9 謎

 停められていた車に飛び乗って、水哉さんの常より荒い運転で家に向かう。

 帰宅したのは、間もなく日付も変わろうというころだった。風雨は一層強まり、大粒の水滴が地面を打っている。


「君はそのまま座っていなさい」


 車を降りる際に水哉さんはそう言い残して、わたしの乗る助手席に回った。扉を開けるなり、身に着けていたラウンジスーツの上着をわたしにかけてくれる。そうかと思えば、今度は座席から横抱きにされた。


「ゆっ、水哉さん、自分で歩けますから……っ」

「そんなに震える足で歩いてみたまえ。ぬかるみにでも足を取られ、水たまりのなかを泳ぐ羽目になるぞ。それが嫌なら、せいぜいじっとしていなさい」


 そうは言われても気恥しさはごまかせない。けれども、うろたえるわたしを抱いたまま、水哉さんはあっという間に家に入ってしまった。


 ……何年間も留守にしていた家にやっと戻った。実際には今朝ぶりだというのに、身に馴染んだわが家の香りにそんな心地になって、わたしはほうっと息をつく。

 安堵感が押し寄せたのは、あるいは水哉さんの腕のなかがとても暖かかったからかもしれない。


「このまま君の部屋に連れて行っても構わないかい」

「すみません……」


 彼に身を委ねると、連れ戻された二階の部屋で寝台に寝かされる。

 ようやく手が空いた水哉さんはマッチを擦って、ベッドサイドのランプに火をともした。

 部屋がほの明るくなって、わたしは目を泳がせる。どんな顔をしたらいいのか、わからなかった。


「……どこか痛む場所は?」

「大丈夫です。水哉さんが、助けてくださったから」


 わたしは家に連れ戻してもらった。だから本当に、もう大丈夫のはずだ。それなのに、つい先ほど起きた出来事を思い出すと恐怖心も蘇ったみたいだった。


「大丈夫、です」


 今更震えだした手を握り締め、笑う。

 笑ったのは彼を安心させたかったからなのに、水哉さんはひどくぶたれたような顔をした。


 それから、まるで宝物にでも触れるように彼はわたしの髪を注意深く梳く。

 恐る恐る頬に触れられ、目を覗き込まれた。


「怖い想いをしただろうね。……可哀想に。本当にすまなかった。僕がもう少し早く助けてやれたら」

「それは違いますっ……! 謝らないといけないのはわたしです!」


 素直に料亭に戻り、なかをとおって表通りに出るべきだった。

 そうすれば、あんなにも恐ろしい目にも合わず、水哉さんに迷惑をかけることもなかったのだから。


 彼の手によって地面に放り投げられて散らばった宝石は、もう回収することすら難しいだろう。

 持ち歩いていたということは、水哉さんが近々仕事で使うものだったはずなのに。彼はあの男の人の意識を逸らして逃げ出す隙を作るために、大損する羽目になってしまった。


「ごめんなさい……」

「僕は君に謝罪を求めているわけではないよ」


 怒りもせず、水哉さんは呟いた。


「……君は寝る前に少しくつろいだほうがいいな。寝支度を整えて待ちたまえ。なにか温かいものを用意する」


 たしかに緊張感のせいか、喉が渇いている。指先も冷えていた。

 部屋を出た水哉さんの言葉に甘えることにして、わたしは言われたとおりに寝る支度を整える。


 ややあって、彼はほのかに湯気が揺れる横浜絵付花卉図かきずの陶磁器を手に戻ってきた。

 手渡されたのは彼お手製の、角砂糖を積み上げたカップに紅茶を注いで作ったじゃりじゃり感が特徴的な一品だ。


 わたしが一服して一息つくのを見計らって、彼は話を再開する。


「君はなぜあんな場所にいた?」

「それは……、わたし、間違えて裏から出てしまったんです。帰りは幇間の方が見送ってくれたんですけれど、たぶん、水哉さんがいらっしゃる場所を間違えてしまったのじゃないかしら。だけど、館内に戻ったら間違いを指摘するようで悪いから、路地裏をとおって道を回ろうとしたんです」


 状況をつぶさに説明していると、誰かが階下の玄関を力強く叩いた。

 びくっとしたわたしの前で、水哉さんが窓から階下を見おろして眉根を寄せる。


「……ミシェルめ」


 彼は呆れたようにつぶやいて、窓を開けた。


「勝手に開けて入りたまえ。施錠は忘れないように」


 そうしてポケットから取り出した鍵を放る。階下の庭に彼がいるらしい。


 わたしはそこでようやく、車に残してきたはずのロレーヌさんがいつの間にやらいなくなっていたことに気がついた。どうやらずいぶんと動転していたらしい。


 やがて、鍵開けに成功したロレーヌさんがばたばたと駆け込んできた。すっかり雨に降られてしまったようで、スーツの肩が黒く濡れている。


「ユキチカ、おまえってば本当にひどいやつだな!」

「開口一番になにを言うかと思えば。口を慎みたまえ、ここは琴子くんの部屋だぞ」

「それ関係あるか?」

「彼女の部屋に気安く入るんじゃないという意味だ」

「あっそうだコトコ。どうしたんだよ?」


 水哉さんの言葉を受けて仕方なさそうに廊下に出たロレーヌさんが、ひょっこりと扉から顔をのぞかせてわたしを見た。


「車のなかで今か今かとコトコを待ってたらさ、外で待ってたユキチカが急に血相変えて走り出しただろ? で、これはなにか事件でもあったなと思って、加勢するつもりで警邏中だった警官捕まえて戻ったんだ。そしたら、車がなくなってる! 置いてかれるなんて思わなかった!」

