エリカ(孤独) page4

 ホームルームが終わると、恵里香は自分を助けたせいで嫌な思いをさせてしまった事を、弘行に謝罪した。


「嶋岡君、私のせいで本当にごめんね」

 頭を下げて謝る恵里香に、弘行は「別に、おまえの為じゃないし」と言いながら、自分の鞄を手に取って、席を立ち上がる。


「おい、何処に行くんだよ」

「疲れたから帰る」

 声を掛けた洋平に対して、弘行は背を向けたまま、手を振りながら教室から去って行った。


「どうしよう……」

 去りゆく弘行の姿を見て、恵里香は憂いを帯びた顔を見せている。


 先程までは、真昼の陽射しのような明るさだったのが、洋平には鬱陶しくも思えた恵里香だが、今は沈みかけた西陽のように、寂しげな顔をしている。


 その表情を菅村の話していた事に重ねれば、彼女は今日までに同じような出来事が何度もあったのだろうと、洋平は思う。


「気にすることないと思うよ、怒って帰ったとかじゃなくて、きっとああいう奴だから」

 洋平の言葉を聞くと、恵里香は静かに頷いて、床に落とすような溜息を吐いた。


 放課後、洋平はが帰宅しようとして下駄箱で靴を履き替えていると、今朝、教室で騒ぎを起こした上級生の二人が、獲物を捕獲するように洋平の腕を挟んだ。


 教室で彼らのことを見て笑ったから、何をされるか分からないと危険を感じて、履きかけた靴の踵を踏んだまま逃げようとするが、学蘭の襟首を掴まれた洋平は、あっけなく二人に捕まってしまう。


「おい、あいつ何処にいる」

 あの時、笑ってしまったのが失敗だったと思っていた洋平は、その一言から自分が標的でないのが分かると、ひとまず不安は払拭された。


「あいつ……ああ、嶋岡なら、あの後すぐに帰っちゃいましたよ」


「帰った?逃げやがって……おまえあいつに言っておけ。明日の放課後、体育館の裏で待っているから必ず来いって」


「いや……でも明日も来るかどうか……」


「うるせぇ!来なかったら、おまえのこともただじゃおかないからな」

 まるっきり気を緩ませていた所に、上級生の振り上げた拳が顔に当たると、洋平は殴られた勢いで地面に倒れ込んだ。


 尻餅をついて、下駄箱に敷かれた簀子がミシミシミシと鈍い音を立てると、それを骨盤に鳴らした音だと思わされながら、殴られた事と二重で痛みを感じる。


「明日あいつが来なかったら、こんなんじゃ済まさないからな」

 上級生は捨て台詞にそう言うと、洋平の前から去って行った。


 洋平は立ち上がると、再び上履きに履き替えて、階段横にある手洗い場で口を濯いだ。

 吐き出した水に混ざっている血の色を見て驚き、向かい側にあるトイレに駆け込と、鏡に顔を映して、唇の横にできた紫色の痣を見つける。

 入学した早々から、何故こんな目に合わなければならないのだと思うと、青空が雨雲で隠されたように、陰鬱な気分になった。


 トイレットペーパーをグルグルと巻き取り、切れた口を拭くと、血の滲んだトイレットペーパーを大便器に放り投げて水に流す。

 唇の痣を抑えながら、トイレを離れて下駄箱に戻ると、今度は恵里香が待っていた。


 まだ気持ちが晴れないのか、暗い顔をして立っていたが、洋平を見付けて目が合うと、恵里香はニッコリと笑った顔を見せる。


「あ、まだ靴があったから帰ってないんだと思って」

「どうしたの?」


 洋平が、もごもごとさせながら話す理由を、態々口の中を見せて『僕、さっき殴られて、口の中が切れているんだよ』なんて言うわけでもないから、恵里香は不思議そうにして首を傾げる。


