一章 恋は祈りもの

1 女学生と秘密の指輪

  いのち短し恋せよ乙女 黒色の髪色あせぬ間に

  心のほのほ消えぬ間に 今日は再び来ぬものを


(そう言われても、心の炎がとっくに消えてしまった場合はどうしたら?)


 放課後の教室でクラスの誰かが歌うのを聞きながら、私は帰り支度を整える。

 風呂敷に教科書を包んでいると、隣の席のゆりえさんがわたしを覗き込んできた。


「ねえ花菱さん、明日はとうとうクリスマスね。あなたは明日からのお休みをどうお過ごしになるの? あたしはね、郷里に戻るのよ。道中、汽車から閻魔帳を飛ばして処分するつもり。よろしければ、あなたのぶんも任されてよ?」


 彼女は丸眼鏡を午後の日差しに輝かせて、「ふふふ」といたずらっぽく笑う(ちなみに閻魔帳とは先生の採点表のことで、多くの学生がこれほど無慈悲で恐ろしいものはないと思っている)。


「お気持ちだけいただいておくわ。幸か不幸か、うちには閻魔帳を気にする人はいないもの」


 わたしは彼女のとんでもない提案に笑って首を振った。



 大正八年、神奈川は横浜紅蘭女学校。乙女の花園はクリスマスとお正月の長期休暇を翌日に控えて、にわかに浮き立つ空気に包まれていた。


 親しい学び舎にも年明けまでしばしのお別れだ。

 クラスメイトたちは別れのさみしさを紛らわすためか、いつもより一等おしゃべりになっているらしい。結露した窓の内側、温かな教室では話に花を咲かせる少女たちの居残りがあちらこちらで続いていた。


「花菱さんは、地元組でしょう? 静養に出られるの?」

「わたしは家でおとなしくするの。読みたい本がたくさんたまっているし……」


 私は自室の机に積んである本を想いながら答えた。

 『シャーロック・ホームズ』や文芸倶楽部で連載中の『半七捕物帳』、婦人画報の『由縁の女』……。タイトルを思い出すだけで、ついついうっとりしてしまう。


「読書! 真面目ねえ。あたしは参加できないけれど、寄宿舎では明日、シスターたちとクリスマスのお祝いをなさるの。せっかくだから、参加してみたらどう?」

「そうよ、ぜひいらしてちょうだいな!」


 寄宿舎のパーティーの話題には、前の席の野々村さんが食いついた。おかっぱに髪を切りそろえた彼女も寄宿生のひとりだ。今年は故郷に帰郷せず、寮に居残りをすると聞いている。


「お菓子もたくさん出るのよ。私、琴子さんがいらっしゃるなら、待ってるわ」

「それなら家に帰って、でかけてもいいか相談してみるわ」

「ええ、ええ、そうなさって。せっかくのお祝いなんだから。でもね、お祝いもいいけれど、あたしは送迎会もしたほうがいいんじゃないかって思うのよ」


 訳知り顔でゆりえさんが声を潜める。


「ここだけの話、頼子さんって退学なさるんじゃないかしら」


 甘利頼子さんは我らがクラスのマドンナである。物静かで聡明な瞳と優しい微笑が、少女たちの視線をひきつけてやまない美しい人だ。下級生にもひそかに憧れている人たちがあると聞いている。

 その方の退学疑惑に、わたしは野々村さんと顔を見合わせた。


「どうしてそう思うの?」

「だってあの方、ご結婚なさるみたいなの。あたし、学年主任の依田先生と頼子さんが放課後にお話をしているのを聞いてしまったのよ」

「ぶしつけ!」


 これにはすぐさま野々村さんが喝を入れる。それでも、気になるには気になるようで、「それで?」と前のめりになって先を尋ねた。


「それでね、その時、頼子さんは苗字変更の手続きは不要っておっしゃったの。苗字を変えるといったら、やっぱりおめでた話でしょう? 頼子さんは美しくって、卒業顔には程遠いのだし、間違いないわ」


 卒業顔とは、卒業するまで縁談が来ないほどのお顔——つまり、それほどよろしくないお顔——のことである。


 頼子さんの令嬢然とした、華やかな雰囲気は誰の目も惹きつける。殿方だって、きっとそのはずだ。だから、嫁入り先がこんなに早く決まってしまった……、というのがゆりえさんの推測らしい。


「それでね、苗字の変更の手続きがいらないってことは、もう学校にはいらっしゃらないからじゃないかと思ったのよね。おふたりはどう思う?」

「おお、なんたる悲劇! クラスのマドンナが見ず知らずの殿方に奪われてしまうなんて」


 頼子さんの大ファンの野々村さんは絶望顔で嘆いた。


「もう。ご本人のいらっしゃらない噂話は言いっこなしよ。苗字だってなにかわけがあるのかもしれないのだし。噂なんてして、もしも誤解があったら、頼子さんには訂正できないのだからひどいわ」


