アジサイ(冷酷) page1

 雨の降る夜に流した私の涙

 花びらから落ちる雫

 きっとそれは花の涙でしょう


 三年前、この歌を主題歌にして、『紫陽花の涙』というドラマが流行した。

 主人公である時田京子は、小学四年生の女の子。京子には、和馬という中学二年生の従兄がいる。


 ある日、和馬の父と母が、無差別通り魔事件に巻き込まれて殺されてしまい、京子の家で和馬を引き取るのだが、卑劣極まりない事件で両親を亡くした和馬は、家族と幸せに暮らす京子に対して嫉妬心を抱くと、京子の両親と姉を殺害してしまう物語であった。


 九月八日(月)

 窓の隙間から入り込む秋風が頬に当たるのは心地よいが、ベッドのシーツは湿っていて寝苦しい。

 額の汗が目尻を辿って蟀谷を伝い、襟足まで湿らすと、首元に不快な感触を覚える。

『紫陽花の涙』で恵里香が主人公の京子を演じたのは、小学四年生の時だった。


 プールであの曲を聴いてから、恵里香は毎晩のように同じ夢を見る。

 夢の中では、母に襲いかかる少年の手に持ったナイフが、それを止めようとした父の腹を刺す。


 少年は、引き抜いたナイフを再び父の腹にグサリ。

 再び引き抜いて、今度は胸元をグサリ、グサリ、グサリ……

 飛び散った血しぶきが目の前を赤く染めると、魘されて目を覚ます。


 ベッドから起き上がると、汗で濡れた身体は、小刻みに震えている。

 その震えが収まると、部屋を出て母の居るリビングに向かった。


「おはよう……」

 恵里香が声を掛けると、母は何も言わずに、ただ頷いて応える。

 恵里香は、日が経つにつれて弱々しくなる母のことを気に掛けていた。


「ねぇ、大丈夫?やっぱり元気ないみたいだけど……」


「もうすぐ、あの子が出てくると思うと……」

 恵里香がコップ一杯の水を差し出すと、母は少だけ微笑んで受け取り、ゆっくりと飲み込んだ。


 壁にはアビシニアンの猫がボールにじゃれている写真に、九月の暦が書かれたカレンダーが掛けられていて、九月二九日が黒マジックで塗り潰されている。


 夏が終わっても、九月の始めはまだ残暑で過ごしづらく、朝のうちはそよ風が吹くものの、日中はカラカラに乾いた空気とアスファルトの熱気が残るまま。


 今年はもうすぐ着収めになる白いワイシャツも、まだ汗を吸い取る役目は終わっていない。


 一学期の終わりから四十日以上経っているのに、気温も、教室の空気も、制服の色も変わらないが、夏休みの間で人間の色は分別されてきたように見える。


 今までと変わらぬ者もいれば、男子の中には髪型を短髪にした者や、ゆるいパーマをかけた者、横を刈り上げてツーブロックにしている者。


 女子はストレートの黒い髪が特徴だったはずの子が、くるくるカールの髪型に変わっていたり、いつもひび割れるのを気にしてリップクリームを手放さなかった子の唇に、うっすらと紅色の口紅が塗られていたり。


 汗ばんだワイシャツの下に、男子は流行りのブランドTシャツの模様が透けて見えれば、女子の背中に薄い桃色の下着を付けているのが透けて見えると、男子は目のやり場に困り出す。


 洋平は夏休みが明けたからといって特に変化もないが、弘行は少し大人びたようにも見える。

 弘行は、学校に来たからといって熱心に授業を聞くわけでもないが、以前のようにサボることもなく、毎日学校に来ると、授業中はボーッと外を眺めている。


 黒髪で毛先がくせ毛になっているショートボブの髪をかきあげると、瞼の横には、父親に殴られた時の傷痕がうっすらと残っている。


「嶋岡、校庭でサッカーやろうぜ」

 誘ったのは裕太と亮治。弘行に先輩達が寄り付かなくなってから、すっかりなついた様子で、普通なら派手な格好をしている一年生は先輩に目を付けられるが、弘行といれば何も言われないものだから、この二人もワイシャツの下に赤や黄色のTシャツを着て、派手なバックルのベルトを付けた腰からは、チェーンのアクセサリーがぶら下がっている。


