12 胡蝶の夢
「胡蝶姐さん、胡蝶姐さん」
指一本分開いた襖から、少女が丸い瞳をのぞかせて私に呼びかける。
「どうしたの」
「お母さんに頼まれた三味線、弦の張替えが何度やってもうまくいかないの……」
今にも泣きそうな声をかけてきたのは、置屋に売られてきたばかりの雛妓だった。
姐と呼べど、血の繋がりはなく。母と呼べど、生母ではない。
芸者として置屋に足を踏み入れたものは誰であれ先達を姐と呼び、主人を母と呼び、敬う。ただそれだけ。だけれども、私にとっては可愛い妹分を隣に呼び寄せた。
「泣きそうな顔をしていないで、三味線をお持ちなさいな。教えてあげるわ」
微笑みかけると、彼女はようやっとほっとしたように微笑をこぼし、三味線を持ってきた。
少女の小さな体にはまだ不釣り合いな大きさの楽器を受け取って、糸をかける。彼女はとなりで畳に手をついて身を乗り出し、私の手元を覗き込んだ。
「すごくお上手! 姐さん、なんでもおできになるのね」
「これくらい、学べばおまえもできるようになりますから励みなさいな。さあ、今糸を解くからもう一度やってごらん」
「うん。姐さん、明日は長唄聞いてくれる?」
「上手にできたらお菓子をあげようね」
お喋りをしながら、小さな手が見様見真似で糸をかけていく。
それを見守りながら、私は白く幼い手に一抹のさみしさを覚えた。いつかはこの子も一人前の芸妓になり、大人になっていく。無邪気に明日を待つ日々は続かないのだ。
「わたしは変わってこそ美しいのだと思います」
胸をよぎったのは先日、座敷にやってきた少女に言われた言葉だった。
(私は変わらずにはいられず、純な美しさを無くしたわ)
そう思えど、あの言葉が忘れられないのはきっと、どこかでそうあれかしと願っているからか。たとえそれが張りぼての美であったとしても。
胡蝶と名乗る以前の私は、武家の系譜を継ぐ家の長女として生まれ育った。
官僚の父と厳格な母。跡取りである弟と、天真爛漫な妹。愛と光のあふれた幸せな少女の日々。
幼い頃は、まさか日夜酔客を相手に芸事を披露することになろうとは思いもよらなかった。
けれど、誰の人生にも転機は訪れるもので、その日は突然やってくる。
叔父が事業に失敗し、多額の借金を残して蒸発したのだ。
暑い夏の午後。私は幼い弟妹のため、自ら花街を訪った。
その決断を後悔はしていない。私が働くことで、弟と妹は幸せに過ごせる。そう思えばこそ、自分を鼓舞できた。芸の習得に励み、姐さんたちに従い、座敷で酔客の相手に明け暮れた。
私は努めて我が身の不幸を考えないようにした。ただ、巡り合わせが悪かっただけだ。今更過去を恨んでも腹は膨れない。そう思い、一心不乱に過ごすうちに二度目の転機が訪れる。
十六の夏。花街に来た季節、私は恋を知った。
その外国人技師はひょうきんで、気さくな青年だった。
「胡蝶って蝶って意味なんだな。俺の国じゃ、蝶と蛾は一緒なんだ。昼のパピヨン、夜のパピヨンってわける。でも。結局は同じパピヨンだ」
彼はまるで、私が昼の暮らしにひそかに想いを寄せているのを見抜いたように言った。
「それじゃあ、夜に生きる私は蛾なのかしら?」
「パピヨンじゃなくて人間だろ。男も女も子供も老人も。で、さらに大きく分けると生き物だ。みんな同じだ。なろうと思えば、おまえはなんにだってなれるよ。小難しく考えるから、こじれるんだ。思い切って花籠から飛んでみろよ、世界が開けるぞ」
おかしなことを言う人だった。人間にも、虫にさえ様々いる。それらは決して同じにはなり得ないというのに。
それでもどこか幼げな笑みに一緒になって笑ってしまったのは、私もそれを望んだためかもしれない。
「そういえばさ、蝶は吉祥なんだろ?」
