二章 木石にあらずんば

1 花月園と小舟

 ————時計の針が、また少し進んだ。


 大正九年一月十一日、女学校も門を閉ざす日曜日の神奈川県横浜市。

 ここは静かな雨、ジャワの紅茶、白きカモメが飛び交う麗しき空気を歌われた港町だ。


 文明開化を肌で感じられるハイカラな街の通りを歩けば、軒を連ねる喫茶店やパン屋、洋服屋を楽しめる。そのさまは『本式の洋風というものを味わいたいのなら、東京ではなく横浜へ』と、まことしやかに囁かれるほどだった。


 そんな横浜に住むわたしは今日、許嫁の水哉さんに連れられて、とある公園を訪れていた。


 寒椿、寒緋桜、白梅、山茶花さざんか――残雪の合間に冬の百花が咲き乱れるは、清々しい新年の気配が漂う花月園かげつえん


 大正三年に開園したこの公園は、仏蘭西フランスのフォンテンブローの遊園地を範に作られたのだという。噴水、花壇、ブランコ、ボートの浮かぶ池を有し、市民の憩いの場として愛されている場所だ。


 年が明けたばかりということもあって、今は白い腕で羽根つきをする銘仙の着物の少女や、デカルト論争に熱を上げる書生の姿で賑わっていた。さらには、宝塚歌劇団ならぬ、花月園少女歌劇団のファンらしき乙女の姿もあちこちに見受けられる。


 ふと、池を背に冷たい風が吹き抜け、日差しに輝く雪を散らした。


 次いで甘い残り香が、はらりと鼻先を掠める。

 わたしは香りをまとって目の前に零れ落ちた梅の花弁を、とっさに手のひらで受け止めた。


(取れたわ! 取れた!)


 たかが花弁ひとひら、されど花弁ひとひら。宙を舞うそれを手にするのは存外難しい。だからこそ、見事に手掌に収まった花びらが吉兆を告げるような気がしてくるのだった。

 もしや今日はいい一日になるのでは?

 そうひとり興奮していると、おもむろに顔を覗き込まれる。


「琴子くん」

「ひゃっ」


 ブルーサファイアのように青い瞳を持つ、端正な顔は水哉さんのものだった。

 彼は、長身を傾いでわたしを見つめる目をすがめた。


「ずいぶんとひどい顔をしているようだが」

「ええっ……。そ、そんなにひどい顔を?」


 さっと両手で顔を隠せば、「顔色の話だよ」と、思い出したようにつけたされた。


「安心したまえ、君の花のかんばせには非の打ちどころもない」

「……水哉さんがおっしゃると、なんだか嫌味だわ」


 なにしろ、わたしよりずっときれいな顔をしているのだから。


「心外だね。本音のつもりだったんだが」


 水哉さんは肩をすくめると、視線をわきにそらした。


「とにかく、そこのベンチに腰かけていなさい。こんな場所で倒れるのは君も本意でないだろう」

「いえ、そんな。久しぶりなので、少し緊張してしまっているだけで、わたしは元気ですから……」


 慌てて取り繕うも、わたしの背を押す水哉さんに導かれ、ほど近いベンチに座らされる。

 彼はそのまま、仕立て下ろしのわたしのショールを巻きなおした。水哉さんの手できっちりと詰められた首元から、水の香りをまとった北風が追いやられる。


「すみません、着崩れていましたか?」

「いいや。だが、温かくしていないと風邪をひきかねないからね。そんなことになれば、お義父上にお叱りをうけかねない。用心しておくに越したことはないだろう」


 彼は最後に、仕上げとばかりに自分の帽子をわたしの頭にかぶせた。


「このお帽子は?」

「なに、少し君に貸してやろうと思ってね」


 この時、水哉さんが念頭に置いていたのは、これからここに来る人のことだったのだろう。


 今日は、これからここでわたしの父さまと兄さまに会う予定なのだ。


(やっぱり緊張するわ……)


 去年の桜が散るころ、水哉さんのお家に引き取られる前までは一緒に住んでいた家族だ。とはいえ、屋敷のなかでも顔を合わせることが多い人たちではなかったので、つい身構えてしまう。


 固くなったわたしに気づいたのか、水哉さんは「では、少し甘いものでも食べたらどうだい」と、花月園の名物だというおまんじゅうを差し出してくれた。

 つい先ほど、水哉さんが大量購入した品だ。だけれども、いつの間にか、量が購入時の半分になっている。きっと、水哉さんが食べてしまったのだろう(相変わらず、脅威の吸引力を誇る胃袋をお持ちの方!)。


