シオン(追憶〜君を忘れない〜) page2

 翌日、放課後の校舎には各教室から合唱祭に向けて練習している歌声が聴こえるが、一年A組の教室だけは、他の教室から漏れた歌声がBGMのように聴こえているだけで、歌は疎か、話し声の一つもなく静まり返っている。


 裕太と亮治は、教室の後ろに寄せられた机の上に腰掛けて、何が書かれている訳でもない黒板をじっと見詰めている。


 いつもであれば、塾だからと言って帰ってしまう生徒や、面倒臭いと言って帰ってしまう者もいるが、今日は皆の気持ちだけは纏まってはいる様子。

 だが、練習を始める様子はなく、皆が楽譜を手に取って、黙ってそれを眺めているだけのこと。


 菅村は体育教師だが、専門分野の行事である体育祭や球技大会に限らず、学校行事には音楽であろうが、書道だろうが、何でも熱くなるタイプの教師である。

 しかし今日は、その男が担任とは思えぬほど、生徒達には覇気がない。


「なぁ、中学校ってこんなものか?」

 今まで何を考えていたのかは分からないが、ここ十分ほど無言であった亮治が、開口一番に話したのは、この言葉。


「そんなわけないだろ、俺達が次から次へと色々ありすぎなんだ。普通なら、こんなこと卒業してからだって、あるもんか」


 放課後の練習は生徒の意思で取り組むことであり、教師が監視する必要はないと思っていた菅村だが、一年A組の歌声が全く聴こえないものだから様子を覗いてみると、秋の陽射しをカーテンで遮った薄暗い教室の床に、皆が座り込んでいるだけの光景を目にする。


「おい、何で練習しないんだ?合唱祭は来週だぞ」

 菅村が声を掛けると、亮治は「先生、やっぱりうちのクラスは、辞退した方がいいんじゃね」と、後ろ向きな発言をした。


「何でだ?」


「だって……あんなことがあって、歌う気分じゃねぇよ。それに、合唱って皆で歌うものだろ?河村も、嶋岡も、杉浦もいないじゃん」


「そうだよ……それに、こんな別れの歌みたいなの、歌う気しねぇ」


 確かに一年A組が選んだ曲は、卒業式でも定番の合唱曲であり、旅立ちや別れのイメージを醸し出している。


「私も、この歌を歌っていると、何だか悲しい気持ちになっちゃう」

 皆が残っていた本当の理由は、合唱の練習ではなく、この気持ちを伝えようとしていた訳だが、菅村の性格を考えたら聞き入れるはずがないと思ったら、素直には言い出せずにいた。


「こんな時だからこそ歌うんだろ、曲が嫌なら変えればいいじゃないか」


「だから、そういう問題じゃないんだって」


「じゃぁ、どういう問題なんだ」

 菅村の言うこと対して、亮治も向きになって言い返すが、簡単には納得しないのが菅村という男の性格。

 けれども生徒からすれば、友達が死んでいるのに歌えと言う菅村の考えの方が、理解に苦しむ。


「河村がいたら、きっと皆んなで歌いたいと思っていたはずだ。だからこそ皆んなの歌を聴かせるつもりで、歌おうと思わないのか?」


「思わないね。それに何度も言うけど、皆んなじゃないだろ?嶋岡は?杉浦だって来ないじゃん」


「それは……」


「ほらね、先生、俺、職員室で話しているのを聞いてたよ。嶋岡は、このままなら少年院に入るのが決まっているって」


 確かに弘行は今、世間にとっては殺人を犯した少年でしかない。

 挙句に父親があの様子では、家庭が更生に適した環境であるようにも見受けられないから、弁護士や菅村が寛大な処置を求めても、このままでは少年院行きを免れない。


「でも杉浦はきっと来るぞ。その時に迎える場所が無いのは寂しくないか?中学生活は今しかないんだ。今、歌わないってことは、思い出が一つ無くなるってことだぞ」


「何が思い出だよ!これのどこが中学生活だよ!友達が死んだり、警察に捕まったり、学校に来れなくなったりするのが思い出なら、無い方がましだよ!」


 亮治と菅村のやり取りを黙って聞いていた裕太も、自分の気持ちが抑えられなくなると、声を上げて菅村に訴える。


 さっきまで紛れ込んでいた他の教室からの歌声が聴こえなくなると、一年A組の教室には、まるで目に見えるような重い空気が漂う。


「先生は?友達や家族が死んだ時、歌なんて歌っていられるの?その方がよっぽどおかしいよ……先生は、俺達が何事も無かったようにヘラヘラと歌の練習をしていたら、こいつら人間が腐っていると思わないの?先生にとって、あの三人の事はどうでもいいの?」


