シオン(追憶〜君を忘れない〜) page3
しかし、その話しを易々と受け入れないのは恵里香の方であった。
恵里香は母が入院すると、家庭科の教師である桜井加奈子の家で一時的に引き取られていた。
マスコミなどに事件が騒がれると、自宅には報道記者や、洋平の母のように直接的な憎しみがある人間だけではなく、非道な若者が殺人現場だと言って面白半分に来ては、窓に石を投げ付けたり、『人殺し』と書いた手紙をポストに入れたりと、中学生が暮らしていられるような環境ではないし、恵里香にとっても、事件の起きた家に一人で居るのは、精神的に耐えられる事ではなかった。
恵里香に合唱祭の参加を説得するのは、一緒に暮らしている桜井の役割になった。
あの事件が起きたのは自分の責任だと捉えている恵里香は、皆に合わす顔がないと言っている。
だから桜井が参加を勧めても、恵里香は首を横に振るだけ。
「気持ちは分かるけど、皆んなは杉浦さんのことを待ってるよ。それにね、実を言うと今度の合唱祭は、歌うばかりが目的じゃないの」
桜井は、皆が弘行の為に嘆願書の署名を集めている事を、恵里香に話した。
「それならば、私は余計に出ない方がいいです……だって、私はヨウちゃんを殺した兄の妹で、それが原因でヒロ君は警察に捕まったんだから、きっと私がいれば顰蹙を買うだけだよ……」
桜井は、『やっぱりね』と言って口に出したいほど、恵里香の返答を見透かしている。
「そう言うと思ったよ。だから、この事を話すのはやめようかと思ったけど、私が言いたいのは、皆のことを考えるのは杉浦さんではなくて、皆んな自身じゃないかな?皆んなが杉浦さんと合唱祭に出たいと言っているのなら、それに応えてあげた方がいいと思うの」
「でも……私にとっては、もう皆んなじゃない……二人もいなくなってしまったから……それは、皆んなとは言えません」
桜井は静かに溜息を吐くと、兄や母の件で感傷的になっている恵里香を、それ以上は問い詰めることができなかった。
翌日、恵里香の気持ちが合唱祭には向けられていないのを、桜井は一年A組の皆に話した。
「何だよ、先生ちゃんと説得してくれたのかよ!」
亮治は、自分達の思い通りにならなかった事を、奴当たるように不満を垂れると、麻衣子が「コラ!」と言いながら、亮治を睨む。
「先生、やっぱりエリカは、私達が説得します。皆んなが言えば、エリカも考え直してくれるかもしれないから」
麻衣子が話すと、桜井は静かにかぶりを振って、「今は止めておいた方がいいわ」と答える。
「私ね、皆んな気持ちも分かるけど、今は杉浦さんの気持ちを尊重したいの……彼女は今、皆んな対する罪悪感と、自分を咎める気持で、物凄く心を痛めているのよ。だから、皆んなに会うのが辛いんだと思うし、彼女がそう思ってしまう気持ちも、私は分かるの」
「じゃあ、杉浦は学校に来ないってことかよ……」
裕太は釈然とせずに問い掛けるが、桜井の言う事があまりにも正論すぎて、本音を口にするのは我がままに思えてしまう。
「違う、今はその時期ではないと言うこと。だから嶋岡君のことは、杉浦さんの分も皆んなで頑張ってほしい。もちろん先生も協力するから」
桜井が話し終えると皆からは、「あーあ」と言った声が聞こえるばかりで、『はい、いいえ』のような決断があるわけではない。
「大丈夫、合唱祭は来週だから、まだ時間はあるし、きっとエリカも来てくれるよ」
いつの間にやらクラスを取り纏めるようなっていた麻衣子が発言すると、今では反論する者もいなくなっている。
「でも、やっぱり曲は替えようぜ。今の曲って、何だか湿っぽい曲だからさ」
「うん、じゃあこれから皆んなで決めよう」
裕太の意見に麻衣子が相槌を打つと、桜井は教壇を麻衣子に譲るようにして、教室を後にした。
恵里香には一つの試みがあった。その件で訪れたのは、白金が専属契約をしていた出版社の『週間ピリオド』編集部である。
恵里香は受付で編集長を呼び出すと、狭い客室に案内された。
十分ほど待っていると、待合室の扉が開き、年齢は四十代前半くらいのカジュアルな服装をした男が、ニコリと微笑みながら入って来る。
