ニチニチソウ(若い友情) page1

 夏休みに入ると、学校へ行くことは部活動かプール授業くらいになる。


 プール授業とは、夏休みの間、学年ごとに曜日交代で一時間ほど行う体育の授業だが、授業と言っても、夏休み中に最低三回は出席すれば良いものであり、暑さを紛らわす水遊びのようなもの。


 沢山出席すれば体育の評価にはなるから、毎回のように出席する者もいるが、塾の夏期講習や部活動を優先して、最低回数だけ出席する者もいる。


 夏といっても、日差しは眩しくて暑いが、まだアブラゼミの鳴き声が町中に鳴り響くほどは聞こえず、お盆の時期までは、旅行などに行く生徒も少ないので、プール授業の出席率も高い。


 洋平は、定期検診の為に皆よりも早く休みに入ったので、夏休みでも補修授業の為に登校していた。

 補修を終え、帰宅しようとして下駄箱で靴を履き替えていると、離校舎の方から女子の笑い声が聞こえる。


「あっ、ヨウちゃん。これからプール?」

 三人の女子が下駄箱の前を通り過ぎようとした時、その中に恵里香がいた。


 夏服の制服姿にタオルを首に掛けて、少し湿った恵里香の髪が、窓から差し込む日差しを浴びて、エナメルのように光っている。


「いや、僕はプールに入れないから」

 心臓の悪い洋平はプールに入れないと、以前にも聞いたのを思い出して、恵里香は下手な事を言ってしまったと、気まずくなる。


「あ、そうだよね……じゃあ、もう帰り?それなら、かき氷食べに行こうよ。ちょっと待って」


 洋平は、恵里香のことを下駄箱の前で五分ほど待っていると、『タタタタタ』と勢い良く階段を駆け下りる音が聞こえた。


「ゴメン、ゴメン」と言いながら、恵里香が戻ってくると、二人は学校の裏にある駄菓子屋へ向かった。


 その駄菓子屋では、夏になるとかき氷が売り出され、イチゴ、メロン、レモン、ブルーハワイなどの種類がある。


 洋平はメロン、恵里香はブルーハワイを選び、かき氷を受け取ると、恵里香は「ヨウちゃん、ありがとう」と言って、その場を離れた。


「おい、奢るなんて言ってないぞ!」

 そう言いながらも、洋平は二つ分の代金を支払う。

 店前のベンチに腰を掛けて、美味しそうにかき氷を食べている恵里香を見つけると、洋平は真向かいに立って、手の平を突き出した。


「おい、かき氷のお金払えよ」

 まるで、無銭飲食をした客を捕まえた店主のように、洋平は恵里香を咎める

「いいじゃん、かき氷くらい……男のくせにケチだなぁ」

 恵里香は嫌味なことを言いながら、シロップで青く染まった舌を見せる。


「子役で沢山お金稼いだだろ、本当ならエリカが奢れよ」


「女の子に奢れって?器の小さい男ねぇ……それに、私がそんな大金を持っているわけないでしょ?そんなお金を、子供に預ける親が何処にいるのよ」


 恵里香は黙々とかき氷を口に運ぶと、洋平は溜息を吐きながら、諦めて隣に座った。


「そういえば、ヒロ君元気?夏休み入ってから会ってないや」


「昨日、一緒に銭湯行った。元気にしているよ」


「ねぇ、今からヒロ君の家に行ってみようよ」

 きっと弘行はプール授業に来ないだろうから、夏休みの間は恵里香とも会う機会はないだろうと思い、二人は弘行の家を訪ねることにした。


 弘行の家に着き、ドアをノックすると、寝癖頭で寝ぼけた様子の弘行が出てきた。


「おぉ、どうした」

 まだ起きたばかりなのか、頭をポリポリと掻きながら、しゃがれた声で弘行が話す。


 恵里香は「おじゃましまーす」と、家の中に向かって明るい声を放つと、靴を脱ぎ捨てて上がりんだ。


「おい、いくらなんでも勝手だぞ!」

 中に誰がいるのかを確かめもせず、勝手に部屋へ上がり込む恵里香を見て、洋平はヒヤヒヤとした気持ちになる。


「どうせ誰もいないから、別にいいよ」

 洋平も部屋に上がると、以前来た時よりも物が散乱していて、煙草と埃の匂いが部屋に充満している。


 台所の流し場には、食べ終えたインスタントラーメンの容器や、コンビニ弁当の容器が放り投げられていて、朝のゴミ収集場に漂う嫌な匂いを連想させられる。


「汚いなぁ、ちゃんと片付けなよ」

 恵里香が放り投げられたTシャツを集めて、「うわぁ、汗臭い」などと言いながら畳んでいると、弘行が「おい、余計なことするなよ!」と言って、恵里香の手からTシャツを取り上げた。