 裕太の話を聞いて、洋平の母にも同じようなことを言われたのを思い出すと、菅村は今まで揺るぎなかった、自分の教育方針にすら疑いが芽生える。


 裕太の言う通り、教師生活でこんなにも事件が立て続く日々は、今までに無かった。

 十年ほどの教師生活では、いじめ、非行に走る少年への指導、保護者からのモンスターペアレントなど、決して問題無く過ごしてきたわけでもないが、これまでどんな問題が起きても真正面から向かって解決してきたことが、今の自信に繋がっている。


 学校行事に熱心なのも、一致団結して成し終えた先には、喜びや感動があるのを見てきたからこそ、このクラスにも同じように伝いたいと思うだけ。


 『これの何処が中学生活だよ』と訴える裕太の言葉には、『自分の理想を押し付けるな』と言われたような気持になる。


 燦々と太陽の輝いていた空に、淀んだ雲が掛かる思いになると、心の晴れない気持ちが菅村の言葉を詰まらせる。

 今は、生徒達を取り纏める方法など思い付かない……それは裕太の言うことが、自分よりも正であるからだ。


「そうだな、その通りだ。きっと先生だって歌う気分になれないよ。けれど、ただ一つ違いがある。あの三人がどうでもいいんじゃない。皆んなの事も、先生には大切な生徒なんだ。今回の事件があったからと言って、皆んなの中学校生活が、他の中学生より辛いことばかりなのは先生も辛い。それに杉浦は来ないと決まったわけじゃないから、彼女からも普通の思い出を取り上げたくないんだ」


 その言葉を聞いて、裕太や亮治も反論することはなかった。

 再び静まり返った教室には、女子達が声を潜めて泣いているのが聞こえる。


「でも……やっぱり俺、歌なんて歌っている気分じゃねぇ」

 亮治が教室を出て行くと、裕太も菅村の顔を一瞥して、後に付いて行った。


「先生、嶋岡君は本当に少年院に行っちゃうの?」

 無理矢理に出したような掠れ声で、麻衣子が訊ねる。


「まだ分からない……さっきの話も、今のままではそうなってしまうと職員室で話していただけだ」


「じゃぁ、どうにかする方法はないの?」

 菅村がその質問に言葉を失ってしまうと、一人の生徒から、「あるよ」と答えるのが聞こえた。


「テレビで見たことがあるよ、嘆願書に署名を集めて提出したら、犯罪の刑が軽くなった話」


 その話を聞くと、泣いていた生徒達からも、生き返ったように朗らかな声が飛び交う。


「だけど、署名なんて集まるのかよ」

「集まるんじゃなくて、集めるんだよ」


「でも、嶋岡は人を殺しているんだぜ」

「殺していると言っても、理由があるでしょ?」


「そんなの、俺達にしか分からないことだろ」

「人を殺している理由なんて、誰も分かってくれないよ……」


「だから、それを分かってもらうのよ」


「だから、どうやってだよ!」

 菅村は生徒達の姿を見ていると、中学一年生がこれほどまで考えているのに、自分の考えは浅はかであったと思い、溢れ落ちそうになる涙を、指の先で拭い取る。


「ならばこそ、合唱祭には参加しよう。みんなの頑張りを見てもらうんだ。そうすれば先生は頭を下げて……いや、やれと言われるのならば、その人達の足を舐めてでも、署名を集めるよ。但し先に言っておくが、罪が軽くなったとしても、嶋岡の罪は無くならない。人はどんな理由があろうとも、人を殺してはいけないんだ」


