シオン(追憶〜君を忘れない〜) page4

 出版社からの帰りに、恵里香は洋平が亡くなった河川敷の川を訪れた。

 洋平の遺骨は母親が死を受け止めきれず、まだ墓に納められていないと聞いている。


 恵里香はスコップで土を掘り、まだ蕾である花の苗を植えると、川に向かって手を合わせた。


『ヨウちゃん、今日はヨウちゃんが見たいと言っていたエリカの花を持ってきたよ。いっつも私がいるみたいで邪魔かもしれないけど、側にいさせて下さい。もう少しで、小さな鐘のように見える花が沢山咲きます。それが咲いたら、天国で私のことを思い出して下さい。そうすれば、せめてこの花だけでも、孤独の意味を無くすから……』


 恵里香は心の中で洋平に語り掛けると、瞳を閉じたまま涙を溢した。


「ヨウちゃん……ゴメンね、本当にゴメンね。ヨウちゃんは私に出会わなければ、こんなことにならなかったのに……本当にゴメンね」

 恵里香は花を植えた土に手を触れると、ひんやりとした手の平が、友の死を連想させる。

 けれど、太陽が雲の隙間を見つけて日を当てた場所から僅かな温もりを感じ取れると、そこから洋平の胸に触れた時、鼓動が手に伝わっていたのを思い出した。


『大丈夫、ちゃんと動いているから……』

洋平の声が聞こえたのは、神の悪戯なのか……見上げた空には斑雲が東に流れて、燦々と輝く太陽が姿を見せる。


「ヨウちゃん、そこから私を見ているの?」

 太陽の眩しさで閉じた瞼の裏に光の残像が見えると、まるで暗闇に掛かった虹のように思えた。


『きっとヨウちゃんが、泣いてばかりの私の涙を、虹に変えてくれたんだね……』

 恵里香は空に向かって手を伸ばすと、「ヨウちゃん、私、頑張ってみるね」と、小さな声で呟いた。


 恵里香が帰ると、桜井は既に帰宅していて、グツグツと音を立てた鍋の中でスパゲッティを茹でていた。

 菜箸で鍋の中に入れた麺をかき混ぜながら、「お帰り」と桜井が声を掛ける。


 恵里香がニコリと笑いながら、「ただいま」と言って返事をすると、桜井は蟹のような仕草を見せて、菜箸の先でパチパチと音たてながら、「あ、何かいいことでも、あったなぁ」と、恵里香に問い掛ける。


