シオン(追憶〜君を忘れない〜) page5

 話を聞いた生徒たちが全員で職員室へ行くと、扉の向こうから「お願いします!お願いします!」と菅村と桜井の大きな声が聞こえる。


 亮治を先頭に一年A組の生徒はノックもせずに職員室の扉を開くと、教頭に土下座をする菅村と桜井の姿を目の当たりにした。


「先生!」

 恵里香は皆を押しのけて二人の元へ駆け寄ると、菅村は見られたくない一面を誤魔化すように、「杉浦……来てくれたのか」と、優しい表情を見せて声を掛ける。


「君か、週刊誌にこんな情報を提供したのは!何を考えているんだい?これから三年生は受験を控えてもいる大切な時に、学校にマスコミを集めたりして、唯でさえこのクラスは、問題ばかりが起きているというのに……」


「問題……」

 恵里香にも流石にその言葉は棘があるように聞こえたのか、教頭の顔を睨み付けて見てしまう。


「問題ばかりと言うならば、それが問題ではないのを分かってもらいましょうよ」


「そうだよ、このままだと嶋岡は、ただの人殺しになっちまうよ」


「教頭先生は、揉め事が面倒くさいだけじゃないんですか?」

 裕太と亮治は、まるで教頭を悪人に仕立てるように意見を訴える。


「おまえ達!何を言っているんだ!いいから教室に戻っていなさい」

 菅村が生徒達を注意して声を上げると、麻衣子は「戻りません、これは私達の問題です。先生が頼むことではありません、教頭先生お願いします」と言いながら、懺悔するように土下座を見せた。


「とにかくこんな騒ぎになってしまっては、一年A組は合唱祭への参加は禁止です。菅村先生はあの校門に集まるマスコミ達に、事情を説明してきて下さい」


 教頭は確固として考えを変えない様子だが、生徒に土下座をさせるのは決まりが悪く、意味もなく教訓が掲げられた壁の額縁に目を向けて逸らす。


「教頭先生、勝手な行動をしてしまい申し訳ございませんでした。マスコミには私が話しますから、どうか皆んなを合唱祭に出させて下さい。お願いします」

 恵里香も深々と土下座すれば、廊下で様子を伺っていた他の生徒たちも、流れ込むように職員室の中に入り、床に膝間付くと、強い視線を教頭に向けた。


「教頭先生、どうか全員で合唱祭に出させて下さい。お願いします」

「お願いします!」

「お願いします!」


 生徒達が次々と土下座をして取り囲むと、教頭はおろおろと戸惑いを見せる。


「君達、止めなさい!止めなさい!」

 慌てめく教頭の言うことを耳にせず、裕太と亮治も土下座を始めると、週刊誌を手に持った校長が、校長室と繋がっている扉を開けて姿を見せた。


「いいじゃないですか教頭先生、合唱祭出してあげましょうよ。それに、ほら、この記事ちゃんと読みました?悪いことなど書いてありませんよ。あの事件に関しても、本校の生徒が無闇に殺人を犯したわけではないと、世間に伝えるチャンスなのではありませんか?」


