外伝 ミシェル・ロレーヌの独白

酔っ払いと、とある宵のひととき

 白き雨降る、薄霞の夕べ。


 今夜のグランドホテルには、霧の都、倫敦ロンドンを思わせる空気が漂っていた。ホテル内のダイニングは、外国人やラウンジスーツ姿の紳士の姿で賑わっている。


 目の前で飲んだくれているユキチカもまた、薄暗い店内で宵のひとときにくつろぐ酔っ払いのひとりだった。


「……くつろぐっていうのは、語弊があるような気もするんだけどなあ」


 早々に酔いつぶれてテーブルに突っ伏した悪友の姿に、俺はひとりごちた。

 この男は、午下の商談を済ませてから、もうずっとこの調子だ。


 電気ブラン片手に店の奥の席に陣取る男のすねをつま先でつつく。


「ユキチカー、勘弁してくれよ。おまえ、いくら酒に弱いっていったって、ブラン一杯でつぶれてどうするんだよ。そんな千鳥足で帰ってさ、間違って海にでも落ちてみろ。朝刊の一面を飾ることになるぜ。『宝石商片桐水哉水死、事故か他殺か?』ってな。朝一にそんなもの見せられたら、俺の寝覚めがものすごーく悪くなるんだけど?」

「安心したまえ。今夜は帰らないから、海に落ちることもない」

「は? 帰らない?」

「そうだ。今日は君の部屋に泊まる」


 据わった目をして、頭だけをゆらゆら揺らしながら断言されて、怖気が走る。


「嫌だ、絶対に嫌だぜ」


 俺にはそんな趣味はない。

 もう一度言う。俺には――男とひとつのベッドを温めあう——そんな趣味はない。

 酒を飲むのだってきれいどころがいたほうが嬉しいし、恋の相手は年上の女がいい。


 それなのに、どうしてこんなことに?

 なぜ、すべてから解放される自由の夜に、俺は男の相手をしているのだろう。


 本来なら、今夜は花街にいたはずだった。この男さえ、ホテルで飲んだくれてつぶれてくれなければ! 今頃は、料亭田島屋で芸者ガールと逢瀬を楽しんでいたはずなのに!


「なにが悲しくって、俺が男の相手をしなくちゃいけないんだ。しかも、許嫁持ちの男だぜ。俺より恵まれてるんだ。ありがたく思ってさっさと起きてくれよ。なにをそんなにぐずぐずしてるんだよ? コトコが家でひとりさみしく待ってるんだろ?」

「そうだ、待っているんだ……。琴子くんが、僕を」


 再び、テーブルに額を押し当てて、ユキチカは唸った。


「琴子くんが……」

「だから、それはもうわかってるって」


 偏屈を辞書で引けば、例題として名前が挙がりかねないこの男が、こうも感情をあらわにして酒に逃げる。その動機は十中八九、否、十割十分十厘、許嫁の少女が原因だ。


 これまでの経験上、この推測はまず間違いない。


「俺が聞いてるのはね、詳細だ、デタイル、おわかり?」

「マスター、おかわりを」

「よせよせ! もう飲むなっ」

「君が詳細など聞いたから、思い出してしまったんだよ。酒に逃げるほか、もう僕に道は残されていない!」


 ユキチカは、常なら人の心の底まで見透かすような冷たい瞳に絶望を浮かべて俺を見た。


 まるで懺悔室に飛び込んだ罪人が、壁の向こうの神父に縋るような目だ。


「じゃあ、吐けば楽になるだろ。言ってみろって。なにしたんだよ」

「僕は……、昨夜、思い違いから彼女を叱ってしまった」

「へえ、お得意の厭味ったらしい口調でか? ああー、残念だけど、そいつはまず間違いなく嫌われたな」

「くっ……! やはり、君もそう思うか……」

「まあでも、そんなのは今に始まったことじゃないだろ? よし、汝の罪は赦された! だから、帰れ帰れ、今すぐ帰れー」

「……彼女は読書を好んでいるんだが」


 聞いちゃいない。

 勝手に告白し始めたユキチカを横目に、俺は何杯目かの舶来はくらいの葡萄酒をデカンタから注いで煽った。


「本を読みふける癖があって、毎晩のように遅くまで起きている。僕の帰りが深夜になっても、絶対に起きているほどだ。無論、僕は注意したさ。ランプのあかりでいつまでも本を読んでいては、目にもよくなければ、不健康だからね……」

「はいはい、それで?」

「琴子くんは、僕の話を静かに聞いていた。だが、だんだんともの言いたげな顔に変わっていく。なぜだと思う?」

「さあ、なんだろうなあ」


 一息に言い切ったユキチカの台詞を話し半分に聞きながら、俺は肩をすくめた。


 いつもなら、ここで嫌味のひとつでも返ってくるところだが、酔いに酔ったユキチカにはその余裕もないらしい。……というか、そもそも俺の返事なんて聞こえちゃいないに違いない。


