ヘンルーダ(軽蔑) page2
弘行の住むアパートへ着くと、洋平は護衛するように恵里香の前に立ち、部屋のドアをノックする。
先輩達が屯している可能性があると思う考えは変わらず、それには洋平も恐れを感じる。
中からの返事が聞こえないと、今度は強めにドアを叩いて、部屋の中に呼び掛けた。
「ヒロ、洋平だよ、いないのか」
大きな声で呼び掛けると、ドアの向こう側から、人の足音が聞こえる。
足音が止まり、ドアが勢い良く開くと、ヨレヨレの白いTシャツに、色あせたグレーのハーフパンツを着衣して、髪の毛を金色に染めている弘行が出て来た。
「久しぶり……」
洋平が声を掛けると、弘行はムスッとした態度になり、恵里香と目が合えば、逸らして後ろを向いている。
部屋の中から蒸し暑い熱気が開放されて外に出ると共に、煙草のヤニ臭さが漂ってくると、二人は思わず手で鼻を抑えて、臭いを塞いだ。
「何しに来たんだよ」
振り向いた弘行に驚くと、二人は顔に当てていた手を下ろす。
「何しに来たって、もう二週間も学校に来ていないんだから、心配になるだろ」
洋平が話すと、弘行はまた顔を背けて、「心配?そんなのいらねぇよ」と、吐き捨てるように言っているが、時折見える横顔には、悲愴感が漂っている。
「ヒロ君、ちゃんと御飯食べてるの?これ給食のパンだけど持ってきたから」
恵里香が手に持っていた、ビニール袋に入ったコッペパンを弘行に差し出すと、いつも人の目を気にすることが多い洋平だから、恵里香が良かれと思っている行動は、弘行を不愉快にさせる事なのが、我が身のように感じ取れる。
「いゃ、エリカ……今、パンはちょっと……」
「は、給食のパン?人を乞食だとでも思って、馬鹿にしているのか!」
弘行の言うことは、やはり洋平の予想通り。
「違う、馬鹿になんかしてないよ。ヨウちゃんから、あまりお父さんが帰ってきてないかもって聞いていたから、ちゃんと御飯食べているのか心配で……」
「じゃぁ、同情か?余計なことするんじゃねぇよ!」
弘行が、恵里香の持っている袋を手で振り払うと、『バサッ』と音をたてて地面に落ちた。
洋平は、パンの入った袋を黙って拾い上げると、弘行に何か文句を付ける訳でもなく、「もう、行こう」と恵里香に声を掛けて、その場から去った。
四角四面の広場に小さな砂場だけある公園には、両脇にベンチが備え付けられている。
そのベンチに洋平と恵里香は座ると、洋平はパンを分けて、半分を恵里香に渡した。
割ったパンの中に、イチゴジャムとマーガリンが入っているのが見えると、洋平は小学生の頃を思い出した。
洋平にも、級友の家に給食のパンを届けた事があり、それは苦い記憶となって残っていた。
小学生の頃、古びた家に住んでいるのを『お化け屋敷』と揶揄われていた、東山宏太のことだ。
宏太はどんなに周りから揶揄われたり、馬鹿にされたりしても、学校は無遅刻、無欠席の優良児。
その宏太が揶揄われる原因となったのは、『給食』だった。
小学三年生の頃、宏太は給食が配膳されると、皆が揃う前から、一人だけ貪るように食べていた。
そして、いち早く食べ終えると、もう一人分くらいの量をおかわりをする。
その姿が、腹を空かせた人間というよりも、飢えた獣のようで見苦しかった。
始めは担任の先生も注意していたが、いつの日からか注意することはなくなり、それどころかスープの入った寸胴を、宏太の席まで持って行き、おかわりを注いであげるような時もあった。
「あいつの家、きっと貧乏なんだよ」
「狼の子供じゃないのか?」
「給食食べたいから、学校休まないんじゃないか」
宏太が学校に来ると、皆が決まり文句のように「狼が来たぞ!食われるから逃げろ!」と言って、教室から出て行く。
宏太が席に着こうとすると、机の上には、誰かが前の日に給食で食べ残したパンが、カサカサに乾いて置いてあり、ジャムやマーガリンで机がベタベタになっていた。
「狼が餌に掛かったぞ、確保!」と言いながら、ゴミ箱を頭に被せようとすると、宏太は机に身を伏せて、立ち上がって逃げようとすると、身体は洋服に付いたジャムで汚れていた。