 校長の判断に余儀なくされた教頭の気分は収まりが悪く、餌を取り上げられた猫のような渋面を見せる。


「校長先生、ありがとうございます!」

 菅村が校長に頭を下げると、桜井や生徒たちも後に続いて謝意を示す。


「杉浦恵里香さん」

 校長は膝間づいた恵里香の前に立ち、視線を合わせて腰を屈めると、顔を覗いて優しく微笑む。


「先程、福岡の伯母様から電話があったよ。今日は一生懸命頑張りなさい」


「はい……本当に、ありがとうございます」

 後光が射して見えるような校長の言葉を聞いて、恵里香は朗らかに微笑み返した。


 合唱祭の行われる体育館には、急遽マスコミ関係者用の席が設置された。


「生徒や学校関係者に迷惑が掛かるので、写真撮影等は一切ご遠慮願いたい」

 菅村はマスコミに対して、学校側の条件を話す。


 その間に一年A組は、音楽室での最終チェックと、恵里香とは初めての音合わせを行う。


「エリカ、これ一回の合わせで本番だけど、本当に大丈夫?」


「大丈夫、桜井先生の家にキーボードあったから、毎日練習してた」

 麻衣子は凛とした恵里香の姿を見て、『この子は本当に肝が据わっているなぁ』と感心する。


「ところでさ、さっき校長先生が伯母さんから電話あったとか言っていたけど、何かあったの?」


「あ、うん、お母さんのこともあるし……多分、あの記事を読んで心配しているんだと思う」

 心に引っ掛かりがあるのか、これからマスコミの前に立つ緊張か、先程とは相反して何処となく落ち着かぬ様子の恵里香を見ると、麻衣子は『やっぱり、大丈夫かなぁ』と思い始める。


 恵里香はピアノ椅子に座り、『虹』と題名が記された楽譜を目の前に立てて置く。

 各々が自分の配置に着いたところで、恵里香は歌い手に目を向けると、その光景を見て唖然とさせられた。


「ねぇ、その空けてある場所って……もしかして……」

「あぁ……ここは河村の場所だよ」

 それが当たり前のように裕太が答えると、皆も笑みを浮かべながら、恵里香と目を合わせる。


「じゃあ指揮者はどうするの?」


「それは嶋岡がいるだろ?本当はいなくても、俺達がいると思えばいいんだ」


「じゃあ伴奏は……私が来なかったら、誰もいなかったってこと……」


「それは絶対に来るって思っていたから……変わりなんて誰もいないよ」

 恵里香が今日までに流した悲しみの涙は、はかり知れないほどであるが、喜びによって溢す涙は久々である。

 溢れる涙はいつものような冷たい滴ではなく、伝う頬に温もりを与える。


「おい、本番前からそんなに泣くなよ」


「そうだよ、河村の分は俺たちが大声出せばいいんだし、嶋岡は……嶋岡は、あいつの指揮なんて、どうせデタラメだったからな」

 皆がどっと笑い出すのを見て、恵里香は一緒になって笑っている洋平と、指揮棒を振り回しながら、皆に向かって言い返している弘行の姿を思い浮かべた。


『うるせぇ、おまえ達がハメたんじゃねぇかよ!』

『いいじゃないか、どうせ音痴なんだから』


 その光景を見ると、この場にいる二人の姿を見ているようで和やかな気持ちにさせられるが、二人の姿は幻想であるのを知るが故に、切なさも覚える。


 彼等がいたから、今ここに自分はいるのに、自分がいたから、ここから彼等は姿を消した……

 彼等は私を救ってくれたけれど、自分は彼等を救えなかった。


 孤独から逃れることが、誰かの愛を蝕むことに思えると、たとえ自分が孤独になっても、その愛は返さなければならないと恵里香は強く思った。


 全校生徒が体育館に揃うと、合唱祭が始まった。

 プログラムが一年生の発表になると、一番手は一年A組の合唱から始まる。

 壇上に恵里香の姿が見えると、時の人が現れたように会場が騒めき出した。

 伴奏者である恵里香は、舞台の中央に立って一例すると、騒めいた群衆を凝望した後、目を閉じて深呼吸を済ませて、「私の兄は、私の友達を殺しました」と、舞台冒頭の台詞を述べるように話し始めた。


 生徒達の騒ぎが大きくなると、『静かに!』と張り上げる菅村の声が、体育館に鳴り響く。

 菅村は恵里香の姿を見て小さく頷き示すと、恵里香は心の引き出しを開けたように、話しを続けた。


「私の兄は……私の大切な友達、河村洋平君を殺しました。そして洋平君を殺した兄を恨み、嶋岡弘行君は私の兄を殺めてしまいました。しかし、全ては私と母を守ろうとして起きてしまった事件です。兄は二年前に父を殺しました。そして少年院から出てくると、母の事も殺そうとしていました。私と母は、兄から逃げてこの町に来たのです……家族を守る為に、家族を捨てて来たのです。だから兄が恨むのも仕方のないことでしょう……」


