エリカ(孤独) page2

 教室に入ると、机の上にプリントが置かれていた。

 そこには生徒一人一人の名前が書いてあり、洋平は窓際の後ろから二番目に自分の席を見つけて、椅子に座る。


 背後からペッタン、ペッタンとだらしなく歩く音が聞こえると、先程見かけた先輩風の少年が、洋平の後ろの席に着いた。

 皆が布製の白い生地に、赤ラインの入った上履きを履いている中、彼は外来用と書かれた茶色のスリッパを履いている。


『上履きを持って来なかったら、鞄には何を入れて来たのだろう……』

 洋平は、そう考えて可笑しくなり『プッ』と吹き出して笑うと、後ろに座る少年の目つきが鋭く変わった。


 洋平は慌てて正面を向くと、開きっぱなしになっていた教室の扉から、男性が入って来た。


「今日から、このクラスの担任になる菅村慎二です。実は、先生もこの学校に来たのは今年からで、皆と同じ新入生です。宜しくお願いします」


 見た目は三十代半ば、いかにも体育会系の熱血教師風である菅村は、生徒の顔を見てニッコリと笑う。


 洋平は、後ろの席の少年がまだ怒っているのか気になるが、一度見たあの鋭い目つきを思い出すと、垣間見ることすらできない。

 しかし、怖い物見たさは抑えきれずに、横目で後ろを見ようとすると、隣の席がまだ空いているのに気が付いた。


 机の上に置かれたプリントには、『杉浦恵里香』と名前が書かれている。


『入学式に遅刻なんて、ろくな奴じゃないな』

 洋平の妄想する杉浦恵里香は、茶髪で、色黒で、長いまつ毛がくるりと上がっていて、眼蓋や唇がホログラムのようにキラキラとしたイメージ。

 小学校にも姉がいる大人びた女子が、そんな格好で学校に来て、先生に注意されていたことを思い出す。


 菅村が初めての出席を取ろうとして、出席簿を手に取ると、廊下をバタバタと駆ける音が聞こえて、教室の扉が勢いよく開いた。


「すいません、間に合うように新幹線に乗ったのですが……すいません遅れてしまいました」


「杉浦恵里香かい?」

「はい、そうです」


「そうか、朝早くからお疲れ様。あそこの席に座りなさい」


 ハァハァと息を切らしながら洋平の隣に座る杉浦恵里香は、背が高くて大人びている。

 想像の杉浦恵里香と違い、サラサラとした長い黒髪に、自然体でパッチリとした目と、唇にはリップクリームを塗っているような優しい艶。


 妄想と真逆であったのに呆気にとられていた洋平は、恵里香と目が合って慌てたが、彼女はニコリと微笑み返している。

 前に座る二人の女子が、杉浦恵里香を見てヒソヒソ話しを始めると、菅村がその二人を注意した。


 菅村は出席を取りながら一人一人の席を回って歩くと、「宜しく」などと声を掛けた。


「河村洋平、宜しく」

「あ……はい」

 両親の離婚により変わったばかりの苗字が、洋平にはまだ馴染まない。


「嶋岡弘行」

 その少年は窓の外を眺めながら、掠れたように小さな声で返事をした。

 菅村は彼にだけ声を掛けるのではなく、ポンと優しく肩を叩いた。


 入学式が終わり、夕方になると洋平は銭湯へ出掛けた。

 古いアパートの家には風呂が無く、引っ越してからの入浴は銭湯通い。


 銭湯と言えば、風呂桶に石鹸箱を入れてカタカタと音を立てながら歩くイメージだが、洋平はA4サイズのノートが入るほどの大きさである紺色の手提げ鞄に、シャンプー、石鹸、手ぬぐいを入れると、母と共用の自転車に跨り、塾通いでも装うように銭湯へ向かう。


