エリカ(孤独) page5

 女の子と二人乗りをするなんて初めての洋平は、自分に掴まっている恵里香の温もりを身体に感じると、胸の鼓動が速くなっている気がする。


 恵里香が何処へ行きたいのかも分からないのに、弘行は前を走り、その後を追う洋平は、慣れない二人乗りで思うように加速できず、重いペダルを漕ぎながら息を切らす。


「その角を右に曲がって」

 恵里香の言う事を洋平が、「おーい、右に曲がれだって」と、大声を出して弘行に伝えるが、その声は届いていない様子。


 弘行との距離を縮めようとして、洋平は必死でペダルを漕ぐと、それと共に息切れも激しくなり、『ハァ、ハァ』と呼吸を乱す音が、背中から恵里香に伝わる。


「ねぇ、ちょっと止まって」

 洋平が自転車を止めると、恵里香は荷台から降りて運転を代わった。


「もう、どんどん前を走って行っちゃって……追いつくからしっかり捕まっていてね」


 そう言われても、女子の腰周りを掴むなんて照れくさい洋平は、荷台の脇を両手でぎゅっと掴む。


 恵里香がサドルから腰を浮かせたまま、ペダルを勢い良く漕ぎ始めると、女の子の尻が顔に当たりそうなほど近くにあるのが、洋平を戸惑わせる。


 あっという間に弘行に追いついた恵里香が、「こっちだよ」と合図をする姿を見て、「おい、おい、女に乗せてもらっているのか……」と弘行は言い掛けたが、洋平の胸にあった傷を思い出すと、慌てたように、「おーい待て、止まれ。洋平、俺の後ろに乗れ」と声を掛けて、二人を呼び止めた。


 洋平を下ろして身軽になった恵里香は、海辺を飛ぶツバメのように、風を切って自転車を走らせている。

 緩やかな坂を上ると、川辺に掛かる陸橋には、通り過ぎる電車の窓明かりと、河川敷の上に掛かる高速道路には、ヘッドライトを付けた車が、流れ星のように走っているのが見える。


 東京では数えるほどの星しか見えない夜空に浮かんでいる月は、ぼんやりとした寂しそうな姿を、水辺に映している。


 三人は堤防の上で自転車を止めると、芝生の上に座って、その景色を眺めた。


「なぁ、オマエ大丈夫か?」

 弘行は、青白くなった洋平の唇を見て気遣う。


「大丈夫?私、重かったでしょ、無理させちゃったかな」


「いや、大丈夫、もう落ち着いたから」


 友人に気遣わせるやりとりは、今に始まった事ではないが、それに甘えるのは弱い自分を見せているのと同じだと思う感情に対して、それは自己中心的な事であり、人の優しさを踏みにじる行為だと考えている理性が、心の中でジレンマになって葛藤する。


「こいつ心臓が悪いんだよ。それなのに二人乗りなんかするから」


 弘行の話しを聞いた恵里香が、「ごめん!大丈夫!」と言いながら洋平の胸に手を当てると、洋平は、「だ、大丈夫だよ!」と言いながら恵里香の手を払った。


『いきなり何をするんだ、この子は……』

 洋平には恵里香のすることが、まるで心の中まで触ろうとしているような行動であり、張りつめた気持ちについて、まるで高い音を弾いたピアノ線のような想像させる。


「おい、おい、やめろよ。そんなことしたら今度は心臓が止まっちまうよ」


「大丈夫、ちゃんと動いていたから」

 ケラケラと笑う二人のやり取りが、洋平をねじくれた気分にさせる。


「そんなことより、何でここに来たかったんだよ」

 自分の事から話題を変えてほしいと思う洋平は、恵里香に問い掛けて話しを逸らした。


「私はね、遠い場所まで来た実感が欲しいの……昨日、あの橋を走っている電車に乗りながら、ここの景色を見た時に、私は遠い場所に来たんだって思えたの……だから、またここに来て、もう一度それを実感したかったの」


