エリカの花言葉

堀切政人

エリカ(孤独) page1

 これはきっと夢の中の出来事だ。

 坂道を駆け上がり、丘の上へ向かう途中に、古い屋敷を見つけた。


 背伸びして塀の向こう側を覗くと、庭に咲いている薄紅色の花が見える。


 それは、小さな鐘が無数に集めらめて咲いているようであり、陽射しを浴びて光っている花を見ると、これが夢であることに気付いて、僕は生きているのを思い出した。


「洋平君、洋平君、検査終わったよ」

「あ、あぁすいません」

「検査、長かったからね。眠くなっちゃったんでしょう」


 診察を受けていた河村洋平は、ベッドから起き上がると、外れたシャツのボタンを止めながら窓を見た。

 満開に咲いた桜の木が見えると、夢で見た花のことを思い出すが、ぼかされていた記憶は、眠気眼が覚めるほどに薄れていく。


「あの花、何て花だろう……」

「え、何か言った?」

 寝ていた洋平を起こした、看護師が訊く。


「いゃ、別に、何でもないです」

「洋平君も明日から中学生ね」


 桜の木から木漏れ日が窓を擦り抜けて、白い壁や床に反射する。

 その陽射しの下に看護師が立つと、薄いピンクの白衣に光が混ざり、淡色を引き立てる。


 髪に止められたヘアピンがキラキラと光り、その輝きが洋平には綺麗な髪飾りに思えて見とれていると、主治医が病室に入ってきた。


 その医師は、いつも頬が疲れないかと気になるほどニコニコと笑っていた。

 この病院では、洋平が小学四年生の時に心臓の手術をしてから、定期的に検診を受けている。

 今日は、入学する中学校に健康状態を報告する為の検診に来ていた。


「心電図の検査終わっていたけど、よく寝ていたから起こさなかったよ」


 寝ていると痒くなるあの鼻づまりが、苦しくて大きな口でも開けていなかったかと思うと、洋平は恥ずかしそうに頭を下げる。


「小学校と同じように、中学校も普通に登校して大丈夫だよ。但し激しい運動は駄目。だから残念だけどバスケ部に入部することも我慢してくれ」


「そうですか……大丈夫、正直言って、バスケ部はやめようと思っていたから」


 小学校三年生までは普通に楽しんでいたバスケットボールだが、心臓の具合が悪くなり始めてからは、バスケットボールどころか体育の授業も見学ばかり。


 女の子なら羨ましがるような細くて白い体は、洋平にとって醜い姿であり、中学生になったら体育系の部活に入部して男らしくなりたいと思っていた望みが、主治医の言葉で、蝋燭の火を吹き消すように途絶える。


 洋平は無理矢理に頬を吊り上げて笑顔をつくると、ペコリと会釈した頭を上げぬまま診察室を後にした。


 翌朝、新品でブカブカの学蘭を纏った洋平は、自宅のドアを開けると、首だけ出してはキョロキョロと外を見回して、人影が見えると、隠れるようにドアを閉めたりするのを繰り返していた。


 小学校の卒業と同時に両親が離婚すると、洋平は母と共に祖母の家で暮らし始めたのだが、この古いアパートにはどうも馴染まない。


 小学生の時に、古いアパートに住んでいた級友が、お化け屋敷に住んでいると揶揄われているのを見ていたが、自分が似たようなアパートに住むと、同じように揶揄われるのではないかと不安になる。


 隣町から引っ越してきたばかりだから、自分を知っている人間がいるはずなくても、自宅前の通学路に学蘭やセーラー服姿の生徒がゾロゾロと通るのを見れば、それが知らない人間でも、アパートから出る姿を見られることが恥ずかしくて、まだのっぺら坊の級友達から、明日の自分がケラケラと笑われているのが目に浮かぶ。


