トリカブト(復讐) page1
「えぇ、はい、そうですか……宜しくお願いします」
恵里香の母は電話を切ると、虚脱するように座り込んで、大きな溜息を吐いた。
「お母さん、大丈夫?」
物陰から様子を伺っていた恵里香が声を掛けると、母は振り返って茫然とした表情を見せる。
恵里香が水を汲んで母に差し渡すと、それを苦しそうに口へ運び、ゆっくりと飲み込んだ。
ここ何日か、ろくに食事も取らなかった喉に水が流れると、痩せた首には小さな胡桃のような喉仏がゆっくりと動く。
「誰から電話だったの?お兄ちゃんのこと?」
恵里香が訊くと、母は「大丈夫、保護司の人からでね、あの子、福岡で真面目に働いているって」と話す。
「そう……良かった」
兄が出所した日から、母と二人で身を潜めるような生活をしているのは、恵里香の気も休まらなかった。
恵里香が菖蒲町に越してくる前に暮らしていた場所は、福岡県でも市内のようにビルが立ち並ぶ都市ではなく、東部の自然に囲まれた場所。
恵里香が子役として活躍するようになると、都会では常に人の目に晒されていて落ち着かず、このままでは家族全員の生活に支障がでると思った恵里香の父は、勤めている会社を退職すると、両親が亡くなった後に残された実家へ、家族を連れて引越すことに決めた。
家の周りは山と自然に囲まれていて、隣近所と言っても他に民家があるのは、自宅から一キロ近く離れた場所。
毎日の買い物も、車で市内へ行くしかないほど辺鄙な場所であるが、都会の生活に疲れていた杉浦家には、長閑で暮らしやすい場所であった。
引っ越してからの父は、農業を営んでいて、野菜のような農作物の他、花の栽培も行っていた。
その仕事が大きな収入になるわけではないが、この土地で暮らすには困るほどでもないし、恵里香の収入だけでも多額なもの。
家族の生活をその収入を頼ることはなくても、恵里香自身が高校、大学と、自立して通うには余るほどであった。
兄が市内の高校へ進学して一人暮らしを始めた後、家族三人で温和な暮らしをしていたこの家で、二年前の事件が起きた。
その事件を起こした恵里香の兄が、少年院から出所して一ヶ月、今は福岡市内の和食店に、住み込みで働いている。
週刊誌の話題もほとぼりを冷ますと、恵里香も記者に追い回されることなく、学校へ通学できるようになっていた。
今は皆とも和解して、以前と同じような学校生活を送っている。
校舎裏の紅葉も赤く色づいてきた頃、校内では合唱祭に向けて、各クラスが放課後の練習に励んでいた。
一年A組は、ピアノ伴奏を恵里香が務め、指揮者を弘行が務める。
「だからさぁ、嶋岡の指揮はデタラメなんだよ」
ぶっきらぼうに指揮棒を振る弘行を亮治が茶化すと、教室に響いていた歌声が、どっと笑い声に変わる。
「うるせぇ、おまえ達がハメたんじゃねぇかよ」
合唱祭に向けて話し合いをしていた時の事、窓際の席に座る弘行は、秋の心地よい日向に誘われて眠りに落ちていると、誰も立候補者がいなかった指揮者を、皆の陥れにより、多数決で押し付けられていた。
「いいじゃないか、どうせ音痴なんだから」
洋平が揶揄うのを見て皆が再び笑い出すと、弘行は「うるせぇ!うるせぇ!」と言いながら、指揮棒をブンブンと振り回す。
放課後の練習が終わると、皆が恵里香のボディガードになって帰宅するのが、最近の習慣であった。
マスコミに追われるようなことは無くなったが、恵里香に対する心配と償いの気持ちが、皆をそうさせている。
「ねぇ、毎日、毎日いいってばぁ」
恵里香はぎこちなく微笑みながら、眉を顰めて皆のことを見る。
「そんなこと言って、杉浦に何かあったら、俺達の責任だし」
裕太はいつものようにおちゃらけるのではなく、まるで恵里香に命を捧げたような口ぶりで話している。
「そうよ。それに私が何をできるわけじゃないけど、皆んなでいれば、少しは安全でしょ」
皆が自分に気を使う度に心苦いと思う恵里香は、麻衣子の言葉を聞くと、重荷になっていた気持ちを吐き出すように、大きな溜息をついた。
「嬉しいんだけどね、普通がいいの。皆んなだって塾とか色々あるのに、毎日、毎日、家まで送ってもらうのは大変でしょ?それに、普通になれないと、私も頭から色々なことが離れないから……」