「それどころじゃなかったからね」

「こっちだってそうだぜ、それどころじゃなかった。なんせ近くで落ちている宝石を拾い集めている泥棒がいたから、警官が大捕物初めてさ。それもその宝石ってのが日本じゃまだ珍しいやつばっかり。あれ、どうしたんだよ。おまえのだろ?」


 あの時間に路地裏をとおる人は多くない。

 いるとしても酔客くらいのものだ。心地よい酔いに足元がおろそかになっている彼らは、落ちている宝石には気づかないだろう。

 拾い集めている人がいたなら、それはきっと宝石が落ちるのを見ていたあの男の人に他ならない。


 わたしと同時に同じ結論を導き出したらしい水哉さんは、軽蔑の色を乗せた瞳を伏せた。


「ふん、欲をかいたか。彼女が手に入らないとみて、宝石に目移りしたようだね」

「彼女ってコトコ? 手に入らないって……、まさかあいつ、女衒か? 花街で?」


 ロレーヌさんが目を丸くする。

 女衒とは、すなわち少女をさらい、あるいは貧しい家から買い上げて妓楼に売り飛ばす者をさす言葉だ。


「まあ、でもそれなら安心していいぜ。やつなら捕縛されるところまで俺が見届けたからな。もう大丈夫だ」

「そう、ですか……」


 ロレーヌさんのもたらした情報に、ほっとする。

 水哉さんはそんなわたしをちらりと見て、肩を押した。横になれといいたいらしい。


「今日はもう遅い。君はそろそろ休みなさい。僕らは応接間にいるから、なにかあったら呼ぶといい」

「はい……」


 水哉さんはわたしに布団をかけなおすと、身をひるがえした。

 だけれども、遠ざかる熱が手放しがたく、無意識のうちに彼の袖をつかんでしまう。


「……琴子くん?」

「ご、ごめんなさい……。なんでもありません」


 ぱっと手を離したけれど、もう遅かった。水哉さんは歩をとめてしまう。


「……ミシェル、先に戻ってコーヒーでも飲んで待ちたまえよ。僕は琴子くんが眠るまでここにいる」

「あー、そうだな。それがいいんじゃないか。じゃ、おやすみ、コトコ。こんな時間に邪魔して悪かったな。いい夢を」


 ロレーヌさんがひらひらと手を振り、水哉さんに先んじて部屋を出ていく。

 わたしは慌てて首を振った。


「ゆ、水哉さん。大丈夫です、わたし……っ」

「僕がここにいたいんだ。我儘ばかり言うようで、君には悪いと思っているが」


 我儘なのは、わたしなのに。

 それでも水哉さんの申し出が厚意から出たものだとわかったので、わたしは悪いと思いながらも断ることができなかった。なんて意志薄弱。


 わたしは布団に鼻まで潜り込んで、勉強机に付属する椅子に腰かけた水哉さんの横顔に尋ねる。


「……さっきのお話。雨が降っていたのに、水哉さんはどうして車の外にいらっしゃったの?」

「外にいるほうが君が出てきた時にすぐ気づけるだろうと思ってね。それに、狭い車内でミシェルとふたりになるとうるさくてたまらなかった。まさかそれが幸いするとは思わなかったが、おかげで路地裏の物音に気づけたよ」

「ああ、そうだわ。ロレーヌさんには胡蝶さんとのお話を、ちゃんとお伝えしないと……」

「いや、それはもういい。今回の件を受けて、あの男も考えを改めるだろう。今後、君は花街に関与すべきでない」


 言葉こそ断言していたけれど、まるで縋るような声色だった。


「でもわからないんです。どうして、わたし……」


 あの時、襲われたのは本当に偶然だったのだろうか。

 たまたま人さらいに目をつけられたのか。それとも、なにかほかに理由があったのか。


 花街に行って、偶然に女衒の被害にあいかけるなんてそうそうない。だけれど、必然だったのだとしたら、どういう因果か。


 考えれば考えるほどわからなくなる。思考の糸がこんがらがって、わたしは天井を睨みつけた。


「……もう眠りたまえ。後はすべて、僕がまかされたよ。君は、悪い夢を見たと思って忘れてしまって構わない」


 水哉さんが頭を撫でてくれる。

 その優しい指先がわたしの緊張を緩やかにほどく。


「おやすみ、琴子くん。どうかよい夢を」


 次第に眠気がやってきた。

 わたしがすぐ眠りに落ちたのは、きっとそばにずっと彼の気配をずっと感じていたから。

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