「よし、折角だから、三人で掃除しよう」

「だから、余計なことするなって」


 人の恥じらいに土足で上がり込むような行為は、恵里香の人柄だから許されるが、普通に考えれば度が過ぎていると、洋平は思う。


 恵里香が流し場のゴミを、袋の中に入れて捨てていると、玄関のドアを開けて中年の男が入って来た。


「何だ、友達か?こんな汚ねぇ家に呼ぶんじゃねえよ……」


 背は高身長で体格も良く、無精髭を生やした顔は、テレビドラマに出てくる借金取りのような容姿。


 男は部屋に上がると、台所に置いてある小銭や千円札の入った、インスタントコーヒーの空き瓶に手を突っ込んでいる。


 流し場のゴミを捨てていた恵里香は、男と目が合うと、まるで子犬が怯えるように震えた。


「何しに来たんだよ……」

 大概の事を面恥とは思わない弘行も、この男を二人に見られたくない様子。


「何しに来たって、ここは家だぞ。帰ってくるのが当たり前だろ!親に生意気な口をきくんじゃねぇよ!」


 この借金取り風の男は弘行の父親であり、男は弘行の食べかけたメロンパンを見つけると、それに齧り付く。

 パンを食べ終えて、ポケットから取り出した煙草に火をつけると、灰皿に溜まっていた煙草の吸殻を見て、動きが止まった。


「おまえ、俺の煙草を勝手に吸ってるだろ?」

 弘行が質問に答えず黙っていると、父は弘行の胸ぐらを掴み、平手で頬を張り飛ばした。

 積み重ねられたダンボール箱に弘行が倒れこむと、箱の中で『ガシャン』と、物が割れた音を立てる。


「コソコソと人の物をくすねてんじゃねーぞ!テメェで金も稼げんくせに!」

 その尖った大声は、恵里香と洋平の耳に突き刺さって聞こえる。


 一階部屋の開けた窓のからは、父の大声が漏れていて、外を歩いている中年の女性が、疑わしげに目を向けている。


 その女性と目が合った父は、体裁が悪くなると、玄関のドアを荒々しい音を立てながら閉めて出ていった。


「ヒロ君、大丈夫!」

 恵里香が寄って行くと、弘行は「悪いな、変な奴と会わせちまって……」と、二人に詫びる。

 白いTシャツに付いた血痕を辿ると、弘行の肘からは、ダンボール箱の中で割れたグラスの破片が刺さって血が垂れている。


「ヒロ君!怪我してるじゃない!」

 恵里香がハンカチを差し出すと、弘行は「いいよ、汚れちまうから」と言って、ハンガーに掛かっていた手ぬぐいで傷を押さえた。


「心配するな、いつもの事だから……だけど、もう家には来ない方がいい」


 窓の外に目を向けながら話す弘行の姿を見た洋平は、今は一人にしてあげる方が良いと思い、恵里香を連れて部屋を出た。


 驚愕な出来事を目の当たりにしたからか、帰り道の恵里香は、弘行の不幸を全て背負ったように、悄然として俯いている。


 家での暮らしを見れば、弘行が毎日どのような生活をしているか想像つくが、洋平は自分の父親と弘行の父親を比べて、あまりにも違うことに衝撃を受けていた。


 洋平の父は人柄も良く、大手電気会社の営業部長だった。

 洋平には優しくて良い父親であったが、母は愛人の存在を知った時から、父のことを白い目で見ていた。


 しかし、洋平の事を考えれば、夫婦仲を拗らせたくないと思った母は、暫く愛人について触れずにいたが、それに甘んじた父が愛人との関係を選んで離婚を申し立てると、耐え兼ねた母は未練を伝えることもなく、それを承認した。


 洋平は、そんな父親から一度だけ叩かれたのを思い出す。

 小学校の頃、悪戯心から友人とコンビニエンスストアで菓子を万引きして、捕まった時のことだ。


 母が店まで迎えに来て、何度も、何度も店員に頭を下げて家に帰ることができた日の夜、父は帰宅するが早々、声も掛けずに洋平の頬を叩いた。


 その後、父と合わせる顔がなくて部屋に引き籠もっていると、父は一緒に風呂に入ろうと言って、洋平を誘い出した。

 風呂の中で父は、万引きについて咎める事なく、優しい言葉を掛けられると、洋平は良心の呵責に苦しんだ。


 あの時、自分が父から頬を叩かれたのは、きっと愛情もあったからだと、洋平は思う。

 しかし、あの父親が弘行を殴っている姿は、単なる暴力にしか見えなかった。


 弘行が煙草を吸っていたことに関しても、彼の悪さに対して罰を与えたのではなく、自分の物をくすねていたことに癇癪を起こしただけと思う。


「ねぇ、もう一度かき氷を食べに行こうか」

 恵里香の様子を気に掛ける洋平は、思い付きの言葉を口にする。


「いらない。よく、かき氷なんか食べる気分になれるね……」

 男友達なら、率直に思った事だけで話をできるが、女心が分からないと、会話するのも言葉を探してしまう。

 そして、その言葉が的外れであると、次の切り出しに悩まされる。


 何を言えば正解なのか思いつかない洋平は、とりあえず家に帰るのを見届けようと思いながら、恵里香の隣を歩いた。

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