「悪い、今日はパス」

 給食も食べ終えて、昼休みの時間になるが、弘行は朝から悲痛な面持ちを見せている恵里香のことが気になっていた。


 二学期に入ってから、以前より少し大人しくなったように感じていたが、今日は朝から夕焼け空を見ているような顔をしている。


「おい、洋平、エリカどうした?」

「どうした?さぁ?」

 洋平もチラリと見て様子を伺うと、ケラケラと笑っている生徒達を背景に、浮かぬ顔をした恵里香の姿が目に映る。


「おい、エリカ、エリカ」

 弘行が声を掛けると、恵里香は空想の世界から戻ってきたように目を見開いて、キョロキョロと辺りを見回した。


「あ、え、何?」

「何?じゃねぇょ、朝から変だぞ。どうした?」


「え?あ、うん。何でもないよ。大丈夫」


「大丈夫って、そんな感じじゃないけど?」

 洋平が心配して訊くと、背後から冷やかす声が聞こえた。


「あれだろ、あれ。今日、生理の日だろ」

 洋平が振り返ると、サッカーボールを持った裕太と亮治が立っていて、ケラケラと笑っている。


「バカ、あっちいけ」

 恵里香はシッシッと手で追い払って、二人を退けるが、弘行はその馬鹿話しを間に受ける。


「エリカ、次、体育だよ。体育館行こう」

 麻衣子が誘うと、恵里香は机の横に掛けていたスクールバックを持って、教室を出て行った。


「おーい、大丈夫か?体育休んだ方がいいぞ」

 裕太が揶揄って声を上げると、廊下から「バカ!」と叫ぶ、恵里香の大声が聞こえた。


「何で休んだ方がいいんだ?」

 恵里香が向きになって怒る理由が分からない弘行は、裕太に疑問を投げ掛ける。


「何でって、生理だから」


「だから、セイリって何だ?セイリだと何で体育を休むんだ?」


「血がいっぱい出るから、貧血とか起こすらしいぞ」


「血?どこから」

「どこって……それは、あそこだよ、アソコ」


「アソコ?あそこって何処だよ」

「だから、アソコはここだよ」

 裕太が股下を指差すと、亮治と洋平が吹き出して笑い出す。


 亮治は裕太の仕草を見て可笑しくなるが、洋平は自分でも分かるような話題に、あまりにも弘行が無知なのが可笑しい。


「何だ?ションベンが血になるのか?」


「ションベンじゃねぇよ……あのなぁ…」

 亮治が教室にまだ残っている女子の目を気にしながら、弘行の耳元でヒソヒソと話した。


「なんだそりゃ!気持ち悪い!」

 これまで見たこともないような渋い顔をする弘行の表情が、三人は可笑しくてたまらない。


 弘行は表情を変えぬまま、教室の窓から外を見て、校庭を走り回る女子の姿を、じっと見た。


「あいつらは今日、セイリじゃねぇのか……」

「おい、俺達も早く行こうぜ」


 普段、体育の授業は男女別だが、今日は来る体育祭に向けて、男女合同で組体操の練習がある。


 体育館へ向かう途中、弘行達が渡り廊下を歩いていると、恵里香と数人の女子が屯して話しているのが見えた。


「おいエリカ、大丈夫か?休んだ方がいいんじゃないか?」

 恵里香は心配する弘行の気遣いに、首傾げて応える。


「何で?」

「だって、朝から血がいっぱい出てるんだろ?ほら、あれ、セイリなんだろ?」

 何の意味も分からずに、痛々しそうな顔をして見てくる弘行に、恵里香は何も言わずに手を振り挙げると、『バチン!』と大きな音を立て頬を叩いた。


「いってぇ!テメェ!何するんだよ!」


「バカ!アホ!最低!話し掛けるな!」

 驚いて立ちすくむ弘行を見て、洋平達がゲラゲラ笑うと、更にそれが癪に障った恵里香は、スタスタと体育館に向って歩いて行った。


「何だよ!何で叩かれるんだよ!」

 心配して声を掛けたはずが、裏目に出た弘行は、寝ている顔に水をかけられた気分になる。


 今日、学校に来てから恵里香の元気な声を聞いたのは、今が始めてであったが、突然のビンタがあまりにも衝撃的だったことから、それまで心配していた気持ちが、一遍に飛んでしまう。


 それからは体育館の合同練習でも、恵里香は弘行と目が合えば、『プイッ』と顔を背けてしまう態度。


「おい、俺にパチこいたんじゃねぇだろうな」

 親しい関係になっても、弘行が睨む目つきには慣れることはなく、裕太と亮治は鋭い眼差しに身を竦ませる。


「パチはこいてないぞ……ただ、女の前で言うことではないからな」


「だったら、もっと早く教えろよ」


「知らないのが、ヒロくらいなんだよ」

 揶揄うような言い方でも、洋平から言われる分には、弘行も癪に障らない。


 合同練習と言っても、洋平は見学するだけであり、体育祭の当日も競技には参加しない。

 今日も皆が組体操の練習をしている様子を、一人で平均台に腰掛けて見ているだけで、体育の授業を出席したことになる。


 弘行は級友達とも打ち解けて、以前と比べれば笑顔を見せることが多い。その姿を見ているだけで、洋平は和やかな気持ちになれるが、今は弘行の言う通り、恵里香の様子が気に掛かる。


 友達と話している時には、いつも通り笑顔を振りまいている恵里香も、一人になると、まるで世界の終わりが来ることを知っているように、表情から明るさが消える。


「よし、じゃぁ次は、女子だけで練習してみよう」

 男子が体育館の壁側にはけると、弘行は洋平の隣に腰を掛けた。


「やっぱり変よだなぁ……」

 洋平が呟いた疑問に、弘行は疑問で返す。


「何がだよ?」

「エリカの様子だよ。ほら、見てよ」


「だから、セイリってやつなんだろ?」

「そんなもんかなぁ……」


 弘行は、頬を叩かれたのが図星を突いたからだと捉えているが、洋平にはやはり納得できる理由ではなかった。

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