4 道半ばのふたり

 荷車がガラガラと音を立てて未舗装の道を行く。

 わたしは外国人紳士を乗せた俥とガス灯の間をかいくぐり、坂道を上った。


 やがて見えてくる洋館の庭に群生する、雪のかかった月季花バラの世話が水哉さんの趣味だ。

 今はすっかり葉が落ちて寒々しいものの、春から秋にかけては大輪の花を咲かせてくれる低木である。

 花の時期は、水哉さんが早朝から庭に出て土いじりをする背中を見ることができる。


 まめまめしく世話をする理由を聞けば、「植物は人と違って手をかけたぶんは応えてくる。それが愉快なだけだよ」とおっしゃったのを覚えている。


 そんな彼が可愛がる茨の合間をとおり抜け、玄関の扉を開く。扉についたベルがカラカラと高鳴って、わたしの帰宅を告げた。


「……?」


 一歩、玄関に立ち入ったわたしは、ふわっと漂う甘い香りに気がついた。

 香水でも、みりんでもない。それは間違いなく、この家に来て覚えた洋菓子の香りだった。


 いったいどうして? その答えはひとつっきりだ。

 家人はわたしか水哉さんしかいないのだから、この香りのもとは彼に決まっていた。


 午前は出かけると言っていた彼は、もう家に戻っているらしい。


「ただいま帰りました!」


 挨拶のためにリビングに入れば、ちょうど厨から水哉さんが出てきたところだった。その手には、焼きあがったばかりらしい大きな焼き菓子がある。


「琴子くん、手を洗って着替えを済ませたら戻って来なさい。ちょうど焼き菓子が仕上がったところだ」


 わたしはそろりと彼の手のなかの半円の焼き菓子を覗き込んだ。

 甘党の水哉さんは時折、自分好みの味を求めてお菓子を作る。今日もその一環なのだろう。だけども、これは見たことがない。


「なんていうお菓子なんです?」

「クリスマス・プディングだ」

「ああ、これが噂の! とっても甘くていい香りがしますね」


 すると、水哉さんはふふんと笑ってみせた。


「君の好みではないだろうがね。無論、心配は無用だとも。君の食べる部分はスパイスを盛って味を調整してある」

「まあ! 楽しみ」


 わたしは言われたとおりに手洗いうがいを済ませ、着替えた袷の上に銘仙の羽織を合わせてダイニングに戻る。

 水哉さんはちょうど、ケーキを切り分けている最中だった。それなら、とわたしはお茶を淹れることにする。


「水哉さんは紅茶でよろしくって?」

「ああ、角砂糖を忘れずに上限まで入れてくれたまえ」

「……でも、お砂糖は焼き菓子にも入っているのでしょう? ちょっと甘すぎるんじゃないかしら」

「………」


 水哉さんは答えない。


 そこでふと、わたしは不安になった。

 経験則からすると、ただでさえ甘党の水哉さんがご自分好みのお菓子を作った場合、砂糖が猛烈な勢いで消費されるからだ。


 虫の知らせにいざなわれ、わたしは厨に駆け込んだ。

 そして、真っ先に覗いた砂糖壺の中身を見て、悲鳴を上げたくなる。だって、お砂糖がごっそりなくなっていたのだから!