「あの子はね、僕を待っていたらしい」

「よかったじゃないか」


 頷いてみせれば、ふっと、ユキチカが勝ち誇ったような笑みを見せる。

 腹立たしさを呼び起こす、この世の傲慢を凝縮したような笑みだ。それがすぐに渋面に代わった。

 忙しいことだ。そろそろやつの表情筋にバカンスでもさせてやりたい。


「つまりね、僕を待っていたのに、張本人である僕がまるで気づいていない……。そのことに不満を覚えないでもないが、勝手に待っていた手前、文句も言い難い。そういう顔だったわけだ」

「想像できるよ」

「想像するな。僕の許嫁だぞ」

「すごいな、おまえ……」


 驚くべきことに、ユキチカの面倒くささには際限がないらしい。

 俺は強引に話を進めることにした。


「それで?」

「それで……、問題はそこじゃない。琴子くんだ。あんなにわかりやすくてどうする? とにかく、性根がまっすぐすぎるんだよ。欺瞞ぎまんという言葉を知らないのだろうね……。あれでは悪人どものいい餌食だぞ。野に放ったら、三日と生きていけないに違いない」

「いや、野ネズミじゃないんだからさ。野に放ってやるなよ」


 話がそれまくっていたものの、一応、相手をしてみた。

 そして、俺は自分の優しさに酔いしれる。なにしろ、酩酊に身を委ねた男の相手なんて、まじめにするだけ徒労に終わるばかりなのだ。それなのに、つき合ってやるなんて全人類に褒めそやされたっていいはずだと信じて。


 そんな俺をよそに、ユキチカは目をすがめてみせた。そうして唇を弧の字にゆがめ、皮肉っぽい微笑を浮かべる。


「ふん、ミシェル……。君は知らないんだな。琴子くんはヒメネズミにそっくりなんだぞ」

「おまえ……」


 どうやら、電気ブランに含まれるアルコールがユキチカの脳細胞を消毒し、死滅させてしまったらしい。知能指数がゼロどころか、マイナスになった腐れ縁の男に俺はまた葡萄酒を煽った。


 与太話につき合ってやろうと思っていたものの、前言撤回だ。ユキチカはもう正気でない。ここまでくると、返事をするのもばからしい!


「いいか、思い出してみたまえよ。彼女の小さな身体、くりくりとした目、ちょこまかと細やかに動くところ、……しまった! そっくりどころじゃあない。彼女は本当にヒメネズミの申し子だったのかもしれないぞ。なぜ、僕はこんな重要なことに今日まで気づかなかったんだ? ミシェル、どうすべきだろう。ヒメネズミの主食である最高品質のドングリはどこで入荷できるか調べてくれ」

「山でも登って拾ってこいよ……」


 愕然とした様子で、衝撃の事実に気づいた酔っ払いの発想にはお手上げだ。もはや相手にしきれない。


 この姿をコトコにも見せてやりたいものだった。いつも澄ました顔の婚約者の醜態に、さて、彼女はどんな反応を示すだろう?


「ユキチカ、おまえさ、こんなところでウダウダくだ巻いてないで早く帰るべきだぜ。今日もきっと、コトコはおまえを待ってる」

「……帰ったところで、合わせる顔がない」

「心配するなって。俺が見るに、コトコは本気でおまえに惚れてるね。ちょっとの失態くらいは愛が続く限り許してくれるって」

「そんなはずはない。僕はね、金で彼女を買ったようなものなんだよ。きっと、軽蔑しているに違いない」

「だから、それを確かめてみろって言ってるんだよ。小心か? 本当にコトコが怒って愛想つかしたなら、今頃、実家にでも帰ってるだろうさ。それなら、合わせる顔もなにもないから問題ないだろ?」

「ミシェル……」


 ユキチカはじっと俺をそのアイスブルーの瞳に映した。


「君は天才だったようだな」

「おまえはただの酔客だけどな」


 酩酊にすっかり支配されている昔馴染みには、呆れかえるほかない。どうして俺は、こんなにも生産性のない会話を肴に、花も味気もない葡萄酒を手酌しているのだろう。


「とにかく、コトコが家にいるなら、一刻も早く帰って誠心誠意謝ることだ。それで、さっきみたいに小さくてくりくりした目が可愛くて守ってやりたいです、とでも言えばいいさ。俺が思うに、おまえは女の子に対する甘やかし方が甘い。普段、無駄に糖分取りまくってるんだから、全部ひとりで消化しないで、たまには可愛がってやれよ。わかったら立てって、送ってやるから」