「うん、ヨウちゃんに会ってきた」と答える恵里香に、桜井は「そう……良かったね」と言いながら、微笑みを見せた。


 桜井は菜箸をテーブルの上に置くと、「じゃあ、いいことあったついでに……」と言って、鞄からA4サイズの茶封筒を取り出すと、それを恵里香に差し出した。

 茶封筒の中には、『虹』と題名の書かれた混声三部合唱の楽譜が入っている。

 それを見た恵里香は、今日、洋平が見せてくれた涙の虹を思い出すと、この曲が何かのメッセージに思えて驚いた。


「ん、どうした?」桜井が不思議そうに顔を覗き込むと、恵里香は照れ臭そうに、「あ、いや、別に」と言いながら、楽譜を封筒の中に戻す。


「曲を変えたみたいよ。今までのは、河村君や嶋岡君と本当にお別れのようだからって……杉浦さんのことも、皆んな待っているのよ」

 桜井の話しを聞くと、恵里香は再び茶封筒から楽譜を出して、その題名に目を向ける。


「桜井先生……」

「ん、何?」

 桜井は、ようやく恵里香の気持ちが合唱に靡いたと思い、続く言葉に期待を寄せた。


「スパゲッティ……のびちゃうよ……」

 新米教師が「あっ、いけない!」と言いながら、慌ててキッチンに戻る姿を見ると、恵里香はクスクスと笑いながら、自分が為すべき事に思いを定めた。


 合唱コンクールの当日、校門には父兄の集まりだけとは思えぬほど、人々の群れができていた。

「あれ……何ですか?」

 桜井は、その様子を職員室の窓から眺めて、他の教師たちに訊ねる。

「週刊誌だよ、週刊誌!また余計な記事が書かれたんだよ!」


 教室でも週刊誌を手にした裕太が、「おい、大変!大変だ!」と言いながら、慌ただしく教室に入って来た。

 裕太は雑誌を麻衣子の机の上に開くと、表題に、『杉浦恵里香、涙の訴え』と書かれた記事を見せる。


「ちょっと、何これ!」と言いながら麻衣子が雑誌を手にすると、他の生徒達も机の周りに集まりだす。


《杉浦恵里香の兄を、中学生の少年が殺害した事件から二週間が経つ。

 犯行の理由としては、杉浦恵里香の兄、杉浦陽一(一九)が、A少年の友人を殺害したことに対する復讐だと言われている。

 しかし、加害者が死亡していることから、その理由を裏付ける証拠が無ければ、A少年の犯行理由も立証されないが、事件当日に母親を監禁していたことや、片山美奈子殺害事件に関しても杉浦陽一の犯行だと判断して、警察も捜査を進めている。》


 記事の内容は、洋平と弘行が恵里香と同じ学校の級友であり、とても仲が良かったことや、恵里香の兄が父親を殺害した時、本来は母が狙いであったこと。

 そして、少年院から出所する兄から身を守るために、恵里香と母が東京へ来たこと。兄の犯行計画から、洋平と弘行が恵里香を守ろうとしていたことが記されている。


《昨今になっても、全国の中学校ではいじめや差別の問題が絶えず、教室では孤立してしまう生徒もいる中で、杉浦恵里香の友人であったA少年の、友人に対する思いやりは尊重するべきである。

 杉浦恵里香の通う中学校では、A少年の罪に対して寛大な処置が得られるように、現在、嘆願書の署名を集めている。

 杉浦恵里香も、校内で開かれる合唱祭の場で、全校生徒や保護者達に訴え掛けたいと言っている》


 亮治は麻衣子から週刊誌を取り上げて、皆に内容を読み上げていた。


「何だよそれ……それに、杉浦なんて来てねぇじゃん」


「これじゃぁ、まるでエリカが見世物じゃない……」

 記事の内容に生徒たちが騒めいていると、その空気感とは相反した様子で、恵里香が教室に入ってきた。


「みんな、おはよう!」

 昨日まで学校に来ていなかった恵里香が、いつもと同じ挨拶を済ませるような態度で振る舞い、軽く手を挙げながらニッコリと笑っている。


「エリカ!」

 麻衣子が勢いよく席を立ち上がって恵里香に駆け寄ると、皆も同じように取り囲んで群がった。


「おい、あんなに沢山の人が校門に集まってたのに、よく教室まで来られたな」


「あぁ……ヒロ君が言っていたこと思い出して、通用口から入って来た」

 恵里香は悪びれない様子で自分の頭を撫でながら、ニコニコと笑って話す。


「ところで、この週刊誌どういうこと?もしかしてエリカが自分でやったの?」

 麻衣子が訊くと、恵里香はその質問に答えるとかではなく、「ごめんね、皆んなに心配かけて」と言うだけ。


「今でも心配しているわよ……エリカ、この記事を書いている奴らに散々苦しめられたのに、何でこいつらの金儲けに手を貸すような真似するのよ」

 権幕になって問い詰める麻衣子に対して、恵里香はかぶりを振って否定を示すと、「手を貸したんじゃないよ、貸してもらったの」と答える。


「どういう意味?」


「確かに、事件の話とか色々と書かれたりして苦しめられた。でも、あれはあれで、別に嘘を書かれたわけでもないの。本当にあった事を書かれていただけ」


 恵里香の話を聞いても麻衣子は素直に納得できずに、眉を顰めて不満を見せる。


「でも、記事に関わっていた奴がエリカのお兄さんを唆していたんでしょ?だから河村君だって、嶋岡君だってこんな事になったんじゃない」


「お兄ちゃんは唆されなくでも、きっと事件を起こしていたよ。その為に、私とお母さんは逃げて来たんだから、一番いけないのは私達なの……だから、私がこの町に来なければ、ヨウちゃんやヒロ君も、こんな事にはならなかったの……」