 わたしは思わず不安になって尋ねた。


「……水哉さん、父へのお土産のパンはまだちゃんと全部残っていますよね?」

「無論だとも」


 水哉さんが 片手に抱えた飯行李からは、ヨコハマベーカリーで買ってきた焼きたてのパンが甘く香る。

 それから、再度おまんじゅうを勧められたわたしは、ありがたくひとつ貰うことにした。


 しっとりと蒸しあげられたお饅頭をかじると、水哉さんも隣に腰かける。


「それよりも、今日はクラスメイトに遊びに誘われていたんだろう? お義父上のことは、僕に任せて出かけてもよかったのに」

「ありがとうございます。でも、せっかくなので顔を見ておきたくて」


 本音をいえば、わたしが来なければならないという義務感に燃えてもいた。


 それというのも、わたしの実家にあたる花菱家は、すでに水哉さんから多額の融資を受けている。おかげで先の不況による、一家離散は防げたわけだけれども。


(もしかしたら、また家の財政状況が危なくなって、水哉さんにお金をお借りしに来るという可能性もなきにしもあらず……)


 今日の集まりの建前は、一応は新年のご挨拶だ。とはいえ、普段はなかなか外出に誘われることはない。そのため、不安になって首をつっこみにきたというわけである。


(お話によっては、わたしが水哉さんをお守りしないと)


 改めて気合を入れなおしていると、雪の残る遊歩道に見慣れた姿が現れた。

 背広をまとったふたりの男性は、わたしの父と兄だ。ふたりは立ち上がったこちらに気づくなり、山高帽やまたかぼうをとって挨拶をしてくる。


「やあ、すまない。この寒空の下で待たせてしまったかな」

「とんでもない。ご無沙汰しております」

「父さま、兄さま、お久しぶりです」

「琴子! 本当に久しぶりだ……」


 水哉さんに続いて歩み寄って、挨拶を交わす。

 わたしの手を親しげに取った兄は、すぐさま心配そうに眉を落とした。

 そして……。


「手が冷たいじゃないか! もしかして、冷え性? お土産に生姜を持ってくるべきだったか……! 冷えは万病のもとというくらいだし、怪我や病気をしていないといいのだけど」


 ぶつぶつとなにごとかを呟きだす兄さま。

 どうやら、持ち前の心配性を発揮してしまっているようだ。


「わたしは毎日元気に学校に通ってますから、安心なさって」


 昔から心配性が行き過ぎて、よく胃を痛めていた兄さまに苦笑をする。


「まったく、おまえは相変わらずだな。男ならどんな時も堂々と構えていなさいと言っているのに。若い水哉くんのほうがよほど度胸が据わっているよ。見習いなさい。というか、爪の垢を売ってもらいなさい」

「お義父さん、それは買いかぶりというものですよ。そんなものは売り物にもなりません」

「そんなことはないだろう、琴子?」


 同意を求められたけれど、爪の垢を煎じて飲んで、本当に薬になるかはわからない。


「たしかに、水哉さんは胃薬には縁がない上に、机いっぱいのお菓子にも物おじせずに勇猛果敢に挑みますけれど……」


 そのあたりは小食の上、胃薬が手放せない兄とは大違いだ。


「でも、今日のお土産なら、きっと兄さまもおいしく食べられます。焼き立てのパンなんですよ。ね、水哉さん」

「やあ、これはいい香りだね。実は私たちも今日は水哉くんの誕生祝いを兼ねて、森永のチョコレートを買ってきたんだ。交換といこうじゃないか」


 父さまと、お互い持ち寄った品を交換する。物々交換だ。


「しかし、よく僕の誕生日など覚えていらっしゃいましたね」

「西洋じゃ、個人の生まれた日を祝うと聞いたものでね。覚えておいたんだよ。琴子もお祝いしたのかい」

「ええ、しました!」


 わたしも先日、ロレーヌさんと水哉さんのお誕生日パーティーをおこなった(ロレーヌさんの持ってきてくれたシャンパンを飲んで、水哉さんが早々に酔いつぶれたため、開始一時間でお開きになったのはここだけの秘密だ)。


 水哉さん自身は、英国にルーツがあるとはいえ、日本生まれの日本育ちのために誕生日祝いにさしたるこだわりはないらしい。

 それでも、大好きな人がみんなに祝われているのを見ると、なんだかわたしまで嬉しくなってくるのだった。



(それにしても、父さまと兄さまには悪いことを考えてしまったわ。今日は本当にお祝いのおつもりでいらしったのね……)