「いやぁ、初めまして……と言っても、実は初めてじゃぁないんだ。『紫陽花の涙』が放送されていた時に、一度取材させてもらったのを覚えているかな?」
「はぁ……」
その頃の恵里香は、毎日のようにテレビや雑誌の取材を受けていたから、編集者の顔など、一人ひとりを覚えているはずがない。
編集長は、(『週間ピリオド』 編集長 時田修)と書かれた名刺を差し出して、恵里香に渡した。
『週間ピリオド』は、片山美奈子が恵里香の話を密告した雑誌でもあり、写真週刊誌としては、業界一位の出版部数を誇る。
恵里香の記事は、白金が片山美奈子から得た情報をネタにして作られた。
そして記事の話題性が高くなると、白金は更に話題を膨らませようとする企みと、自分の思想を具現化したいと思う感情から、恵里香の兄に接近して、事件を起こすように促した。
片山美奈子が情報を垂れ込んだ理由は、事件が起きるのを防ぐ為だと聞いていた白金は、その話しを恵里香の兄に伝えたことにより、彼女は邪魔者と見なされて殺された。
しかし、恵里香が今日訪れたのは、その恨み辛みを晴らすためなどではではない。
「今回の件では、君も辛い思いをしたのでしょう……いや、白金が関わっているのだから、私が他人事のように言ってはいけないね」
時田は椅子に腰を掛けたまま、恵里香に向けて深々と頭を下げる。
「白金はね、元々戦場カメラマンになりたかったんだよ」
唐突に話す時田の言葉は、恵里香の頭に疑問符を浮かばせる。
「でも、彼はならなかった。いや、なれなかったと言いう方が正しいか」
「何故ですか?」
恵里香は白金との面識が無いから、後付けの話だけを聞いていれば、その存在は悪でしかない。だが、その悪の根源が何であるのかは気に掛かる。
「白金が小学生の頃に両親が焼身自殺した時、普通なら親が焼死した姿なんて見たらトラウマにでもなってしまうのを、両親よりも無残な死を見ることによって、自分の記憶を塗りつぶそうとしたのだよ。しかし、灰色を塗り潰す色なんて、黒しか無いからね。彼は次第に心まで黒く塗り潰してしまったのさ……戦場カメラマンが、その光景を悲惨だと捉えられなければ、その苦しみや悲しさを伝えることなどできないからね……」
恵里香は自分の思想とはあまりにも違う話を、頷くこともできずに聞いている。
「では、何で白金さんを働かせていたんですか?」
恵里香の質問に時田は、「そう聞かれると、ただ放っておけなかっただけかも知れない……でもね、黒く塗り潰された心は、時折この仕事に向いている事もあるのだよ」と話す。
「ごめん、ごめん。話が逸れたね。そうだ、お母さん入院しているんだよね?何かと大変でしょう。そういう話であれば、こちらも協力させてもらうよ」
恵里香が訪ねて来た理由は、きっと今回の事件で、出版社に対して訴訟を起こすつもりなのだろうと思った時田は、先手必勝のつもりなのか、現金の入った封筒を恵里香に差し出した。
恵里香は「困ります」と言いながら封筒を返すと、時田は「ハハハ」と笑いながら、「ごめん、ごめん。そうだよね、中学生に現金を預けるなんて間違っているよね。分かった、お母さんが退院したら、きちっと振り込むから、そう伝えて」と恵里香に告げる。
「違います。今日来た理由は、記事を書いてほしいからなんです」
恵里香の真っ直ぐな目を見ると、時田は首を傾げて、「記事って、一体何を?」と訊ねる。
「ご存知だとは思いますが、私の兄が友人である河村洋平君を殺したのを恨んで、嶋岡弘行君は、兄を殺しました……でもそれは、友達が殺されて逆上しただけでなく、嶋岡君は……いや、河村君も、私と母を守ろうとしてくれた為に、起きてしまった事なんです」
子役として厳しい芸能界を経験してきた恵里香であるから、大人への接し方や礼儀には慣れたものだが、彼等の話をすれば感情的になってしまい、気の強い口調になってしまう。
しかし、その言い振りとは裏腹に、瞼の奥には涙が溢れている事に、時田は気が付く。
「それはどういう意味?」
時田も初めは相手が中学生だと思って軽視していたが、話を聞いているうちに、それを一人の女性による訴えとして捉えれると、恵里香に対する見方も変わる。