「嶋岡君に謝りたいから、家に行きたいんだけど、何処だか知ってる?」

 洋平は家の場所を教えようとして「ああ……」と言い掛けたが、昨日見た弘行の家を思い出すと、自分ならば絶対に知られたくないと思い直して、言葉を止める。


「知らないよ。僕だって引っ越してきたばかりだし、あいつとも知り合ったばかりだから」

 洋平は話しを誤魔化すと、まるで自分の付いた嘘から逃げるように、恵里香を置いてその場を去った。


 下駄箱の前で待っていた恵里香の表情を思い出すと、少し可哀想な気もするが、嘘を付いた後の空気に洋平は耐えられなかった。

 立ち去った後には、また恵里香が悲しげな顔で立っているのを想像すると、まるで子犬でも捨ててきたような罪悪感があった。


 夕方、洋平が銭湯に行くと、そこには弘行も来ていた。


「おぉ、どうした?その痣」

 時間が経つにつれて青々しくなる洋平の下唇を見て、弘行は体をゴシゴシと洗いながら訊ねる。


「おまえのせいだよ」

いつもは大人しい洋平としては、珍しく乱暴な答え方。


「俺のせい?」

「そうだよ。あの上級生……あ、明日の放課後、体育館裏に来いって言ってたぞ」


「明日?ムリムリ、パス。だって明日、学校行かねぇもん」

「来ない?駄目だよ!来なかったら僕が何をされるかもわからない」


「あぁ、可哀想に……」

 弘行は洋平の話す事に対して、飛んできたテニスボールをラケットで打ち返すように答えながら、まるで他人事のように聞いている。


「大体、何で学校休むんだよ」

「明日、風邪ひくからだよ」


「何だって?馬鹿じゃないか、そんなの駄目だよ。明日絶対に来いよ」


「風邪ひかなかったらな」


 揶揄っているように話しながら、ゴシゴシと頭を洗う弘行の姿を見て、洋平は憎らしく思う。


「相手にすることねぇんだよ、あんな奴」


「相手にするなって言っても、向こうが絡んでくるのに、どうするんだよ」


「魔除けの数珠でもつけたらどうだ」


「ふざけるなよ!そもそも僕は悪くないんだ!」


「じゃあ、悪いのはあの女だろ、サインなんてしてやれば良かったんだから」


 そう言われれば、弘行は恵里香を守ったのだから、別に悪い事をした訳ではないと、洋平も思う。

 そんなスマッシュでボールを返されたような言葉だが、恵里香が悪いのかと言えばそれも違う。

 ただ、最終的なとばっちりが自分に回ってきたことだけが、洋平には納得いかない。


 洋平が頭の中の苛立ちも一緒に洗い落ちないかと思いながら洗髪していると、弘行は立ち上がって、風呂場を出て行った。


 明日、弘行が学校に来なければ、自分が大変な目に合うと思う洋平は、髪に付いた泡を急いで洗い流すと、ろくに体も洗わぬまま、風呂場から出た。


「なぁ、頼むから明日は学校に来てよ」

 機嫌をそこねて学校を休まれては困るから、洋平は気持ちとは裏腹な態度で、弘行に接する。


「じゃぁ、俺と勝負して勝ったらな」

「勝負?」


 弘行の言う勝負とはゲームのことであり、銭湯から出ると駄菓子屋で一ゲーム五十円の格闘ゲームをプレイする。


 ゲームで勝負をするのであれば、小学生の頃はあまり外で遊べずに、部屋でゲームばかりをしていた洋平には有利な勝負。


「ああっ!また負けた!洋平いくら持ってる?もう一回勝負しようぜ」

 二連敗する弘行を見て、先程までとは立場が逆転していることに、洋平は得意気な顔を見せる。


「嫌だよ、それにもう時間も遅いから、帰らないとまずいだろ」


「なぁ、頼む。明日、学校行くからさ」

「それは当たり前だろ、絶対に来なきゃ駄目だぞ」


 断り続けてもしつこくせがむ弘行に折れて、洋平は再びゲーム機に五十円を投入すると、負けてやらないと再びせがむのではないかと思いながらも、弘行から攻撃を受けると、向きになってボタンを連打する。


 夢中になって遊んでいる背後から、「コラッ!」と甲高い声が聞こえると、二人は驚いてコントローラーの動きを止めた。

 慌てて後ろを向くと、その様子を見てクスクスと笑っている恵里香がいた。


「コラ!不良少年」

「何だ……君かよ」

 臆病な洋平が、今の出来事で気を取り乱している隙に、弘行のコントローラー捌きが激しくなると、洋平の操っていたキャラクターは、ボコボコと殴られて、『ウーッ』と低い呻き声を出しながら倒れている。


「あ!ずるいぞ!今のは無し!」

「奢ってくれるんだったら、もう一回勝負してもいいぞ」


 そのやりとりを見ている恵里香が、クスクスと笑いながら見ているのを、二人は少し恥ずかしくなる。


「中学生がこんな時間に外でゲーム?」

「違うよ、そこの銭湯に行っていたんだ」


 弘行は言い訳のように話しているが、洋平は銭湯通いを知られるよりは、外でゲームをしていると思われた方が良いと思う。


「わぁ、銭湯!いいなぁ、行ったことない」


 頭と体を洗いに行く為の場所を、まるで夢の国と言われるテーマパークにでも行ってきた話のように羨ましがる恵里香だが、その話題を膨らませてほしくない洋平は、五十円玉を入れていないゲーム機のコントローラーを、ガチャガチャといじりながら黙り込む。


「ねぇ、私、行ってみたい所があるんだけど、これから行かない?」


「行ってみたい所?何処だよ」

「だから、これから行こうって言ってる所」


 夕焼けチャイムもとっくに聞き終えて空もすっかり暗くなっているから、本当ならば帰宅しなくてはいけないのだが、下校時に恵里香を置き去りにして帰った洋平には断りづらい。


「なぁ、弘行、行こうよ」

 弘行の方は口で言わないものの、自分のせいで上級生に殴られたのは、気の毒だと思っているから、洋平の言うことに断りづらい。


「じゃぁ、早く行こう」

 恵里香は、洋平が乗ってきた自転車の荷台に座ると、弘行も自分の自転車に跨がり、三人は恵里香が行きたいと言う場所へ向かった。

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