シオン(追憶〜君を忘れない〜) Last page

 合唱祭も終わり、生徒達は教室で待機していると、菅村は教室に入るや否や、恵里香に咎めるような視線を向けた。


『やっぱ、さすがに怒るよなぁ……』と、恵里香は少し気まずく思いながら目を逸らす。


「何の相談もなく、勝手なことをして……」


「ごめんなさい、先生。本当に大変なことになってしまい……本当にすみませんでした」

 恵里香が席を立ち上がって謝罪をすると、皆も後に続いて、波打つように立ち上がる。


「分かった、分かったから座りなさい」

 菅村は鼻から息を漏らすと、「本当に、大変なことをしてくれたな……」と呟きながらも、少しだけ微笑んだ顔を見せた。


「おかげて、うちのクラスは何も賞が取れなかった」


「どうせ、金賞は三年生だろ」


「その前に俺等、下手くそだったしな」

 口八丁な裕太と亮治の言葉が教室を笑いの渦に巻き込むと、菅村は手に持った書類の束をパンパンと叩きながら、「ほら、静かにしろ」と言って注意する。


「でも、署名は沢山集まったぞ」と言いながら菅村が皆に署名の束を見せると、今度は、「おぉー」と言いながら、拍手の音を鳴り響かせた。


「でもな、もう一度言っておくが、これで嶋岡の罪が消えるわけではない。嶋岡は人を殺しているんだ。それはどんな理由があろうとも、絶対に犯してはいけない罪なんだ」

 菅村の話しを聞けば、さっきまでの喜びが幻であったようにして、教室には沈黙が漂う。


「正当防衛は……」

「嶋岡はナイフを持っていたから、そうとはならないだろう……」

 思い付きで口にした裕太の質問でも、菅村の答えは微かな希望を掻き消すように聞こえる。


「なぁ、先生……」

「何だ?」


「何で、人は人を殺してはいけないんだ?」


 亮治の質問に対して、菅村は一度言葉を止めた。

 それは教師として答えるべきか、人間として答えるべきか、もはや生まれた時から正解だけを植え付けられていたようなことを考えれば、本当は何が正しいのかと、生死に関する公式が頭の中を駆け巡る。


「人間は動物や魚を殺すだろ?でも、人はどんな理由でも殺しちゃいけないのかよ」


「それは生きていく為の食物連鎖だ。動物や魚だって、生きる為には他の生物を殺して食べる。人間はその身を守る能力と強さがあるだけで、無防備でいれば動物に食べられてしまう場合もある」


「じゃあ、食べる為ならいいのかよ」

「人間を食べる?馬鹿な事を言うんじゃない!」


 女子からは、「嫌だ!そんな話やめて!」と言う者もいたが、菅村は唾を飲み込んで気持ちを仕切り直すと、再び話を続けた。


「生き物が生き物を殺す理由の大半は、食べる為だ。その命を貰って、私達も生きている。でもな、先生のお爺さん、お婆さんの時代までは、人は食べる理由でもなく、沢山の人を戦争で殺していた。今でも他の国ではそういう事が起きている。人間は愛を求めたり、平和を望まなければ、人が人を殺してしまう生き物かもしれない……その悪しき習性を止める為に、人を殺してはいけないと決めているのだと先生は思う。それは人が人を愛し続ける為の決まりなのかもしれない」


「でも……その……愛があったから、嶋岡は人を殺したんだろ……」

 亮治の言葉を聞けば、皆が答えの無いループに入り込んだようであり、頭の中で謎が駆け巡る。


「確かに戦争中は家族を守る為に、国を守る為にと言いながら、沢山の人を殺していた。その中でも必死で自分や家族の命を守った人達が、二度と同じことを繰り返さぬ為に、今日までの平和を心掛けた。だからこそ、今の私達がいるんだ」


 決められた答えしか知らぬ問題について、他の答えを求める難問は、中学一年生の頭を混乱させる。


「でも……俺達は嶋岡を人殺しなんて思ってないぜ……あいつは絶対に悪くない」


「だから裁判官のように、悪しき人間に罰を与えて、死を命じる役割の人がいる。それは嶋岡や、君達の役目ではない。先生だって怒りや悲しみを、その役割に託しているだけさ」