 仮に間違いがあるようなら、ご本人にも申し訳が立たない。

 わたしはそれとなく、たしなめたつもりが……。


「じゃあ、ご本人がいらっしゃればよくって?」


 にんまり。

 ゆりえさんが唇を弧の字にする。


「あたし、花菱さんもご婚約なさってるって聞いたのだけど」


 どきり。

 いつの間にか、話の矛先がこちらに向いている。


「それじゃあ琴子さん、学校はどうなさるの?」


 ぎくり。

 野々村さんまで追撃してくる。連撃にわたしが震えあがったのを、ゆりえさんは見逃してはくれなかった。


「答えていただくまで、今日は帰しませんからね!」

「や、やめないわ、わたし。学校は卒業までいたいの」

「あら! ご婚約については否定しないということは、それは本当なのね? 噂によれば、花菱さんは許嫁の殿方と一緒にお住まいだということじゃない。あたしが思うに、もうキッスはお済みね。夕暮れの公園のベンチにおふたりで腰かけて、暮れゆく夜陰に紛れて熱いキッスを交わしたり、夜の甘い時間をお過ごしになりながらキッスを交わしたり、活動写真の最中に人目を忍んでキッスを……」

「ハレンチ!」


 やれキッスそれキッスと連呼するゆりえさんに、またもや野々村さんが喝を入れる。

 たしかにハレンチ。


「そんな根も葉もないうわさ話を言っちゃいや!」


 わたしは即座に否定した。なぜなら、キッスも甘い時間も事実無根だからだ(……甘い夜には覚えがある。あるけれども、「たまには甘い夜を君と過ごすべきだと思ってね」という台詞つきの大量の焼き菓子をプレゼントされたくらいだ。たしかに甘かったけれど、ゆりえさんの想定とはだいぶ違うはずなので、ノーカウントとさせていただく)。


 わたしは深呼吸をして、たったひとつの真実を告げた。


「たしかに、許嫁はあるけれど……。わたしはただ、お食事をご用意したり、お掃除したり、お洗濯しているだけだもの。ハレンチなことなんてなにもないわ」

「琴子さん」


 野々村さんがすっと目をすがめる。


「それってあなた、お女中さんの間違いではなくって?」


 ……そうとも云う!


「つ、つまりそういうわけなの。申し訳ないけれど。おふたりのご期待には応えられないわ」

「ええ? でも、なにか少しくらいあるのではなくて? 殿方というのは得てして精力的なものだと『少女画法』にも書いてあったわ。なかには妻がありながら、お女中さんに手を出す方も」

「ゆりえさん!」


 野々村さんとわたしの声が合わさって、ゆりえさんの鼓膜を突いた。

 彼女はぺろっと舌を出して、「でもでもだって、あたしって耳年増なの。それに野々村さんだって気になるでしょ? あたしたち、遅かれ早かれみーんな通る道なのよ。知識は持っていて損しないわ」と野々村さんの篭絡にかかる。


「……」


 目に見えて心揺らぐ野々村さんに、わたしは危険を察知した。

 これは間違いなく、寝返られてしまう二秒前だ。


 閉ざされた園では、こうした話題を持つ者は恰好の餌食なのである(みんなが恋物語に飢えているものでして)。

 逃げるが勝ちと、わたしはさっと荷物をまとめて立ち上がる。


「そ、それじゃあ御機嫌よう。わたし、お夕飯の準備があるから帰らないと。おふたりも門限がくる前に寮にお戻りになったほうがよくってよ。またお休み明けにお会いしましょう!」

「あっ! 逃げたわ逃げたわ! 花菱さんが逃げた!」


 やんややんやと囃し立てる声を背中に聞きながら、わたしは速やかに教室を脱出した。それから、先生方にとがめられない程度の早足で廊下を逃げ続ける。


 ガバレットに結った髪をまとめたリボンがその勢いにはためいて、ひらひらとうなじを掠めた。冷たい空気を首筋にを感じながら、たどり着いたのは下駄箱。


「あ……」


 わたしはそこで、噂の同級生と対峙した。

 銘仙の袂美しいその人は——


「頼子さん?」

「まあ……。琴子さん、今お帰りなの?」


 靴箱の前で所在なさげにたたずんでいた美しい人は、わたしのかけた声にはっと顔を上げた。


「ええ、これから帰るところ。頼子さんはどうなさったの?」

「いえ、忘れ物がないか気になってしまって……」

「明日からお休みだものね、わかるわ」


 言われてみると、私も教室に筆箱やらノートやらを忘れてきてしまったような気がしなくもない。

 もう一度、教室に確認に戻ろうかしら。だけど、そうしたら今度こそゆりえさんと野々村さんに捕まるに違いない。

 悩んでいると、頼子さんはさみしげな横顔に消え入りそうな微笑を浮かべた。


「あの……、実は私ね、今日で学校は最後なの。だから、なおさらね。あんまりにもさみしくて、クラスの皆さまにはご挨拶もできなかったのだけれど……。お許しになって。悪気なんてなかったのよ。ただ、なんと言えばいいのかわからなくて、いつものとおり過ごしたかっただけなの」