それでも給食の時間は、貪るように食べている宏太を見て、「もしかすると、本当に狼に育てられているのではないか」という噂が流れると、数人の男子が、帰宅する宏太を尾行しようと言い出した。
洋平も気は乗らなかったが、「来い、来い」と皆が言うものだから、仕方なく付いて行った。
その時に見た宏太の家が、物凄く古いアパートであったことにより、翌日から『お化け屋敷に住んでいる』と、揶揄われるようになった。
それから暫くして、宏太が熱を出したという理由で初めて学校を休んだ日のこと、洋平は担任の先生から、給食のコッペパンが二つ入った袋を預けられて、宏太の家に届けてくれないかと頼まれた。
プリントや連絡帳を届けた事はあっても、給食のパンを預かるのは初めてであり、そこまでする事を疑問に思いながらも、宏太の家までパンを届けた。
アパートに着いて、玄関のドアをノックしても人は出て来ず、その横にある小さな窓が開いているのに気が付くと、そこから呻き声が聞こえた。
よく聞けば、宏太の声と似ているのに気が付き、慌ててドアノブを引いてみると、鍵の開いていた扉が開いた。
洋平が部屋に上がると、床は足の踏み場も無いほどに散らかっていていて、ゴミや物で埋め尽くされた部屋の中で、高熱に魘されている宏太が倒れているのを見つけた。
宏太の家は、父親が蒸発してから、母親と二人で暮らしていたが、十六歳で宏太を生んだ母親の遊び癖が抜けず、小学校に入る前は、幼稚園や保育園にも通わせずに、宏太を一人で家に置いたまま、昼間は遊び歩き、夜は水商売の仕事に出ていた。
宏太が小学校三年生になった頃から、水商売の仕事に勤めることもせず、昼から夕方までパチンコ店に通いつめて、夜は男と飲み歩く生活で、ほとんど家に居ない事から、宏太は夜になっても食事を与えられず、朝は寝ている母親の姿を見ながら登校して、給食までの時間、空腹を耐えていた。
それはいわゆるネグレクトだ。
その日も宏太の母親は、熱を出した宏太を部屋に置いたまま、パチンコへ行っていた。
担任は、給食を貪るように食べる姿を見て、母親が一人で育てているから、生活を切り詰めているのだろうと思っていただけで、実際の家庭環境までは知らなかった。
その後、宏太は児童相談所が引き取った後、母親に子供を育てるだけの能力が無いと見なされて、養護施設に移された。
狼の育てられるどころか、誰からも愛を受けることなく、皆にとってはただの昼食だった給食の時間も、宏太にとっては生きる糧だった……
今の弘行の生活を見ていると、洋平は宏太の事と重ねてしまう。
弘行もこのままの生活が続いて、施設に入れられる事を想像すると、今までは思わなかったが、弘行と会えなくなる事に寂しさを覚える。
「もうヒロにパンを届けたりするのは、やめた方がいよ」
洋平は齧ったパンを飲み込むと、そう言って恵里香に忠告する。
「何で?何でまた、そんな寂しいことを言うの?」
「アイツは別に、捨て犬や、捨て猫じゃないんだ。それに、可哀想だと思われるのが、一番辛いと思うことだってあるよ」
純粋な気持ちでパンを届けた恵里香には、洋平の意見を聞くことはできても、納得はできない。
しかし、洋平が弘行を避けたくて言っているのではなく、相手の気持ちを考えて話しているのは伝わる。
腰を屈めながら、地面に向けて垂れ下がっていた洋平の手から、ベンチの下に潜んでいた野良猫が、コッペパンを奪って逃げて行った。
「あっ!コラ、待て!」
洋平は、ベンチから立ち上って追い駆けるが、勢い良く逃げて行く野良猫を見ると、きっと生きることに必死なのだろうと思い、諦めて立ち止まる。
「あの猫、賢いなぁ。ずっとこの下で狙ってたのかなぁ……」
洋平が振り返ると、恵里香は屈んでベンチの下を覗き込んでいた。
洋平は、パンを振り払った弘行を思い出すと、猫の方が賢い生き方かもしれないと思う。
「ヒロくん、もう学校来ないのかなぁ……」
恵里香の呟く声を聞きながら、洋平はパンを奪って逃げた猫の足跡を見ると、それが離れて行く弘行の事に思えた。
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