「兄はそもそも、母を殺そうとしていました。その事は、白金さんという方も知っていたと思います。私と母は、その兄から逃げて来て、彼等二人と出会いました。二人も家庭のことや、自分のことで辛い悩みを抱えていたはずなのに、私のことを助けてくれて……それでヨウちゃんは殺されて……ヒロ君も……」
時田は恵里香の感情的な話しぶりから、本来言いたいは伝えきれていないと思い、「で、私に何を頼みたいんだい?」と、こちらから目的について問い掛ける。
「今、クラスの皆んなや先生が、嶋岡君の為に嘆願書と署名を集めています。彼は私に出会わなければ、人殺しをするような人間ではなかったんです。だから、お願いです。私のことはどんな風に面白可笑しく書いてもらっても構わないから、嶋岡君の署名を週刊誌で呼び掛けて下さい。お願いします」
時田は恵里香の話を聞き終えると、ポケットから取り出した煙草に火を点ける。
小さな窓から見える曇り空をぼんやりと眺めながら、薄暗い部屋に煙を立たせて煙草を一服する。
『週間ピリオド』は白金が事件に絡んでいた事により、現在は発行を自粛しているほどだから、汚名返上には打って付けの話。
しかし恵里香の話には、いくつか気に掛かる箇所もあり、時田はそれを考えると、可笑しなことでも思い出したように含み笑いを見せた。
「お願いか……その前に、君は何か勘違いしているな」
時田が話すと、恵里香は『私、何か余計な事でも言ったかしら』と思いながら、首を傾げて疑問を示す。
「私のことは面白可笑しく書いてもいいって、今の話を聞いて、何を面白可笑しく書けるんだい?君は多分、私達が作る雑誌なんて、人の不幸や、ゴシップだけを書いて売り物にしている悪本だと思っているだろ?でもね、それは私達が書いているんじゃない。私達は書かされているんだ。人は自分よりも不幸な人や、運の悪い人の話を聞いて、自分の幸福を確認することがある。それは寂しいことだけれど、『人の不幸は蜜の味』なんて思う人が多いからね……だから、その要望に合わせて私達も雑誌を作っているだけなんだよ」
時田の話に対して、恵里香は「私は、そんなこと思いません」と、キッパリとした返事をするが、時田は再び「フフフ」と笑った後に、「でも体の弱い人や病気の人を見ると、自分の体が健康であるのを意識して、自分は幸せ者だと思うでしょ?」と問い掛ける。
その悪戯のような質問に対して恵里香は、「それは……」と呟き、心臓の弱かった洋平を思い出して言葉を詰まらせる。
「まぁ、例えが極端すぎるけど、それは価値観の物差しが人それぞれ違うだけであって、貧しい人が裕福な話を聞けば、それを妬んで卑屈になってしまう時もあるけれど、自分よりも貧しい人の話を聞けば、それについて同情心が持てる……そう、白金のように、自分より不幸な人を見て、心の穴を埋める人間もいるのが現実。つまりは、君のことをどんなに面白可笑しく書こうが、共感を得る読者がいなければ、それは記事にならない。分かるかい?」
時田の哲学じみた話を聞いても、それを理解するには悩まされるが、恵里香にも感じ取れる事はある。
もし、自分の話す事を、他人に見立てた自分が聞いたら、それを共感できるのだろうか……
発展途上国や、まだ戦争の絶えない国で暮らす子供達のこと。
災害で両親を亡くした子供達のこと。
人間だけじゃなく、捨て犬や捨て猫にだって、『可哀そう』と思うことはあっても、それに手を差し伸べる人は少ない世の中で、自分は何を訴えようとして、ここへ来たのだろうと考える。
「でもね、少なくとも僕は、君の話に共感したよ。君の話はあまりに不幸だ。それは私達が原因でもあるから、今回は協力させてもらうよ。但しもう一度言うけど、共感を得る読者がいなければ意味が無いし、結果にもならないよ……分かるね?」
恵里香がまるで悪魔との契りを交わしたように小さく頷くと、時田は「君にとって、その友達はどんな存在なの?」と質問した。
「……花で言うなら、向日葵みたいな存在です」
その言葉を聞いた時田は、「大丈夫、絶対に注目を集める記事を書くから」と言って、恵里香の手を強く握った。
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