麻衣子が目を合わせると、弘行は小さく頷いて「大丈夫、俺と洋平は何にも用がないから、二人で送るよ」と話す。
「何もないって、勝手に決めつけるなよ……僕だって、何かあるかもしれないだろ」
躍起になって意見する洋平の肩を、弘行は軽く突き飛ばしながら、「おぉ、じゃぁ、何の用があるのか言ってみろよ」と、にやけた顔で揶揄う。
「塾……とか……」
「塾なんて行ってないだろ、いっつもあの鞄に入っているのは、シャンプーと石鹸だろ」
自分にとって恥なことを言われた洋平は、更に躍起になって怒り出し、「うるさいな!エリカだって嫌がっているだろ、だったらヒロ一人で行けよ」と反論した後、逃げるように走り去った。
「何だ、あいつ……」
弘行にとっては、いつも揶揄っている程度の事だと思っていただけに、洋平の態度には少し驚く。
洋平は恵里香を守ると言っても、弘行や他の男子よりも体は華奢であり、腕っぷしが強いわけでもない。
だからと言って、麻衣子のように女心を理解して相談にのれるわけでもないから、皆のことを嫉ましく思う。
華奢な体は中学校に入る前からのコンプレックスでもあるが、その弱さを今になって酷く痛感させられる。
「おい、どうしたんだよ」
裕太と亮治が、逃げた犬を捕まえるように追ってくると、洋平は立ち止まり、息を大きく吸ったり、吐いたりを繰り返して呼吸を整えた。
「ほら、僕は君達にもあっという間に追いつかれてしまうほどしか走れないし、腕もこんなに細い。こんな僕がいたからって、エリカを守れるわけがない。だから、ヒロがいれば十分なんだよ」
裕太は肩を落として溜め息を吐くと、洋平の気持ちを汲み取るどころか、『男らしくない奴だなぁ』と思って、呆れた顔を見せる。
裕太は「あのなぁ……おまえ」と言って話そうとした時、洋平の背後から女性が歩いて来るのに気が付くと、その姿を見て息を呑んだ。
「あ……」亮治も気付いて表情を変えると、洋平は二人の目線に顔を向ける。
すると、そこにいる女性が片山美奈子なのは、聞かずとも認識できた。
「テメェ!この野郎!」
美奈子に亮治が食い掛かろうとすると、洋平は慌てて止めに入る。
「落ち着け、落ち着けって!」
荒れている様子を見て、小馬鹿にしたように笑う美奈子の顔が、更に亮治の感情を逆撫でる。
「おまえ、あの写真、週刊誌に売っただろ!」
「売った?売るなんてダサいことしないわよ。あれは差し上げたの」
横柄な態度で話す美奈子を見ると、本来ならば端正な美しい顔立ちが、洋平には魔女の面に見える。
「エリカは?学校にいるの?」
「エリカなら、とっくに帰ったよ」
亮治を宥めることに精一杯の洋平は、とりあえずこの女が何処かに行ってくれないかと思いながら、質問に答える。
すると美奈子は、「えっ、帰ったって、一人で?」と、何やら問題でもあるように、落ち着きの無い様子を見せた。
「いゃ、友達と帰ったけど」
「友達って、男?それとも女?」
美奈子の慌て具合が妙であるが、三人には、彼女が恵里香について訊ねる理由も分からない。
「杉浦を探してどうする気なのさ」
裕太が訊くと、美奈子は溜息を吐きながら、首を横に振った。それは呆れているように見えるが、そんな態度を取られる覚えもない。
いくら歳下といえども、人のことを子供扱いするような美奈子の態度は、三人を不愉快な気分にさせる。
「あの子の兄さん、福岡の仕事場から逃げ出して行方不明なんだって……多分、母親を探しているんだよ。私はそれを、エリカに知らせたかっただけ」
美奈子の言葉を童話に例えるなら、小麦粉を足に塗った狼の言葉に思えるが、その内容だけは、母山羊からの忠告にも聞こえる。
それを聞いた三人は、頭の中が留守番中の子山羊達のように慌てだす。
「おい、杉浦のやつ、危ないんじゃねぇか……」
裕太が独り言のように話すと、「探しているのは母親だから、恵里香に何もないとは思うけど……」と、美奈子は言う。
「元々、お父さんを殺すつもりじゃなかったのよ。彼は初めから、お母さんに恨みがあったの」
それから美奈子が話したのは、『紫陽花の涙』に隠された裏話であった。
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