 恵里香は言葉を詰まらせながらも、懸命に訴えて話を続ける。


「兄は洋平君や、関係のない人までも殺しました。家族と言っても、私は許せません……弘行君は、私と母を守ってくれました。殺人が罪であることは分かります。しかし、彼が守ってくれなければ、きっと母は殺されていました。何が正で、何が罪か……その善悪を裁決するのであれば、一番の悪は私たち家族です。今度は彼を守りたい……だから皆さんにお願いがあります。嶋岡弘行君の罪が、少しでも軽くなるように……いいえ、できることなら無くなるように、嘆願書への署名をご協力お願いします!」


 恵里香が深々と頭を下げるのに続いて、一年A組全員が一礼すると、恵里香は会場の人々が賛否する様子を確かめようとせず、ピアノ椅子に座った。


「何だ?指揮者がいないじゃないか」

「本当だ……」

 静まり返っていた会場が再び騒めき出すが、恵里香は動揺することなく左手を天に向かって上げると、弘行の代わりとなって曲を始める合図をした。


 伴奏を弾き始めると、緩やかな音が体育館の天井に響き渡る。

 ピアノの伴奏が、身を潜めるような静かなメロディーに変わると、女子の高らかな声音が体育館に広がる。

 それを支えるように男子の歌声が重なると、全員の声がハーモニーとなって体育館に響いた。


 歌声を聴きながら、恵里香は今まで胸の中に仕舞っていた、小さな秘密を思いながら微笑む。


『ヨウちゃん、ヒロ君……二人に実は、秘密にしていたことがあるんだ。あのね、私、いつも二人で銭湯に行っている姿が羨ましくて、こっそりと付いて行ったことがあるんだ。多分、一緒に行きたいって言っても『来るなよ』って言われると思ったから……壁を挟んでも二人の話し声が聞こえると、可笑しくて一人で笑っちゃった。きっと周りの人は、私を変な子だと思っていたよね……ヒロ君がヨウちゃんを揶揄っている声とか、それに怒っている、ヨウちゃんの声とか……偶に私の名前が出てくると、その時だけ声が小さくて、何を話しているか分からなかったけど、何だか嬉しかった……ねぇヨウちゃん……本当にもう会えないの?ヒロ君……今、何処にいるの?会いたいよ……もう独りぼっちになるのは嫌だよ……』


 合唱がサビに入った途端、ピアノの伴奏が止まると、舞台にはまるで楽譜に全休符が記されているような沈黙が流れるた。

 擦れた泣き声だけが、空白の時を埋めている……麻衣子が目を向けると、恵里香は鍵盤に向かって俯きながら、涙を流していた。


 その姿を見た麻衣子は再び観衆に顔を向けると、伴奏のない歌を一人で歌い始めた。

 その声を船頭にして皆が歌い始めると、恵里香は驚いて、俯いていた顔を上げる。

 麻衣子と目が合うと、彼女の小さく頷いた仕草が、自分は今も孤独ではないと教えてくれた。


『ヨウちゃん、ヒロ君、私頑張るね……』

 伴奏が再び流れ始めると、コーラスが立て直り、曲も後半へ差し掛かる。

 その合唱は決して上手とは言えないし、ハーモニーが綺麗に合っているとも言えない。


 涙が邪魔をして喉を詰らしている女子の声や、泣き声を誤魔化そうとして、いつも以上に声を張り上げる男子の姿。何所となくアクセントが強く聴こえる恵里香の伴奏……それは不格好な光景であるが、気持ちが一つになっていることだけは、会場に伝わっていた。


 ピアノの伴奏が鳴り止むと、二拍ほどの間が空いて、拍手の音が聞こえた。目を向けると、菅村と桜井が真っ直ぐな眼差を一年A組の生徒たちに向けて、手を叩いているのが見える。

 その音が連鎖するように体育館が拍手喝采になると、恵里香の願いについては賛否の声を聞く必要などなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る