 園内を散策しながらの、和やかな会話も一段落つくころ。

 わたしは水哉さんに誘われて、休憩がてらボートに乗り込んで、ぼんやりと想いを馳せていた。


 ボートの縁に手をかけて、池の中央から残雪の目立つ花月園を見晴るかす。


「父さまと兄さまったら、もうあんな遠くにいらっしゃるわ。一緒に乗ってみたらよかったのに」


 『ここから先は、若いおふたりで』などと、お見合いの仲人さんのようなことを言った父さまは今、ボート乗り場のわきでお饅頭に舌鼓を打っている。兄は、その隣でぽつねんとたたずんで、心配そうにこちらを眺めていた。

 落ち着かないのか、しきりに懐中時計の蓋を手のなかで開けては閉めてと繰り返している。

 きっと、小舟が沈まないか不安に思っているのだろう。(なにごとも悪く考えては案じるところを見ていると、そのうち胃に穴が開いてしまわないか、わたしこそ心配になってしまう)。


「だいぶ歩いたから、お義父上も少し休みたかったんだろう。君は疲れていないかい?」


 ボートに揺られて、風が撫ぜた水面が波立つのを眺めていると、水哉さんから囁くように問われた。

 顔を上げて、わたしは初めて窺うようなまなざしを注がれていたことに気づく。


(心配してくださったのかしら)


 もしかしたら、ボートに誘ってくれたのは息抜きのつもりだったのかもしれない。


「いいえ、まだまだ元気ですよ」

「では、せっかくだ。次は琴子くんが漕いでみたまえ」


 すかさず、櫂を手渡される。


 ……もしかしたら、ボートに誘ってくれたのは単なる舟遊びのつもりだったのかもしれない。


「ボートを漕ぐのは初めてだわ。うまくできるかしら……」


 初体験の舟遊びに奮起して、わたしは受け取った櫂を緑の水に沈めてみた。

 さっそく、先ほどの水哉さんの見よう見まねで漕いでみるもののうまくいかない。櫂は水面を滑るばかりで、ボートは沈黙を守り続けている。


「もっと深く沈めてごらん」

「こうですか?」


 だけれど、いつまでも足掻くわたしではない。

 言われたとおりにしてみると、次第にボートが動き出して、わたしは胸を張って水哉さんに笑いかけた。


「見てください、水哉さん! 進みましたっ」

「そのようだね。いやはや、追い風というものは実に偉大だ」

「…………」


 言われてはっとした。

 わたしの行動は一切関係なく、ボートは風に押されて前進していることに。


(くっ……! 悔しい)


 再度、気合を入れなおす。それから、全力で櫂を握り締めた時、ひときわ強い風が吹いた。

 思わず立ち上がってしまったのは、木枯らしがわたしの頭の上の帽子をふわりとさらったためだ。


(水哉さんの帽子!)


 とっさに手を伸ばして、端を掴むのに成功したものの——、足場は不安定な小舟の上。


「きゃっ……」


 ぐらりと均衡が崩れ、わたしは水面に向けてひっくり返る。

 刹那、わたしの腕をつかんで引き寄せた手があった。


 強い力に抗いきれず、勢い余ってボートの内側に倒れ込む。


(……痛くない? どうして?)