 促されるままに、ふらふらと立ち上がったユキチカのポケットから財布を抜き出した。

 俺は、やかましい酔っ払いを長時間置いてくれ功績を加味し、チップを(勝手に)弾ませて会計を済ませる。


 それから、ふたりそろって外に出ると、雨はすでに上がっていた。

 ガス灯が黒檀のように闇に染まった街の影を、ぼんやりと浮かび上がらせている。


「歩いていこうぜ」

「構わないとも」


 グランドホテルから、ユキチカの家まではほど近い。

 宵冷ましに潮の香りが混ざった夜気を浴びてみたものの、どうやらユキチカには大した効果もなかったらしい。


「おいおい、大丈夫かよおまえ?」

「くっ……、無論だ」

「嘘つけ」


 家に辿り着いてもなお、ユキチカの千鳥足は健在だった。顔は耳まで真っ赤で、ふらふらと頭を揺らしている。

 俺は、その姿をどこかで見たことがあると思った。


(……ああっ、あれだ。日本の骨董商が売りつけてきた『アカベコ』とかいう妖怪みたいな玩具!)


 思わず二円で買ったが、あれは失敗だった。なにせ、福島に行けば安価で手に入るのだから。


 時刻はすでに午後二十三時を回っている。

 ユキチカの住む洋館のあかりは、すでに落とされて久しいらしい。

 コトコは寝入っているのだろうか。あるいは、本当に実家に帰っている可能性も無きにしも非ず。


 こうして俺たちの賭けは始まった。賽はすでに投げられている。


 しかし、意外にも玄関先のベルを鳴らしてすぐに、ドアは開いた。


 ひょっこりと顔をのぞかせたのはコトコだ。桐生きりゅう銘仙めいせんの羽織を肩にかけ、深緋こきあけの袷を着込んでいる。まさか、それが寝間着ということもないだろう。


 ユキチカの言うとおり、こんな時間まで家人の帰りを待っていたらしい。


「まあ、ロレーヌさん! 水哉さんを送ってくださったの? ごめんなさい、また酔いつぶれちゃったのね」

「こっちこそ、こんな時間までごめんね。どうしても、ユキチカがコトコに言いたいことがあるって言うからさ。送りがてら監視に来たんだよ」

「わたしに、言いたいことですか……?」

「ほら、ユキチカ」


 すでに、べろんべろんのユキチカの背を叩く。その衝撃にすら踏みとどまれず、酔っ払いは一歩前に進んでコトコを見おろした。


「そうだ、琴子くん」


 覚悟を決めたのか、ユキチカの横顔は精悍そのものだった。その視線はまっすぐ許嫁の少女に向けられている。

 沈黙が続いたのは、ほんの数秒。とうとう、ユキチカは口を開き……


「琴子くん、君は本当に……ネズミのようだな」

「………………今、なんておっしゃって?」


 目を瞬かせ、コトコは助けを求めるように俺を見た。


 そんな彼女に向かって、意識の限界が来たらしいユキチカが倒れ込む。


「きゃああっ」


 ものの見事にユキチカに押しつぶされて、ひっくり返りそうになったコトコの背に、俺はとっさに手を伸ばす。どうにか間に合って、安堵する俺たちになど気づきもせず、ユキチカはコトコに寄りかかったまま寝息をたてはじめた。


「こいつぅ……」

「すみません、ロレーヌさん。助かりました……」


 コトコが申し訳なさそうに眉を八の字にして、俺を見上げる。


「それで、さっきの……、あの、水哉さんのお話なんですけど……」

「うーん……」


 ネズミみたいだと宣言したユキチカを思い出し、頬を掻く。

 あれは語弊しかなかったな、どう説明すべきかな、そんな風に悩む俺に、コトコは茫然とつぶやいた。


「つまり、害獣みたいってことですか?」

「……ふっ」


 申し訳ないが、あんまりにも見事な齟齬に俺は噴き出す。


「わははは! そうだよなあ、あれだけ聞いたらそうなるよな。でも、そうじゃない、そうじゃないんだよ。ようするに、ユキチカはコトコがかわいくって仕方がないってことさ」

「……?」


 訝しげなコトコにウィンクをひとつして、俺はユキチカの腕を引っ張り上げる。

 ひとまず、この男を寝室まで捨てに行こう。後は明日、当人たちがどうにかすると信じて。

 第三者に肝心なのは、引き際だ。


 なにせ恋人の問題に首をつっこむなど、野暮で無粋な男のすることなのだから。


(それにしても、こいつも大概だけどな)


 たった一言、「愛しているんだ」と口にすればいいだけだというのに。


 この不器用で偏屈かつ、肝心なところで言葉足らずの男が、彼女に想いを伝えられるのはいつになることやら。

 俺が生きているうちだといい。そんなことを思ってしまって、またおかしくなった。


 この恋の結末は、今はただ神のみぞ知る。

 それなら、もうしばらく様子を見るのも一興だろう。オペレッタもはだしで逃げ出しそうな、すれ違うふたりの恋の成り行きを。ふたりに一番近い、特等席から。



 閑話休題。

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