 菅村の話を聞いて、生徒達は不明確な言葉の意味を考えているのだろうか……教室に沈黙が流れる。


「皆んな、やろうよ。女子はエリカを説得するから、男子はあの二人を説得してよ。ねぇ、いいでしょ?」


 麻衣子が提案をすると、一人の男子が「あの二人は、おまえが説得しろよ」と言い付けた。


「何でよ?」


「だっておまえ等、杉浦、嶋岡、河村の三人組に似ているぜ。一緒にいたから、似ちゃったんじゃねぇか」


 その言葉を聞いて、生徒達だけでなく菅村まで笑い出すと、麻衣子は真っ赤な顔をして、「似てないよ、それに私のことを『おまえ』って呼ぶな」と、大声で否定する。


「ほら、杉浦も同じことを言ってた。やっぱり似ているじゃん」

 笑い声が更に大きくなると、麻衣子は、「もう!」と言いながらも、少し嬉しそうに微笑んだ。


 その日の夕方、麻衣子は裕太と亮治を公園に呼び出した。

 麻衣子が来た頃には二人も既に訪れていて、ベンチに座りながら何をしている訳でもなく待っている。


「何だよ話って……先生に何を言われたか知らないけど、俺は合唱祭に出ないぞ」

 裕太は放課後の流れから、麻衣子が言いたい事は大体分かっている様子。


「私も、あんた達が帰るまではそう思ってた……でも、今は違うの」


 麻衣子が嘆願書の件を伝えると、二人は断りづらい話を持ち出されて、丸め込まれている気分になる。

 弘行の為にと言われれば嫌とは言えないが、あれだけ突っ張った建前から、今になって素直に納得するのは、自尊心が邪魔をする。


「だったら合唱なんかなくても、署名だけ頼めばいいだろ。そんなチャリティーコンサートみたいなことして、どうするんだよ」


「そうだよ、先生も狡いよな。合唱祭に出させる為に、嶋岡をダシに使って」


「大体おかしな話だろ?合唱祭に出ないと頼んでくれないなんて、先生にとって嶋岡はそんな奴なのかよ」


「あの人も結局、自分の建前が大切なんだよ。問題ばかりのクラスが合唱祭も出ませんなんて、恰好つかないもんな」


 この二人を説得するのは、安易な事ではないと思っていた麻衣子だが、その態度を目の当たりにすれば、投げ出したくなるほどに苛立ちが募る。


「あんた達、全然似てない……」

「何がだよ……」

 麻衣子が顔を顰めて呟くと、いつものように声を上げて咎めたりしない様子が、裕介と亮治にとっては異様に思える。


「教室で私達のこと、あの三人に似ているって、皆んなに揶揄われた……あんた達と一緒だなんて恥ずかしかったけど、半分嬉しかったよ。だってあの三人見ていて、凄く羨ましかったもん……でも、あんた達は何?もしも逆の立場だったら、河村君と嶋岡君は、あんた達と同じことを言っていたと思う?絶対に違うよ!きっと、皆んなであいつらを助けようって言ってるよ!」


 この公園は家やアパートに囲まれているから、もしもあの窓から人が顔を出せば、自分達が女を泣かしているように思われそうだけど、こんなに大声で攻めたてられていれば、誤解もされないだろう……裕太はそんなことを考えているが、麻衣子が悲しみと怒り織り交ぜて話す姿を見ると、意地を張っていた心に同情心を持たされる。


 そうだ……あいつ等と比べれば、いつだって自分達はちっぽけだった。今度だって結局、嶋岡を止めることが出来ぬまま事件が起きて、起きてしまえば自分達が被害者のように振舞っていたが、中学生なんてそんなもんだ……そんな気持ちが、亮治にもあった。


 しかし、あの二人はいつも恵里香のことに一生懸命向き合い、恵里香も二人と向き合っていた。

 あの三人は、自分達に無いものを沢山持っていた。

 誰もが綺麗事に憧れて、それを綺麗だと思いながらも、それを実際に示すことはない。

 だけど、あの三人はいつも綺麗事の塊みたいな人間であり、裕太と亮治も、その姿が羨ましくて、そして憧れていた。


「俺等は全然似てねぇよ……嶋岡も河村も、あの二人は格好良すぎるんだ」


「でも、おまえは似ていると思うぜ。杉浦そっくりだ」

 麻衣子はきょとんとした表情の後に笑顔を見せて、「私のことを、おまえって呼ぶな」と、大きな声で二人を咎めた。


 それはあえて恵里香を真似た言葉であるが、裕太が、「ほら、やっぱり似ているや」と揶揄う後は、何を言わずとも和解することができた。

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