 いくら話を聞いても恵里香の心から影が消えはしない。菅村の言う悪しき者は自分の兄であり、その兄が友人を殺したのは事実。

 生きている兄を捨ててこの町に来たことは、人を殺す事と等しい罪なのかもしれない。

 それが原因で失った友の事を考えれば、罪の根源である自分の存在を嫌悪して、消えてしまいたいとすら思う。


「先生……皆んな……本当にゴメンなさい。全部、私のせいでこんなことになって……」

 菅村は窓際に立つと、西日の空に目を向けている。

 教室の雰囲気とは真逆に、陽気な声が校庭から聞こえると、菅村はまるで音を遮るように、窓にカーテンを掛けた。


「誰が悪い、何が悪いとかではない。一番悪いのは、もっと自分を大切にしないことだ。嶋岡も杉浦も、自分がいなくなることで、多くの人が悲しむことや、どれだけ皆から愛されているのかを分かっていない……これは皆に言っておくが、自分の命は自分だけの命ではない。それは、君達が生まれるまでに必死で生きてきた人から受け継いだ命でもあり、それを育んでくれた人達の命でもあるんだ。君達はこれから、河村の分まで一生懸命生きなければならない。それが彼にとって一番の供養だ……今こうして生きていることは奇跡なんだと思って、もっと自分を大切にしなさい」


 西日も次第に弱くなり、明かりを消した薄暗い教室にチャイムの音が聞こえると、菅村は生徒達に一礼して教室を出て行った。


 放課後、皆が校舎から姿を消した頃、恵里香は職員室を訪れた。


「先生……」

 恵里香が声を掛けると、菅村は物寂しそうに顔を向ける。


「皆んなに、お別れは言ったのか?」

 恵里香は菅村の訊くことに、かぶりを振って応える。


「先生の言っていたことは、ちゃんと分かっています。でも、皆んなに折角お礼が言えたのに、お別れも一緒に言うのは寂しいから……」


 菅村は恵里香の気持ちを受け止めると、他に何を言うわけでもなく、預かっていたボストンバックを渡した。


「このまま行くのか?」

「はい、夜の新幹線で福岡に行きます」


 母が心療病院で時間をかけた治療が必要となった為、恵里香は福岡に戻って、父方の親戚の家で暮らす事になった。


「先生、少し学校の中を歩いてから帰ってもいいですか?」

「お、それじゃぁ、先生も一緒に散歩しようかな」


 恵里香と菅村はゆっくりとした足取りで歩き始めると、まずは一年A組の教室を訪れた。


「窓際の一番後ろがヒロ君で、その前がヨウちゃん、そして、その隣が私……」

 恵里香が席を指差しながら菅村に話すと、「おいおい、先生だって毎日見ていたんだから知っているよ」と言って、笑い話にする。


「じゃあ、あの席、夏になると凄く暑いのを知っています?」

 その質問に対して菅村は、黙って洋平の席を指差すと、「あれ、先生が中学一年生の時の席。授業中も給食の時も暑くて、暑くて、冷凍みかんを楽しみにしていたら、食べる時には溶けてしまい、普通のみかんになっていたのを覚えているよ」と笑いながら、恵里香に思い出話しを聞かせた。