 弘行も、北海道からこの町に越して来た身だが、それは無条件で父に連れられてきただけのことであり、恵里香のような思い入れは無いが、フェリーに乗って遥々来たのだから、遠い場所に来た実感はある。


「どこから来たんだ?」

「福岡よ」


「へぇ、遠いじゃん。方言とか出ないんだな」

「お母さんは東京の人だし、私、元子役よ。それくらい切り替えられるわよ」


 笑いながら話す恵里香の表情は、一見愛くるしく見えるが、話を聞いていると、どこか悩ましくも思えてくる。


「あの川に映る月、可哀想……まるで泣いているみたい」

「え?」


 恵里香の擬人的な言葉を聞いて、何と話し返せばよいのやらと、二人は少し戸惑った。


「あの空の月は一生懸命に明るく振舞っているけれど、本当は悲しいのよ。本当は沢山の星が浮かぶ夜空のはずなのに、ここでは数えるほどしか見えない……地上の明かりが夜空の邪魔をして、それに負けないように月が光ると、周りの星が姿を消す……そして孤独になった月が、鏡を見るように川を覗くと、水面に泣いている自分が映るの……私も同じ……どんなに明るく振舞っても、鏡に映った自分は、悲しそうに見えるから」


「ずいぶんと詩人だな……何か、ドラマのセリフか?」

 何を言えばいのか分からぬ弘行は、無難に思い付いた言葉を返す。


「えへ、分かった?」

ペロッと舌を出して笑う恵里香の顔は、どこか照れ隠しのようにも見える。


「君は、何かあってここに来たのかい?」

 洋平が訊ねると、笑っていた恵里香の表情は、スッと変わって寂しさを見せた。


「私の名前はね、お父さんが付けたの。私の誕生花がエリカだから、花言葉の『博愛』を意味して、全ての人を平等に愛する人間になるようにって」


「エリカって花があるのか、聞いたことがないなぁ」

 洋平は興味深そうに、恵里香の話しを聞いている。


「見てみたいな、その花」


「元々は荒野に咲く花で、その姿はとても寂しそうなことから、花言葉では他に『孤独』って意味もあるの。私はその孤独の方が強くなっちゃったみたいで、私の周りからは大切な人がどんどんいなくなっていく気がする……」


「大切な人って?」

 恵里香は弘行の質問に答えることなく、川に映った月のことを、じっと見つめていた。


「本当にそうかなぁ、僕は母さんが離婚して、父さんと離れてしまったけれど、それは僕のせいではない。父さんは大切な人だけれど、あの人が浮気なんてしなければ離婚することはなかったんだ」


 洋平の話を聞いた弘行は、芝生の上に寝転んで何やら考え事をしている様子。


「大人は勝手さ、勝手に子供を産んで、勝手に自分の好きな名前を付けて、勝手に育てと言われ、勝手にどっかへ行きやがる……でも、おまえが名前のせいで不幸になっているのなら、その名前を付けた親父は悪魔だぞ。おまえは、本当にそう思うか?」


 弘行が話すと、恵里香は大きく横に首を振って応えた。


「違うよ、あと、私の名前は『おまえ』じゃない。恵里香というお父さんが付けてくれた名前があるの。だから、ちゃんと恵里香と呼んでちょうだい」

「え?」


 良かれと思った話した事が、仇となった弘行は、なんとなくきまりの悪い思いをしたが、恵里香と洋平が笑う顔を見ていると、和やかな気持ちにもなる。


 川の向こう岸に灯るマンションの窓明かりを見た洋平は、帰宅の遅い自分を心配に思いながら待っている、母と祖母の様子を思い浮かべた。


「ねぇ、そろそろ帰ろうか」

 洋平が立ち上がると、二人も芝生に付いていた尻を、手で払いながら腰を上げる。


 月明かりの下を自転車を押しながら歩くと、三人には今が、とても尊い時間に思えた。

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