 それでは、ゆりえさんの言っていたのは本当だったのだ!


 彼女は惜しむように、ゆっくりと靴箱を閉じた。儚いまなざしをして、白魚の指でたった今からっぽになったばかりの靴箱――、その蓋に貼られたAと書かれたプレートを撫ぜる。


「琴子さんからみなさまによろしくお伝えして頂戴。それではごきげんよう」

「ええ……、どうかお元気で」

「ありがとう。琴子さんもお元気で」


 わたしは婚約によって、突然学び舎を去らなければならなくなった彼女の心中を想って、立ち去るその背を見送った。


 こんな別れは、これが初めての事ではない。

 女学校の子女は、たいていが在学中に彼女のように婚姻のため中途退学を余儀なくされる。そして親しんだ教室を遠く離れ、未知なる世界に飛び込んでいくからだ。


(わたしはきっと恵まれているのだわ。……水哉さんのように卒業まで待ってくださる方は、きっとそう多くないもの)


 それにしても、と下駄箱を振り返る。


(頼子さん、なにかお探しだったのかしら?)


 そんな雰囲気があった。

 けれども、すでに去った人に想いを馳せてみても見当もつかず。

 わたしは諦めて、帰路につくことにした。


 同じような靴箱が並んでいてわかりにくいけれど、申し訳程度にふられたアルファベットのなかからわたしは自分のナンバーであるIと書かれたプレートを探しだす(これがまた恐ろしいことに、成績順なのである)。そっと開くと、なかにはこっそりと隠されたクリスマスプレゼントや手紙の山々!


(野々村さんからのお手紙に、ゆりえさんからのプレゼントの本……。朝は入っていなかったけれど、いつの間にお入れになったのかしら? 中休み、お花を摘みに行ったとき? それとも……)


 かく言うわたしも、プレゼントを入れるため、今日はいつもより早く登校したのだけれども。なにしろ今日はクリスマスイブ。友人の靴箱にプレゼントを潜ませるため、下駄箱は終日、局地的人口過密地帯となるのが例年のことだったからだ。


 人目を忍んでこっそりと靴箱を訪れる友人の姿を想像してほっこりしながら、わたしは慌ててカバンのなかに貰い物を隠していく。


 学業にかかわりのないものは、先生に見つかると没収されてしまいかねない。

 手紙、本、ペン立て、キャンディーボックス、それから……、小さな紙の包み。手紙かしらと思ったけれど、かすかなふくらみが気になって、わたしはなかを覗いてみた。そこでひときわ輝いていたのは金の影。


(指輪だわっ?)


 それは、金糸で編んだ指輪だった。真心を感じる、それはそれは美しい品。


(指輪だわっ!)


 想定外に立派な指輪に、わたしはおおいに動揺した(だって、どうしてわたしに指輪など届いたのかしら)。


「あら! 琴子さん、まだいらっしゃったの?」

「さては、話し足りなかったのね! 苦しうないわ、あたしたちがソーダ・ファウンテンへの寄り道につき合ってしんぜましょう」


 そこへ、とことことおしゃべりしながらやってきたのは、野々村さんとゆりえさん。

 ゆりえさんはお殿さま風のおかしな喋り方を披露しながら、甘い誘惑でわたしたちの心をたぶらかそうとする。


「寄り道は厳禁よっ」

「まあ、つれないことおっしゃるのねえ!」


 ぷんっとゆりえさんは可愛らしく頬を膨らませた。

 わたしとしても、このまま流されたい気持ちはあるけれど、秘密の品を受け取ってしまった今は余裕がなかった。


(この指輪、どうすべき?)


 宛名もない、差出人もわからない、きれいで不思議な指輪にわたしは首を傾げた。

 けれど、立ちすくんで悩む暇もない。


 今の今まで下駄箱にひと気がなかったのは、ほんの偶然だったらしく、下校時間も近づいたその場所はあっという間にクラスメイトの姿であふれかえった。


 結局、わたしは彼女たちの流れに学び舎を押し出され、帰路につくことになる。

 謎めく金の指輪を、手にしたまま——。

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