 ぎゅっと目を閉じて衝撃に備えるも、いつまでたっても予想した痛みは訪れない。


「……無事かい?」

「はっ……!」


 そして、わたしは耳元を掠めた囁き声にぱっと目を見開いた。思わず息を飲んだのは、水哉さんの端正な顔が目と鼻の先にあったから。


「ゆ、水哉さんっ……」


 どうやら、彼の上に倒れ込んでしまったらしい。そう気づくなり、彼の胸の上で縮こまっていたわたしは、慌てて背後に飛びのいた。

 けれども、狭いボートのなか、すかさず伸びてきた水哉さんに腕を掴まれてしまう。結局、たいした距離も取れずにわたしの逃避行は終わった。


 ただ、ボートだけが今もゆりかごのようにゆらゆらと揺れている。


「じっとしていたまえ。船がひっくり返れば今度こそふたりで寒中水泳をする羽目になる」

「ごめんなさい……っ。あの、重たかったでしょう。水哉さんこそ、大丈夫ですか? 怪我は……」

「無論、無事だとも。君に怪我がなさそうなことを喜ぶべきか、ずいぶんと熱烈な抱擁をしてくれるものだと喜ぶべきか、悩む程度には」

「じ、冗談おっしゃらないで」


 わたしは、大いに動揺しながら言葉を紡いだ。

 それから、気恥しさを誤魔化すために帽子を彼の頭に戻す。深くかぶせた帽子が水哉さんの落ち着いた視線を遮って、ようやくほっと一息つくことができた。


「帽子、お返ししておきます……」


 水哉さんはすぐに帽子をかぶりなおした。片手で位置をずらして、もの言いたげな目をわたしに向ける。


「君も帽子をかぶってくるべきだったね。頭が寒そうだ」

「え、ええ、次はかぶってきます。それよりも助けてくださって、ありがとうございました。もう戻りませんか?」

「それがいい。兄君がずいぶんと動揺しているようだから」


 こうしていると、ふとした拍子に今度こそボートを転覆させかねない。わたしの提案に、水哉さんはちらりと陸を見やった。

 つられてそちらを見れば、水際で兄が右往左往しているところだ。


(あぁ、兄さまの心配性がまた炸裂するわ……)


 今回はわたしが悪いので、申し訳なさを覚える。

 それから、気を取り直して一生懸命にボートを漕ぎだしてみたものの……牛歩、牛歩、牛歩。あるいはマンボウ。


 のどかな舟遊びといえば聞こえはいいけれど、亀の歩みにも劣る。このままでは、陸に辿り着くころには春が来てしまいそうだ。


 とうとう業を煮やしたのか、水哉さんがわたしに手を差し伸べた。


「……代わろう」

「お、お願いします……」


 わたしは大人しく水哉さんに櫂を返した。


 水哉さんが受け取った櫂を水面に沈める。ゆっくりと漕ぎだすと、実は先ほどまで錨でも下りていたのでは、と疑いたくなるほど簡単にボートは池の上を滑り出した。


 やがて、わたしたちは冬のうちに陸へと辿り着く。大西洋横断に成功した探検隊の気分でボート場に乗りつけるなり、すでに桟橋に待機していた顔面蒼白の兄さまがすっ飛んできた。


「琴子! 小舟から落ちてしまうかとひやひやしたよ。怪我は? 頭を打ったり、足をひねったり、小指を突き指したりしていないかいっ?」

「大丈夫です。水哉さんが受け止めてくださったもの」

「失礼しました、ご心配をおかけしたようで」


 わたしに続いてボートから降りてきた水哉さんが、落ち着いた様子で兄さまをなだめる。そこへ、緑茶をぐびぐびと飲んだ父さまが、遅れてやってきた。


「春明、おまえも一部始終を見ていただろう。まずは琴子を助けてくれた水哉くんにお礼を言いなさい」

「結構です、当然のことをしたまでですから。むしろ、お預かりしたお嬢さまを危ない目に合わせたお叱りを受けるべきでしょう」


 あくまで一貫した態度を崩さない水哉さんの背を、父さまがぱしぱしと叩く。


「だが、ちゃんと守ってくれたじゃないか。君はその調子で今後とも頼むよ。これでもかわいい娘だからね。掌中の珠というやつだが……、宝石商の君なら扱いも手慣れたものだろう?」


 それから、父さまはニヤリと笑う。


「だが、残念ながら、私には水哉くんの身の安全が保障できないな。さっきのように、この子が襲い掛かることもあるだろうから」

「父さまっ、さっきのは襲い掛かったわけじゃなくってよ……!」


 それではまるで、わたしがじゃじゃ馬みたいだ。先ほどの一件は事故だったというのに。

 意地悪を言ってからかってくる父さまに、わたしは顔に熱が集まるのを感じた。


 けれども、こちらの反論にも父さまは上機嫌に笑うだけだ。

 心配性のお兄さまは、気が気じゃないような顔をしていたけれど、助け船を出してくれる様子もなく。


 さらには水哉さんまでもが、「おや、それは残念だ。君が襲ってくれるのを、楽しみにしていようと思っていたのだが」と、冗談に乗るからたまらない。


「水哉さんまで……っ」


 わたしは孤軍奮闘むなしく、撃沈された。


 おかげで赤くなっているだろう頬を隠すようにうつむくことになる。


「ああ……! 琴子、今度は熱でも出たんじゃないかい? 顔が赤いようだよ」

「大丈夫です。ちょっと暑くなっちゃっただけですから……」


 言い訳を口にして、うつむく。

 こずえを渡り、颯々さっさつと吹き抜けた寒風もこの熱を冷ますには足りないらしい。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る