また別の夜の酒席で、酔った彼は耳まで真っ赤にしてこう言った。
「変化と再生の使者、花と相思相愛の象徴か。おまえにぴったりだ」
「そうですかしら。お母さんにはよい名を貰ったとは思いますが」
彼は頷いて同意し、じっと私を見つめた。
「毎日、大人に近づいてきれいになってく。それなのに純粋な心持ちは子供みたいで、この世のものとは思えないな」
「この世のものとは思えないなんて、旦那ったら。まるで化け物みたいなおっしゃりよう」
「褒めたんだよ。夢のなかの花園の主みたいだって。おまえの番になれるなら、胡蝶の夢から覚めなくたっていい」
彼はわたしを胡蝶の夢を見せる女と称した。
「夢のなかだけなんて、嫌。こうして旦那とお話ができないと、さみしいもの。起きていらっしゃって。代わりに私が白昼夢を御覧にいれますから」
いつからか、彼に恋をしていた。彼は私に誇りをくれた。誇りだけを残して去っていった。子供みたいにまっすぐな言葉も、愛おしげに細められる目も好きだったのに。
足繁く花街に通ってくれた男は、帰国の前夜に言ったものだ。
「必ず、迎えに来る」
額面どおりに受け取り、幼かった私は喜んで頷いた。
されどもついぞ、迎えは来なかった。ひたすらに待ち続け、いつの間にかこんなにも歳を重ね、あの頃の純真さを失ってなお港に船は停まらない。
風の噂で彼が祖国でドイツ人の妻を迎えたと聞いた時にも、もう心は揺さぶられないほどの長い時が過ぎた。
世は常に移り変わる。
武家の時代、徳川の太平さえも常しえではなかった。黒船さえ来なければ、もしかしたら今も家族と共にいたかもしれない。結婚をして、新しい家族を持っていたかもしれない。
異人は祖先の守った国を壊した存在だ。私の得るはずだった未来を奪った者たちだ。
悲運を嘆くなら、恨むべきは異人だ。恋などすべきではなかった。これは浅ましく愚かな女へ御仏が与えたもうた罰だったのだろう。
そう信じた。
そのはずなのに、私は今また外国人に心を動かされそうになっている。
ひたむきな恋に焦がれる胸が、怯えにきしむ。なにもかもが、ままならない。
「……ああ胡蝶、ちょうどよかった。下にロレーヌの旦那がお越しよ。お渡ししたいものがあるとおっしゃってるけど、お断りする?」
置屋の廊下で昔馴染みの芸妓が声をかけにきたのは、ロレーヌの旦那に文を出して一週間後のことだった。
閉ざされた窓辺の障子に、外に茂る若竹の笹の影が躍る。さらさらと、川の流れにも似た音が響いた。
春の終わり、初夏の足音が、もうすぐそこに迫っている。季節は間もなく幾度目かの夏を控えていた。
「……いいえ。今日は、お会いします」
「あーら、珍しい。旦那がいらないなら、ゆずってもらおうと思っていたのに。今日は槍でも降るかしら」
「おあいにく様、暑いくらいの晴天よ」
彼に手紙を送った後の訪いだ。答えが出たのなら、会わずにもいられない。
(おかしなこと。私から文を出すなんて)
会いたくないと言いながら、返事を書いたのは信じたかったからなのだろうか。
本心では、彼を望んでいた。それでも顔を突き合わせるのを恐れ、試していた。蓬莱の珠の枝など、ありもしないものを求めた。彼の思いを踏みにじると知りながら。
(もうこれきり、終わりにしなければ)
彼にはふさわしい女性と幸せになってもらいたい。
そう決めて置屋を出ると、久方ぶりに対面するロレーヌの旦那が立っていた。最後に別れた夜と変わらない、澄んだ紫水晶の瞳に高慢な私の顔が映り込む。
「ご無沙汰しておりましたわね、旦那。お願いしたものをご用意してくださいましたの?」
「蓬莱の珠の枝は、実在しないって聞いたぜ? だから、別のものを用意した」
「あら、別のもの……」
彼の返答にはがっかりした。
やはり、期待していたのだろう。
