながら、助手席の扉を開いた。
「水哉さん。わたし、本当にひとりで登下校くらいできますから……」
「それはいけないね。むしろ、当面は無理せず家で休むべきだとすら僕は思っている」
「でも、家にこもっているより外にいるほうが、気も晴れますもの」
ロレーヌさんの言うとおり、例の女衒事件の犯人が警察に捕まったのなら、なおさら早く日常に戻りたかった。
嫌な記憶に蓋をして、わたしは車に乗り込む。すると、すかさず水哉さんはわたしの手に花束を持たせた。
「気晴らしというなら、ヒヤシンスの花弁の数でも数えているといい。少しは気も紛れるだろう」
「まあ。どうしたんですか、これ?」
「君への見舞いだよ」
彼はさらりと言った。
青い花は、呼吸のたびにすっと甘く香る。
(ヒヤシンス……)
ヒヤシンスの花は、ギリシア神話のアポロン神とヒュアキントスの恋の物語が由来の花だ。
かつてアポロン神は、愛したヒュアキントスがあたら若い命を散らす時に、少年の美を永遠に地上へと留めるため、その身を花に変えたという。
その花こそ、ヒヤシンスだ。だから、花言葉は『悲しみを超えた愛』。特に、青い花は『変わらぬ愛』を意味する。
(……水哉さん、わかっていらっしゃるのかしら)
花をじっと見つめても、もちろん答えは返ってこない。
「どうかしたかい?」
「……いいえ」
「……君はいつもなにか言いたげな顔をするのに、あいまいにごまかすね」
だって、花言葉をご存知なんて聞けるはずもない。たとえ彼が知っていたにしても、そんなつもりはないのはわかっている。だからこそ、わざわざ確認する勇気はなかった。
誰でも余計な傷は負いたくないものなのだから。
* * *
それから数日は、以前と変わらない穏やかな日々が過ぎた。
日差しもいくらか夏めいて、新しい季節の訪れを歓迎するように木々も草花で枝を飾っている。植物の季節だ。
水哉さんの管理する庭も、今を謳歌する花々が次々に咲き出していた。
土曜日。午後の日差しを浴びながら、わたしは庭で切り花の水揚げをする。
するとふと、黄色く愛らしい花が咲き誇るモッコウバラの茂みから、さらに金色の髪の男性が顔を出した。
彼は待ちきれないとばかりに、片手に握る手紙を突き上げて話し出す。
「朗報だぜ、ユキチカ! 胡蝶が俺に手紙の返事を……」
「まあロレーヌさん! いらっしゃいませ」
「……っと、コトコか。今日は早いんだな。もう帰ってたのか?」
白いシャツを着こなす彼は、ロレーヌさんだった。
彼は庭で花をいじっているわたしを水哉さんと間違えたらしい。残念ながら、いつもここで庭仕事をしている彼は、今日に限ってお部屋で仕事中だ。
「土曜日は半ドンなんです。それに、水哉さんがお車で迎えに来てくださるから、最近は前より帰宅が早いんです。だけどちょうどよかった。わたし、ロレーヌさんにお会いしたいと思っていたの」
「気持ちは嬉しいけどさ。それ、頼むからユキチカには言わないでくれよ。嫉妬の炎に焼き殺されるのは御免だぜ」
冗談めかしたロレーヌさんが、「それでなにか用か?」と目を瞬かせた。
「この間、胡蝶さんとお会いした時のお話をお伝えできていなかったでしょう?」
「琴子くん、その話はもういい」
そう言って、わたしの言葉を遮ったのは居間の窓から顔をのぞかせた水哉さんだった。
「ミシェル、来るなら事前に連絡したまえ」
「あー、悪かったな。興奮しすぎてつい……。でもまあ、いい機会だからコトコには言っておく。もう胡蝶についてはいいんだ。俺から頼んでおいてこんな風に言うのも変だけどさ、花街のことは思い出したくないだろうし、忘れてくれ」
金の髪を持つ美しい人は珍しく、弱ったように頭をかいた。
きっと、水哉さんとロレーヌさんが相談してそうすべきと決めたのだろう。
「でも……あれはロレーヌさんや胡蝶さんにはかかわりのない事件でしょう? 気を使ってくださるのはうれしいけれど、本当にわたしは大丈夫です。それに、このままじゃかえって気になっちゃいますから。ロレーヌさんに朗報があるなら、ぜひお聞きしたいです」
わたしが訴えると、ロレーヌさんは窺うように水哉さんを見る。
やがて水哉さんは苦虫をかみつぶしたような顔でため息をついた。