「お砂糖が、お砂糖が……、水哉さんっ!」

「なにをうろたえている。焼き菓子に多量の砂糖を入れるのは当然だろう?」

「なにごとにも限度がありますっ。そんなに小さなケーキにお砂糖を入れすぎると……」


 よくよく見てみれば、案の定というべきか、切り分けられた焼き菓子は焦げていた。それどころか、一部べっこう飴のようになっている始末だ……。


 唖然とするわたしにも、追いかけてきた水哉さんは落ち着き払った表情を崩さない。


「心配せずとも、砂糖ならまた買ってきてやるとも。それはそうと紅茶だが……」

「もう焼き菓子に入った砂糖でじゅうぶんなはずです」

「いいや、それとこれとはわけて考えるべきだ。プディングを作るのに使ったのは調理用の砂糖だ。紅茶には角砂糖を入れるのだからね」

「……どの辺をわけて考えるんですか?」

「名称が違う。形状も違う。つまり別物というわけだ。ところで、シュガーポッドをどこに仕舞った?」


 砂糖と角砂糖を別物として、紅茶に投入しようと試みる水哉さん。

 わたしは昨夜、眠る前にシュガーポッドを食器棚の奥深くに隠した自分を褒めそやした。


「もうだめです。絶対にだめです。砂糖も角砂糖も同じですから。シュガーポッドはしばらく没収、お砂糖も今日は禁止です」

「…………どうしても?」

「どうしても、です」


 断固拒否して、わたしはふたり分の紅茶を準備した。もちろん、砂糖は抜きだ。


 カップのミルクによく蒸したアッサムティーを注ぎ淹れる。お湯は、朝のうちに沸かして魔法瓶に移していたものを使った。魔法瓶は発売されたばかりの品だけれど、いちいち火を起こして水を沸騰させる手間が省けるので大助かりだ。

 わたしは文明の利器に感謝しながら、ふわりと香る茶葉の香りで深呼吸をして、食卓に戻った。


「ミルクを多めに入れましたから、お菓子と一緒に食べたらじゅうぶん甘いはずですよ」

「…………」


 水哉さんは不満げな顔でソファに深々と腰かける。

 ケーキはすでにお皿の上に切り分けられていた。


「いただきます」


 わたしも彼の前に腰かけ、手を合わせた。それから、切り分けられたクリスマス・プディングをひとかじり。とっても甘い、お砂糖の味が口のなかに広がる(ちょっとしゃりしゃり、もといじゃりじゃりしている気がするのは、そういう食感のお菓子なのだと思うことにする)。


 どうやらこの焼き菓子は、彼の口にあったらしい。

 水哉さんは不満げなお顔から一転、早くもご満悦の様子だ。満足げな笑みを見せた後、つとテーブルに宝石箱を置いた。


「これは僕から君に」


 ぱかっと水哉さんが開いた箱のなかには、なんと指輪がぎっしり詰まっている。

 お店で求めたらいったいいくらになってしまうのか、わたしは想像してめまいを覚えた。


「それから、博文堂書店から店主に見繕わせた本が何冊か届いている。あとは、新しい万年筆とノートも準備してあるから、これを食べ終わったら、僕の部屋に取りに来なさい」

「そ、そんなにたくさん……っ」

「なに、僕からのクリスマスプレゼントは以上だ。東方の三賢者の贈答品には到底及ぶまい」


 及ぶのでは。及んでしまっているのでは。少なくとも個人的には、余裕で及んでいる。


 わたしは恐々としながら指輪を見おろした。

 よくよく見れば、昨日噂したラッキー・リングまで入っている。昨日の今日でご用意したらしい。正直、その手際のよさには驚きしかなかった(きっとこれを準備するために、午前中は外出していたのだろう)。


「ありがとう、ございます。でも、わたし……こんなにたくさんいただけません」

「これはもう僕の手を離れた。つまり君のものなのだから、煮るなり焼くなり好きにしたまえよ。味は保証しないが、腐るものでもない。いっそ、箪笥の肥やしにでもすればいいさ」

「でも、もう指輪はいただいたものを持っています……」


 全力で辞退したって、水哉さんにはなしのつぶてだ。


「君が指輪を十の指に余るほどに持っているのは知っているとも。贈ったのは僕だからね。だが、つけていないのなら、ないのと同じだよ。君が気に入るものができるまで、僕は指輪を送り続ける覚悟だ」

