ヘンルーダ(軽蔑) page1

 中学校に入学してから三ヶ月が経つと、入学時は黒い学蘭とセーラー服の姿だった生徒達の姿から、衣替により純白の半袖シャツで教室を埋める


 創立六十年になる古い校舎の教室には、未だにクーラーなど無く、窓際の席は陽炎が見えるほど灼熱になる。


 教壇の近くに座る生徒達は、汗を掻きながら、教科書を開いて次の授業の予習をしているが、後ろの席では、やんちゃな男子がプロレスごっこをしたり、洒落っ気付いた女子が集まっている席では、ファッション雑誌を見ながら、キャッキャと言っている。


 洋平は友達がいないわけではないが、休み時間にはしゃぐようなことはせず、席に着いて暑さをじっと耐え凌ぐ。


 隣に座る恵里香も、友達がいないわけではないが、話題の雑誌を見ながら甲高い声で笑うようなことはせず、机の上に伏せてぐったりとしている。


「ヨウちゃん、暑い、あついよぉ……」

 洋平はこの五分以内で、恵里香から同じ言葉を何度聞いただろうか……後ろの席の弘行と言えば、ワイシャツ姿の彼を、まだ見たことがない。


 弘行が学校に来なくなってから、今日で二週間になる。三ヶ月前に上級生と騒動を起こした噂は学校中に広まり、弘行に一目置いている先輩もいたが、目を付けて絡んでくる先輩もいた。


 そんな弘行のいる教室には、毎日のように先輩達が来るものだから、それまでガヤガヤ、キャッキャと騒がしい教室も、先輩達が来ると、子山羊の家に狼が来たようにして息を潜める。


「あいつが教室にいるから、不良達が来るんだ……」

 そんな女子達ののヒソヒソ話が聞こえた翌日から、弘行は学校に来なくなった。


「ヨウちゃん、あついよぅ……」

 恵里香が下敷きを団扇代わりにして、パタパタと自分を仰いでいる。


「暑い、暑いうるさいなぁ、余計に暑くなるだろ」

 洋平も、下敷きでバタバタと自分を仰ぎ出すと、恵里香は仰ぎ疲れたのか、ぐったりとして机に伏せた。


「ヒロ君、何してるのかなぁ」

「さぁ……」


 二ヶ月ほど前になるだろうか、洋平は弘行の自宅を訪れたことがある。


 六畳一間の畳部屋には、まるで昨日、一昨日に引っ越してきたようなダンボール箱が積み重なっていて、そのダンボールの一つがテーブル変わりになっていた。


 空いたダンボール箱からは、無造作に取り出された洋服が散乱していて、部屋の角に置かれたテレビの上には、食べかけの菓子パンと、飲みかけのコーヒーが置いてあった。


 洋平の家は外装は古いが、六畳の部屋が二間と、狭い台所のスペースがあり、そこまでの窮屈さを感じない。


 そもそも金銭的に苦しいとか、訳のあった事情で祖母がその家に住んでいるのではなく、洋平の母が結婚した後に祖父を亡くした祖母は、娘と孫が同居するとは思っていなかったから、我が身一人であれば安い賃貸のアパートで十分だと考えただけだった。