 この御時世に家風呂が無いなんて、友達には知られたくないと思うが、今日の入学式では誰とも会話をしていないから、きっと級友に会っても気付かれないはずと考える。


 銭湯に着くと番台で小銭を払い、風呂場に向かう。家の風呂が無いことに恥じらいがあっても、この場所が嫌いなわけではない。

 湯気の匂いを嗅ぐと心が安らぎ、嫌なことを忘れられる。


 壁側の洗い場に腰を掛けて髪を洗っていると、洗面鏡に映った嶋岡弘行の姿が見えた。

 洋平はハッとして後ろを向くと、風呂道具を持ってキョロキョロとしている弘行と目が合う。


「あ、おまえは確か……」

「あ、やぁ、君は……」


 銭湯に来る途中の道で会うならまだしも、何故、風呂場で級友に会うのだろうと、洋平は戸惑った。

 しかも隣の場所が空いていると、弘行は人見知りすることなく座り、シャワーからお湯を出してジャブジャブと顔を洗い出す。


「おまえの家、風呂無いのか」

「いや、今、壊れていて」

 弘行が訊くと、洋平は小さな嘘をついた。


 少しの間、二人は会話をせずに、各々で体や髪を洗っていたが、鏡に映る二人の目が合うと、弘行から話し掛けた。


「おまえ、今日、俺を見て笑っただろ」


『やっぱり気にしていたんだ』

 そう思った洋平は、弘行に恐れを抱くと、混乱して頭の中に渦を巻く。


「いや、違うんだ、スリッパが……」

「スリッパがどうした」


「上履きじゃなかったから」

「忘れたのが可笑しかったのか」


「違う、鞄……」

「鞄が何だ」


「他に何を入れてきたんだろうって」


 鞄の中が空だったことを見透かされていたのが恥ずかしくなる弘行は、まるで長い時間、湯船の中に浸かっていたように真っ赤な顔をしながら、「うるせぇな!俺の鞄には、これからの夢と希望が詰まっていて、上履きなんか入らなかったんだよ!」と、大声で言った。


 自分が思っていたのと全く同じ事を弘行が言うものだから、洋平は緊張が一気に解けて可笑しくなり、笑い声を風呂場に響かせる。


「何だよ!何が可笑しいんだ!」


「いや、ごめん。朝、僕も学校で同じことを考えていたから」


 弘行は不貞腐れたように立ち上がり、湯船に向かって歩き出すと、洋平もその後に続く。

 熱い湯船に入れない洋平は、足だけを温めるようにしながら、湯船の淵に腰を掛けた。


「おまえ、小学校もこの辺だったのか?」


「ううん、隣町から引っ越してきたんだ。君は?」


「俺は、親父の仕事で北海道から引っ越してきた」


 弘行は、ボーッとしながら壁に描いてある絵を眺ている洋平の体から、胸に付いた傷跡を見つけた。


「なぁ、胸の傷、どうしたんだ?」

「四年生の時に心臓の手術をしたんだ」


 訊ねたのはいいが、返す言葉に迷った弘行は、誤魔化すように湯の中に潜り込む。

 潜り込んだ後の水面には、ブクブクと空気の泡が浮かび、それを見ている洋平は、意味の無い可笑しさが込み上げてケラケラと笑い出す。

 三十秒ほどして弘行が水面から顔を出すと、ニコニコと笑っている洋平と目が合った。


「羨ましいな、僕は潜ったりとかできないから」


「そんなに悪いのか?」

「何が良いか悪いかは分からないけど、運動や泳ぐのは駄目だって言われているから」


 銭湯から出ると、二人は駄菓子屋へ立ち寄り、アイスキャンディーを買った。

 コーラとサイダーの二種類を、弘行はコーラ、洋平はサイダーを食べながら自転車を漕ぐ。


「なぁ、このアイス、コーラとサイダーって言うのは、おかしくないか?」

 弘行は急に、謎掛けのようなことを言い出す。


「何で?」

「だって、どっちもシュワシュワしてないだろ?」


「知らないの?コーラって始めは炭酸じゃなかったんだよ」


 洋平は小学校の頃にコーラの工場へ見学に行ったことがあり、その時に学んだ豆知識を誇らしげに話した。


「へぇ、じゃぁサイダーは?」

「サイダーは……どうなんだろう……」


「それに、このアイス水色だぜ、サイダーは透明だろ?」


「透明のアイスがあるもんか」

「透明を色にすると水色なのか」


「そうだよ、海だって、川だって、絵を書くときは水色だろ」


「はぁ……でも、色だって、物だって、無いものは、無いぜ。透明は透明さ」


 弘行の話しを聞いても、これまでに気にしたことのない話しだから、洋平には考えても理解し難い。

 けれど、その言葉を聞いて洋平は、父親の事を思い出した。


 今はいない父親だが、ついこの間までの暮らしを思い出せば、透明とは思えない。

 どうせ透明にするならば、一番透明にしてほしいのは、新しく付いた『河村』という姓である。

 今日、担任からこの苗字を呼ばれた時には、他人の体に乗り移った気持ちになったのを思い出した。


「あ、俺の家ここだから」


 ぼんやりとしていた洋平が声に反応して振り向くと、弘行はどこかを指差している。

 指を刺す方に目を向けると、そこには洋平の家よりも更に古びたアパートがあり、壁には蔦の葉が覆うように生えているのが目に入る。

 そして、そこから五百メートルほど先にあるのが洋平の家。


「そうなんだ。僕の家は、もっと遠くだから」

 洋平はまた弘行に小さな嘘をつくと、逃げるような速さでペダルを漕ぎ、その場から去った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る