「つけています、つけていますからっ」


 この人はわたしが受け取るまで引き下がらないだろう。それどころか、指輪をはめる日までありとあらゆる指輪を買っては贈ってくれるのだろう。

 それではあまりにも申し訳がない。わたしに返せるものなんて、たかが知れているのだから。


 それを悟って、わたしは覚悟を決めた。そうして、半襟のしたに隠れた首飾りのチェーンを引き上げる。その先にかかっているのは、かつて水哉さんがくださった婚約指輪だ。


「いつも、身に着けてました」


 手放すこともできず、それでも、指にはめることもできないまま。


 これを見るとわたしはいつだって、水哉さんからもたらされた無情な宣告を思い出してしまうからだ。


 お見合いの日、彼にとって必要なのが恋や愛ではなく、わたしの身分だと知ってしまった時。


 あの時、わたしはこの恋心を殺すと決めた。

 ほんのちょっとでも水哉さんと想い想われる仲になれると期待していた、愚かな乙女も共に心中した。


 こんなご時世だ。愛がなくとも結婚はできる。指輪はなくとも夫婦は夫婦。

 だから、わたしは指輪をしない。できないのだ。


 まだこの人が好きなままだから。まだ、上手に許嫁の役を演じられる自信がないから。


 わかっている。


 これは、ただの意地っ張り。


「……」


 水哉さんは着物の下に隠れていた指輪に大層驚いたらしい。


 わたしたちは交わす言葉もなく、しばらくの間、静かに見つめあっていた。


「と、とにかくそういうわけですから、ごちそうさまでした」


 おやつを食べ終わったわたしは、そそくさと立ち上がる。そのまま逃げ出そうとしたところで呼び止められた。


「待ちなさい。君はまだクリスマス・プディングに隠された小物を見つけていないはずだ」


 突然変わった話に困惑しながら、わたしは水哉さんを振り返った。


「でも……、なかにはなにも入っていなかったですよ?」

「ここにあるからね。こちらに来なさい」


 呼び寄せられて歩み寄ると、水哉さんは、なぜか加賀の指ぬきをわたしの手に握らせた。

 様々な色糸を使った、華やかな刺繍のころんとした形が愛らしい指ぬきだ。


 だけど、おかしい。

 昨日のロレーヌさんの話によると、指輪や金貨はお菓子のなかに隠されているはずだ。まさかの手渡しに、わたしは水哉さんを見上げた。


「……これって、そういう渡し方をするものなんですか?」

「いいや? だが、どちらにせよ君のものになるのなら、どんな方法だってかまわないだろう。さすがに欧州の陶器製の指ぬきと違って、こんなものを入れて焼いた日には、焦げる上に油まみれになって使い物にならなくなるから」


 色々と考えた結果の手渡しらしい。

 なんとしても、指ぬきを渡すという強い意思を感じて、わたしは手のなかにころんと収まるそれを見おろした。


「かわいいです。でも、ちょっと大きいみたい……」

「それでいい」

「いいんですか?」


 試しに指にはめてみれば、案の定だ。すっぽりと指の根本まではまってしまった指ぬきは、指輪のようにも見えた。

 まるで、昨日わたしの下駄箱に入っていたサイズの合わない指輪みたいだ。


 あの指輪は、贈り先が違った。それなら、このサイズの違う指ぬきにはどういう由縁があるのかしら。


「君は慎ましすぎるのか、大仰な指輪は辞退しがちだ。とはいえ、仮にも宝石商を名乗る僕としては、女学生ひとり満足させられないようでは沽券にかかわる。つまるところ、僕にはなんとしても君を屈服させる必要があったわけだ」


 どことなく歯切れが悪く見えるのは、きっとわたしが婚約指輪を隠し持っていたのを知らずにささやかな計略を巡らせていたからだ。


「……つまり、これは指輪がわりってことなんですか?」

「僕にとってはそうだ。君にとってはただの指ぬきだが」


 水哉さんは「これならよかろう」とばかりに、ふっと悪い笑みを見せてきた。


「普段使いもできるだろう?」


 さて、どうかしら。

 殿方は裁縫なんてしないから、きっと知らないのだ。すっぽりと指の根本まではまってしまう大きな指ぬきじゃ、裁縫がしづらいということを。


 だから、これはわたしにとっても指輪も同然だ。


(本当に、負けず嫌いな方)


 案外、わたしたちは似た者同士なのかもしれない。


 なんだかおかしくなって、くすくす笑ってしまう。


「ありがとう存じます。大事にします」



 静かなクリスマスの昼下がりのことだった。


 外ではまた雪が降りだしたらしい。白梅の花弁のような白い雪が、甘いかいなで街を抱く。


 春告花のように優しい色をして、はらはらと。

 意地を張っていた秘密ごと、融かして包んでしまうように。


 わたしは雪解けを心待ちにしながら、ゆるやかな時の流れに身を委ねたのだった。

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