 風呂だって、祖母には菖蒲町のある区から入浴券が支給されるので、銭湯に通えば十分であるし、その方が憩いの時間をつくれる。


 洋平の母が結婚するまでも、勤めに出て貯金していた祖母の暮らしは、決して貧しい生活というわけではない。


 朝はきちんと白米と味噌汁に、一品のおかずが食卓に並ぶし、夕飯だって豪勢ではなくても貧祖ではない。


 洋平の母が作る物は洋食が多く、ハンバーグやロールキャベツは口に合わないと祖母が文句を言う時もあるが、一家全員が菓子パンで食事を済ますようなことはない。


 洋服はきちんとタンスに仕舞ってあるし、食事はテーブルを囲んで食べる。

 テレビはきちんと台の上に乗っていて、その横には、洋平が小学生の頃に動物園で撮った写真が飾られていた。


 外見は古びた家であっても、部屋の中は暖かい暮らしだから、洋平は祖母の家に住むのが恥ずかしいとは、母親にも言えなかった。


 しかし弘行の家は、父親と暮らしている痕跡といえば、流し場に置いてある灰皿に煙草の吸殻と、酒の空き瓶くらい。


 インスタントコーヒーの空き瓶には、千円札が数枚と小銭が入っていて、弘行は出かけ際に、その瓶の中から五百円玉を取り出してポケットに入れていた。


「ねぇ、今日の帰りにヒロ君の家に行ってみようよ」


「別に行かなくていいよ、来たくないんだから仕方ないだろ」


 弘行を避けているわけではないが、一緒にいると先輩達から絡まれることが多いと思っているのは、洋平もクラスの連中と同じ考え。


 最近は銭湯で弘行と会うこともないし、入学した時より笑顔も少なくて、雰囲気が悪くなっていた弘行を思い出せば、少し距離を置きたいとも思う。


「ヒドイよ、友達なのに!いいよ、先生にヒロ君の家聞いて、私一人で行くから」


 あの家に平然と洋平を招くくらいだから、弘行が自分の生活に恥じらいを持っているとは思えない。


 二週間も大人しく家にいるのか分からないが、もしかすると不良の先輩が溜り場にしていて、恵里香が一人で訪れるのは危険ではないかと、洋平は考える。


「わかったよ、一緒に行くよ」

「いいよ、別に。私一人で行くから」


 洋平は、恵里香の身を心配して言ったつもりであったが、かえって機嫌を損ねてしまったらしい。


 それからの洋平と恵里香は、隣同士の席でありながら、会話をすることなく、授業中に恵里香が落とした消しゴムを、洋平が拾ってあげようとすれば、余計なことをしないでと言うような態度。


 給食の時間になると、恵里香は自分のパンを、周囲の目を盗んで、こっそりと鞄に入れた。


「先生、パンをもう一つ食べてもいいですか」

「何だ、杉浦、もう食べてしまったのか?」


 菅村が話すと、生徒達がどっと笑い出す。


「そんなに食うから、デカくなったんじゃねぇか」

 クラスの剽軽者である高橋裕太が、恵里香を揶揄う。


「あんたは、食べなさすぎるからチビなんじゃない」

 恵里香を援護して、裕太に皮肉を言うのは小野麻衣子。恵里香とは同性の中で一番仲が良い。


 教室には一層の笑い声が響くが、洋平だけは苦笑い。

 恵里香が鞄にパンを入れるのも見ていたし、そのパンはきっと、弘行にあげる物だと分かっていたからだ。


 放課後になると、早々と学校から去る恵里香のことを、洋平は追いかけた。

 スタスタと歩く恵里香の後を追うが、朝の一件から一言も話していないので、声を掛けるタイミングに戸惑っている。


 背後に洋平がいることを気づいていながら、振り返ろうとはしなかった恵里香だが、まるで小さな子供が親に叱られた後、距離を置いて歩いているような態度に苛立って踵を返すと、洋平は『ビクッ』と体を震わせて、立ち止まった。


「ねぇ、ヨウちゃんとヒロ君は友だちじゃないの?」

 恵里香の瞳は少し潤んでいて、話す声には寂しさを感じる。


「友達かって言われても……急に学校へ来なくなったのはあっちだし……」


 洋平にとっての友達と言えば、小学校の頃みたいに教室で話をして、放課後も一緒に遊ぶようなことだから、今の弘行を友達かと聞かれても、何とも言いかねる。


「私はね、あの日、仲良さそうにゲームをしている二人の後ろ姿を見ていて、凄く羨ましかったの。私が話し掛けると、二人は嫌がらずに話を聞いてくれたでしょ?それから次の日も、その次の日も二人はいつも一緒だったのに……だから私は、自分も二人と一緒にいられるのが、凄く嬉しかったの」


 カンカンに照らす陽射しを浴びて、恵里香が額に掻いた汗は、目尻を通って頬を流れるているが、洋平にも涙と汗の分別くらいできる。


 透明の涙と汗だが、洋平には恵里香の涙が、淡い水色に色付いて見えた。


『色だって、物だって、無いものは、無いぜ。透明は透明さ』

 いつの日か、弘行が言っていた言葉を思い出すと、洋平にとって弘行の存在が、無色透明になりかけていたように思えた。


 最初は単色だったはずが、何種もの色を重ねた事によって真っ黒になると、そこから連想した暗闇への恐怖を、透明して消そうとする。


 洋平が最初に受けた弘行の印象は、橙色だった。

 それは、太陽のような明るさもあれば、夕焼けのように、寂しく思わせる時もある。


 あのダンボール箱に囲まれた部屋で、パンを齧りながら暮らすのを平気そうにしていたけれど、きっと胸を痛めるような気持ちもあったのだろう……

 そう思ういながら、弘行の事を考えていると、洋平の心にも痛みを覚えた。


「ごめん、僕が悪かったよ。一緒に行こう」

「うん」


 洋平の言うことが御機嫌取りではないと分かった恵里香は、笑顔で喜びを見せて応えた。

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