第24話 鳥ももう鳴かぬのに

エリイシャの一日は、妊婦になっても変わらない。バナード伯爵家の二階の物置部屋の窓からオペラグラスで庭を覗き見ることから始まる。

すでに七ヶ月に差し掛かるため、やや腹部もぽっこりしているが、こればかりは止められない。


レンズ越しに今朝も夫と義父の素晴らしい鍛錬の様子がうかがえる。相変わらず上半身裸で惜しげもなく肌を晒している。眼福だ。

無表情のまま、むふふと声を漏らしつつ、エリイシャはひたすらに二人を眺める。


「はあ、肩甲骨が動いているから小胸筋が引きつれているはずよ。広背筋を支えてあげて大円筋! 寡黙な補助が今日も光っているわね。今の足の動きは大腿直筋だわ。内側広筋もいい仕事っぷりでステキ…おっと、鼻血が…」


エリイシャは準備していた手巾で鼻元を覆うと、慣れた手つきで頭の後ろで結んだ。安定の怪しい姿だが誰の目にも触れないのでよしとする。

だが、休憩に入ったアイガンが、ふと視線を物置部屋に向けた。

レンズ越しに目が合った気がした。勘違いではなく、実際にアイガンには見えているらしい。


ふっと微笑を浮かべると、また鍛錬を開始する。


エリイシャはさらに鼻血が止まらなくなった。

夫の色気がありすぎて、殺されてしまう!


ガデルが聞けばエリイシャがひょろっとした筋肉を見つめる時のような光のない目を向けてきそうなことを思い浮かべながら、真っ赤になりながら悶える。


そうして一刻ほど鍛錬を眺め、二人が屋敷へと引き上げる頃、エリイシャは何事もなかったかのように、夫婦の寝室へと戻った。

すでに夫に知られてしまっている朝活ではあるが、体裁を整えることも大事だ。


「エリイシャ」


いつもならシャワーに直行する夫が寝室の扉を開けた。

ベッドに潜り込んで寝たふりを決め込んでいたエリイシャはびくりと体を揺らした。


上掛けに覆いかぶさるようにアイガンがエリイシャの体を抱きしめたからだ。

しかも上半身裸のままで。上掛けの隙間から見える腕は素肌のままなのだから、確実に服を着ていない。


「アイガンさま、ふ、服をお召しになって!」

「普段から慣れていくと約束しただろう? ほら、顔を見せてくれないのか」

「上掛けを血で汚すなんて粗相をしたくありません」

「血を出すことは確実なんだな…」


朝活を眺めているだけで盛大に血を吹きだしたのだ。妊婦は貧血になりやすいとは言うがこれほど血を出してしまうのだから、エリイシャの場合は拍車がかかっている。

少しでも体の負担を減らすためにも、夫にはぜひとも協力してほしい。


「あまりに可愛いことをされると歯止めがきかなくなるんだが」

「もう朝の薬草は摘みにはいっておりませんが?!」


ガデルから教えられた筋肉増強剤が単なる精力剤だと知った時には猛省した。朝から執務室でアイガンとヴィレが気まずい思いをしたと聞いた時には平に謝り倒したほどだ。


にもかかわらず物騒な声が聞こえたので、エリイシャは血相を変えて上掛けを跳ね上げた。

にやりと意地悪く笑った夫の顔を見て、騙されたことに気が付く。


「嘘をつかれましたの?」

「いや。証拠を見せようか」

「け、結構です。お仕事に遅れてしまわれるわ。早くシャワーを浴びていらして」


なるべく夫の筋肉を視界に入れないようにアイガンの瞳を見つめて乞えば、情欲の色を帯びた瞳とぶつかった。

朝から物騒な雰囲気だ。

相変わらず夜の情事はエリイシャが鼻血を出して意識を失ってしまうので、きちんと行えていない。彼も欲求不満なのだろう。

時々は眼を瞑って服を着たまま行っているので皆無というわけではないのだが、やはり歯がゆさは募っているらしい。


「妻を堪能してからでもいいか」

「いけないわ。朝ごはんを食べる時間がなくなってしまいます」


彼の筋肉は輝きを取り戻して眩しいくらいで、一食抜いたところで揺るがないだろうが、夫がひもじい思いをするのは別の話だ。なにより、体力勝負の騎士の妻として朝食抜きで夫を送り出したくはない。


「では、口づけは許してくれるか?」

「喜んで」


相変わらずエリイシャの表情筋はぴくりともしないが、心の中では花畑が咲き乱れるほどに浮かれている。

愛する夫に愛されて幸せな毎日だ。


アイガンは軽く一度口づける。それで終わりだと思ったが、再度重ねられた唇は、そのまま貪るような激しさを増す。


「ふっ…わァ…ンン」


がっちりと頭を抑え込まれたので逃げることもできない。口腔を肉厚な舌が蹂躙する頃にはエリイシャの息は相当乱れていた。

やめさせようとうっかり伸ばした手はアイガンの逞しい胸筋に触れた。


厚い胸板の脈打つ筋肉に、一瞬で頭が沸点に達する。

ぶしゅううっと盛大に鼻血を吹く感触とブラックアウトする視界の中で、エリイシャは夫の焦ったような声を聴きながらむふふと笑う。


性癖がばれても夫の愛は変わらなかった。

だから自分は隠さずに、愛するものを愛でられるのだ。

それはなんと幸福なことだろう。


「愛してますわ…」


譫言のようにつぶやいた声は果たして相手に届いただろうか。

届いていなくても、また起きた時にでも言えばいい。

きっとアイガンは傍にいてくれるだろうから―――。





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る