額を手で押さえ、さらなる熟考を数分。最後の最後に、「……とにかく、ふたりともなかに入りたまえ」と言ったのだった。
応接間に集合したわたしたちの間には、緑茶、紅茶、コーヒー。
それぞれお気に入りの飲み物を乗せた花梨のテーブルを囲んで、ロレーヌさんが語りだす。
「今朝、胡蝶から返事が来たんだ。初めてだ、初めて! だから、水哉に読んでもらおうと思って、仕事を終わらせて飛んできたってわけだ」
「君は日本語が読めないのになぜ朗報だと思った? あまりのしつこさに辟易した彼女から、手切れの依頼かもしれないぞ」
「おいおい縁起でもないこと言うなよ、言霊ってやつがあるんだろ、この国には!」
叫んだロレーヌさんから、水哉さんが呆れた顔で手紙を受け取った。
そして、文面に目をとおすなり、今度は憐れむような顔でロレーヌさんを見つめる。
「すまない、ミシェル」
「やだ怖い謝るなよ、おまえが謝るのって大抵ろくでもない時だろ」
「そうだね、君に悲報がある」
肩をすくめた水哉さんが手紙をロレーヌさんに返す。
「彼女は蓬莱の珠の枝をご所望だよ」
「まあ。ロレーヌさん、それは残念ですけれど……」
見込みは零と言わざるを得ない
ただ、外国人の彼には意味がわからなかったらしい。「ホウライノタマノエ?」と呪文のように繰り返すので、水哉さんが端的に説明し始めた。
「蓬莱の珠の枝とは、竹取物語……所謂かぐや姫伝説に出てくる宝珠の植物だ。根が銀、茎が金、実は真珠でできているという」
「へえ、東洋の神秘だな。さすがジャポン! で、どこに生えてるんだ?」
「東海でしたっけ? でも、東海自体が伝説の土地ですから……」
どちらも存在しないものだ。
けれども、ロレーヌさんはたくましい。
「なんだよ、ないなら作ればいいじゃないか。ユキチカ、金に銀に真珠だぜ。宝石商の出番じゃないか。今動かずいつ動くんだ」
「無駄だね。かぐや姫を相手に、同じ悪だくみをした皇子は破滅した。つまり、君は遠回しに滅亡を望まれているというわけだ。今度という今度はいい加減に諦めたまえ」
「俺を見捨てるなよ、ユキチカ!」
水哉さんはしらっとした顔で、ロレーヌさんの叫びを聞き流す。
あまりに必死な形相を目の当たりにして、わたしは口を差しはさむ。
「だけれど、やっぱり胡蝶さんはロレーヌさんを悪しからず思っているんじゃないかしら。だって、本当にお嫌いならわたしとお会いすることも、お手紙を出すこともないでしょう?」
「では、試されているのかもしれないね」
「じゃあ、やっぱり有り金はたいてお望みの品を贈るべきじゃないかっ?」
彼女に構ってもらえるだけで嬉しいのか、ロレーヌさんは目を輝かせた。
「なにを贈ろうかな。なにがいいと思う?」
「お好みはわからないですけれど……。胡蝶さん、永遠を約束してほしいのじゃないかしら。蓬莱の珠の枝は枯れない植物ですよね。金や銀だもの。わたしたちに比べたら、途方もない時間、そのままの形で残りますし。わたしがお話をした時も、あの方、変わらないものを求めていらっしゃるみたいでした」
胡蝶さんは恋をしないと言っていた。けれど、それでいて恋した過去を懐かしんでいるようにも見えた。
彼女は恋を厭っているわけではないのかもしれない。
ただ、恐れている。過去に傷を残した恋を今また繰り返すことに、躊躇いを覚えている。
そう考えたわたしに、ロレーヌさんは困ったような笑みを見せた。
「変わらないものかあ。でも、そればっかりは千金を積んだって手に入らないぜ。愛だってちょっとずつ形を変えていくものだ。だから人生はいいんだ。おかげで退屈しなければ、刺激的で、今を大切にできるだろ?」
ロレーヌさんの意見に、わたしはおおむね賛同した。
それでも、だからこそ胡蝶さんの心を溶かすのが難しいと思う。
わたしたちは彼女を理解することができても、心の底から共感できない。それゆえに、本当の意味で寄り添えないのだ。
さて、それならどうすべきか。思い悩むわたしたちの前で、水哉さんはゆるりと口を開いた。
「やれ、そう結論を急くべきではないよ」
そして言う。
「伝説の宝珠ではないが、なんの変哲もない枯れない花でよければ僕が持っている」
……と。
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