 教室の中は静けさに取り込まれていて、モノクロームのような雰囲気が漂う。

 本来であれば、各々の教室から合唱祭の最終チェックをする歌声が聴こえるはずだが、週刊誌の件で緊急職員会議が行われていることから、生徒達は教室で待機するように指示されている。


 裕太は一人群れから離れて窓の外を見ていると、校門には事務職員の男性が、仁王立ちでマスコミ達を見張っている。


「俺、ちょっとトイレ」

 裕太が重い空気から逃れるようにその場から立ち去ろうとすると、麻衣子が「ちょっと、こんな時に我慢しなさいよ!」と大声で呼び止めるが、「いや、洩れちゃうから」と言いながら、形振り構わず教室を出て行った。


「もう……」

 麻衣子が改めて恵里香の顔を見ると、先程のような作り笑いをやめて、悲壮的な面持ちを見せている。


「でも、これじゃあエリカが、まるっきりピエロみたいじゃない……」


 溜息交じりで話す麻衣子の言葉に対して、恵里香は、「ピエロなんかじゃないよ……ピエロって、人を楽しませる人でしょ?私は、皆んなを暗い気分にさせて、嫌なことばかりに巻き込んでいるから……」と答える。


 すると亮治が、「そんなんに巻き込まれるほど、俺たちだって馬鹿じゃねぇや」と、遮るように話し始めた。


「おまえは何にも分かっちゃいねぇな……じゃあ、何でおまえは今日来たんだ?何で俺達は、おまえを呼んだんだ?嫌な奴なら態々呼ばないだろ?河村も嶋岡も、おまえが大切な友達だから、一生懸命守ってくれたんだろ?俺達だって、おまえのことが大切な友達だから、一緒に合唱祭に出たくて呼んだんだろ」


 亮治から受けた言葉が、鐘を打ったように恵里香の心を響かせると、勾玉のような大粒の涙が溢れ出す。


「おまえ、おまえって、何回おまえって言うのよ……ヒロ君だって、そんなに何回も言わなかったわよ!」


 暫くの間、教室は恵里香の泣き声だけが聞こえていると、男子生徒の一人が場の空気を読まずに、「でも、杉浦があの校門にいる人達に呼びかけてくれたら、嶋岡の署名も集まるんじゃね?」と意見を述べる。


「馬鹿!そんなことして、エリカの気持を考えなさいよ!」


「でも、実際の所、全然署名なんて集まってないだろ?俺達意外で、何人が署名してくれた?」


 天秤に掛けるような話しを聞かされた麻衣子は、その重さを比べること自体が不服に思えて、皿に乗せた分銅を全て取り除きたい気持ちになる。


「いいじゃねぇか、杉浦は自分がそうしたいから、記事を載せるように頼んでくれたんだろ?それが杉浦の気持ちならば、俺たちがどうこう言う筋合いないだろ」


 亮治の意見を聞いた麻衣子が、「エリカ、そうなの」と訊ねると、恵里香は黙って頷いた。


「ヨウちゃんことを、私は守ってあげられななかった……だからその分も、ヒロ君は守ってあげたいの。私がどうなろうと、ヒロ君を守ってあげたい……だって、あの二人は、いつでも私にそうしてくれたから」


 恵里香が虚心になって告げる思いを、麻衣子も否定する気持ちと噛み分けて聞いていると、廊下に慌ただしい足音を立てながら戻ってきた裕太が、「おい!合唱祭に俺達、出られないかもしれないぞ!」と、大声を上げて皆に知らせた。

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