 廊下を歩いて校舎を出ると、校庭の周りを一周歩いて、次は体育館裏に辿り着く。

 恵里香は階段を勢いよく駆け上がると、「先生、こっち、こっち」と、高い所から菅村に手招きをした。


 階段を上ると、そこは三人で町の風景を眺めた場所であり、その景色は相も変わらず空が広くて、暁色の夕焼け空には、雲がゆっくりと流れている。


「へぇ、こんな場所があったんだ。綺麗な眺めだなぁ」

 恵里香は、「そういえば、先生もこの学校では一年生だもんね」と菅村を揶揄いながら、クスクスと笑っている。


「ここから町の風景を見た時に、『あぁ、私、これからこの町にずっと住むんだ』と思っていたけど、ここから景色を見るのも今日が最後になっちゃった……」

 恵里香は物寂しそうな表情をしていたかと思えば、菅村が目を合わせると、ニコリと笑った顔を見せて、階段を駆け下りた。


「おい、杉浦みたいに若くないんだから、先生のペースにも合わせてくれよ」


「先生、体育教師でしょ?」

 他愛もない話をしながら体育館裏を歩いていると、二人はプールの前を通る。


「あ、プール、これは……」

「どうした?」


「いや、別に……プールの水が抜けちゃった時、大変でしたね」

「本当だよ……あんな悪戯、誰がやったのだか」

「あれ、お金かかったんですか……」


「当たり前だろ、プールの水を入れ替えるだけで何十万もするんだぞ」


 心臓が縮み上がるような事実を聞いた恵里香は、思い出に浸ることもせず、急いで立ち去ろうとする。


「おい、どうした?そんなに慌てて」

「いや、何でもないです……」

 その様子を見た菅村は、『ははぁ……さては』と思いながら、教師生活で初めて生徒の悪行を見逃した。


 再び校庭に来ると、夕焼けに染まる校舎を目に焼き付て眺めながら、ゆっくりと歩く。

 校舎横を通り過ぎて校門に来ると、恵里香は菅村に笑顔を向けて、敬礼の真似をした。


「先生、それでは杉浦恵里香、福岡へ帰ります。いろいろとありがとうございました」

 憂う気持ちを誤魔化すようにして笑っている恵里香を見ると、菅村は遣る瀬無い気持ちが込み上げてくる。


「……大丈夫か?辛くないか?無理に笑わなくても、泣きたい時は、素直に泣けばいいんだぞ」


「泣かないです。もう、沢山泣いたから……それに、皆んな出会えて本当に楽しかったもん。先生が話してくれたフラスコの話、あの例え上手だなぁと思うけど、私は苦しくなっても、溢れるほどの愛を注いでもらったから。空のフラスコよりも、全然いいです」


 恵里香は寂しさを表情に見せず、微笑みながら話をすると、ボストンバックから一通の手紙を出して、菅村に差し出した。


「先生、ヒロ君がまた、この学校に通えるようになったら、この手紙を渡して下さい」


「分かった、必ず渡すよ」

 菅村は手紙を受け取ると、強く頷いて約束を示した。


「先生……また会いたいね」

「会えるよ、きっと」


 恵里香は笑顔を見せたまま校門から出て行くと、夕焼けに染まる町の中へ吸い込まれて行くように去って行った。


 ヨウちゃん、ヒロくんへ。


 二人とも、今までありがとう。

 そして、本当にごめんなさい。


 私は二人にいっぱい愛情をもらったおかげで孤独でなかったけど、二人のことを孤独にしてしまいました。本当にごめんなさい。


 私は、恵里香という自分の名前を花言葉と重ねて、いつでも孤独だと思っていたけど……そうだよね、二人の言う通り、お父さんがそんな名前をつけるわけがないよね。


 でも、私はまだ、博愛の意味と合うように生きられてはいません。

 いっつも、いっつも、二人に愛情をもらってばっかり……


 だけど、二人やみんなから沢山の愛情をもらったおかげで、心にはエリカの花がいっぱい咲きました。本当にありがとう。


 でも、せっかく咲いた花を見てもらう人がいないのは、やっぱり寂しいよ……

 悲しいよ……

 心が苦しいよ……

 二人とも、大好きだったのに……


 ヒロ君には、お礼もお別れも言わずに私は福岡へ行ってしまいます。本当にごめんなさい。

 この町が、嫌いになったわけじゃないよ。この町も、二人のことも、一年A組のみんなも、菅村先生や桜井先生も、本当に大好きです。


 だから、この手紙で言わせて下さい。


 ヨウちゃん、ヒロ君……私は二人が大好きです。


 菅村先生が言っていました。フラスコに注がれた愛情は、注がれすぎると苦しくなるって。

 きっとこれは、愛情を一人占めしていた罰だと思うから、これからは、もらった愛情を人に分けてあげられる人間になります。


 それが博愛だよね……二人に沢山もらった大切な愛情です。

 その愛情を分けることでみんなが幸せになるのなら、私は一人占めなんてしません。


 さようならは言いません、また会いたいから。

 だから、ありがとう。また会おうね。



 P・S ねぇ、やっぱり今すぐ会いたいよ……


 エリカの花言葉 完

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エリカの花言葉 堀切政人 @horikiri

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