自戒し、自嘲しながら、私は彼を見上げた。
「私は蓬莱の珠の枝をご用意できたなら、お会いすると書いたはずです。別のもので誤魔化すなんてひどいのね」
「そうかもな。でも、貴女だってありもしないもののまがい物で誤魔化されるのなんて嫌だろ? だから、今日は俺の想いを込めた枯れない花を貴女に贈るよ」
「想いなど、目に見えないものは信じられませんわ」
かつて、恋をした。彼は今、とつくにの彼方へ。
殿方の心は女心と秋の空よりもずっと移りげだ。形ない言葉をもう二度と信じてはならない。
けれど、ロレーヌの旦那の大きな手が私の手を取る。たしかに高鳴った胸に気づかないふりをして、そっと手に握らされた指輪を見おろした。
銀の台座には、澄んだ空色の石がはめられている。
「この石はヒヤシンスって言うんだ。花でもヒヤシンスってあるだろ。日本語だと、夜香蘭っていうんだっけ。これが、俺が貴女に贈る枯れない花だ」
「……たしかに、これは枯れそうにないですわね。けれど、どこにでも咲く花の一本で私を身請けできるとお思いかしら」
心外だ。心血を注いで習得した芸事を軽んじられるのは、私自身を軽んじることに変わりない。
けれど、ロレーヌの旦那は軽やかに笑って首を振った。
「無理には身請けしないさ。心が伴ってなければ意味がないから、決めるのは貴女だ。これを贈るのは、貴女の手紙への返事みたいなものだ。それでいて、俺の独りよがりの決意だな」
「決意?」
「そう。指輪は途切れず円を描いてるから、永遠の象徴なんだってさ。俺は人間だから、貴女に永遠の約束はしてやれないけど、一生分の誓いならたてられる。だから、これから生涯をかけて示す。俺が本気で貴女を好きだってことを、命が尽きるまで貴女だけを愛することで示すよ」
「……心変わりは世の常。言葉だけなら、いくらでも取り繕えるでしょう。それでは響かないわ」
「それなら、貴女のその決意だって永遠じゃないはずだぜ」
存外、細かいところをついてくる。
けれど、そのやりとりは不快ではなく、むしろ心が躍った。
「しつこい殿方は嫌われましてよ」
「だよなあ。貴女に嫌われるのは困るから、会いに来るのは一週間に一度くらいにしておくかな。本当は毎晩通いたいけど。だから代わりに、もし貴女が俺に会いたくなったら遠慮せずに来てくれ」
まっすぐな瞳を見ていると、忘れていた熱い思いが胸のうちに満ちていく。
凍りついていたはずの心が揺さぶられる。
「……私は商売女です。どんな過去を持ち合わせているかも知らずに、よくもまあそんな言葉をおっしゃる」
「知ったら嫌いになると思うか?」
「そうでしょうね」
かつて愛した男に、彼は似ている。彼をとおしてかつての恋人の面影を探す私に、愛される資格はない。
「ならないよ、断言したっていい。俺が好きになったのは今の貴女だ。過去は貴女を形作ったものだろ? それなら当然、全部ひっくるめて好きだ。むしろ感謝してるよ」
陽だまりのような笑みを浮かべる彼の髪が、日差しにきらめく。
あまりにも眩しくて、私は目を細めた。
けれど、まだ足りない。足を踏み出すには、私は疑り深すぎた。それなのに、彼の愛に浸っていたいとも願っている。これは罪だろう。いずれ再び罰が下るだろう。
(ならば、甘んじて受けましょう)
今一度、幸せな温もりに身を委ねたい。
だから、彼と共に賭けよう。
永遠に続く時のなか、傲慢な女に罰が下るが先か。あるいは――
「だからせめて、また会ってくれないか。あなたに会えないのは切ない」
「…………いいわ、それでは我慢比べをいたしましょう」
いつか頑なな心が、すっかりと溶けてしまうのが先か。
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