 外から聞こえる声が途切れ、人影が見えないのを確認すると、急いで自宅を飛び出して、二件隣に並ぶ立派な一軒家の前に立つ。

 曲がり角から制服姿の少年が現れたのを見ると、洋平はその一軒家に向かって「行ってきまーす」と偽りの言葉を出した。


 洋平の越して来た菖蒲町は東京の下町であり、大きなビルなどの建物は少なく、一軒家やアパートばかりが立ち並ぶ住宅街。

 背の高いマンションがちらほらと立ち並ぶのも見えるが、川沿いに掛かる高速道路までは及ばない。


 高速道路のジャンクションは二手に別れ、都会へ進む道と、郊外に進む道の分岐点。

 その下を流れる川は汚水にまみれていて、流された生活排水と工業排水により、黒ずんだ水辺からは、朝方になるとブクブクと泡が立つ。

 それは、まるで過去から現代まで人間が汚してきたものが、もののけとなり、もがいているように見える。


 けれど堤防には、蒲公英や芝で緑が茂っていて、河川敷にはイヌビエ、カズノコグサ、カラスムギなどが逞しく生えている。

 人々はそれを雑草と呼びながらも、その緑には自然を感じて、そして癒され、そこに集う。


 日が昇ると、朝焼けを楽しむ老人から、ジョギングに励む若者、犬の散歩をする婦人の姿が見受けられ、日が沈む頃には、泥だらけの子供たちが土手を駆け上がり、その先では、夕焼けに背を向けた制服姿の男女が、小さな恋に黄昏れる。


 堤防の上を歩き、川に架かる小さな橋を渡ると、そこから緩い下り坂になっていて、その斜面に足取りをまかせて下ると、そこから先が菖蒲町である。


 自宅を離れて、四角四面の広場に小さな砂場だけある公園を通り過ぎ、古い家ばかりが立ち並ぶ一本道を通ると、洋平では何に使うのかも分からないような、アルミの部品を作る工場から油の匂いが漂い、その角を曲がるとベージュ色の校舎が見える。そこがこれから新しい生活の始まる堀北中学校だ。


 二階、三階の窓から地上を見下ろす生徒達の姿が見えると、その生徒達のガヤガヤと騒ぐ声が聞こえる。

「井原の弟がいるぞ」とか、「澤井の妹、あれだろ。メチャクチャ可愛いじゃん」などと、野次馬の上級生が、人間観察をする声が聞こえる。


 新入生は母親と共に歩く女子の姿や、同じ小学校出身の男子達で連なり歩く姿。ピカピカの学生鞄はまだエナメルが強くその群れに眩しさを感じる。


 一人で家を飛び出てきた洋平は、その集団から少し離れて歩いていると、鞄は真新しいが、新入生にしては大人びた雰囲気の少年が、洋平の前を一人で歩いていた。

 新しそうな学蘭を着ているが、デッキシューズは、踵が踏まれた古い物を履いていて、先輩なのか分かりづらい。


「おはようございます」

 洋平が、無難に挨拶をして横を通り過ぎると、その少年はキョトンとした顔をしていた。


 校門には新入生のクラス割りが貼られていて、幼馴染みなのだろうか、ポニーテールとおさげ髪の女の子が二人で、「同じクラスだよ」と言いながらピョンピョンと飛び跳ねている。

 膝丈まであるスカートがフワフワと風に広がり、そのまま空に飛んでしまいそうだ。


 横長の大きな白紙に、筆字で書かれたクラス割りを見ると、洋平は端から端まで自分の名前を探した。


「あ、そうか、河村だった……」

 自分のクラスが一年A組あることを確認すると、鞄から真新しい上履きを取り出す。

 上履きを取り出した鞄の中はスカスカになり、この間まで肩に背負っていたランドセルの重みを思い出すと、これまでの生活がリセットされたようにも思えた。


 下駄箱に立ち並ぶ生徒達も、夢と希望が詰まっていそうなツヤツヤの鞄から、上履きを取り出し履き替えている。

 もしも鞄の中に夢と希望が詰まっているのならば、診断書の封筒がカタカタと動いて音を立てている洋平の鞄は、皆よりも夢や希望が少ないように思えた。

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