第2話 独り蒼褪め彷徨い歩く
エリイシャの一日は、バナード伯爵家の二階の物置部屋の窓からオペラグラスで庭を覗き見ることから始まる。
庭と言ってもコの形の建物の東側の隅の一角を指す。そこは表からは死角になっており、なおかつ建物の中からもおいそれと様子を窺うことが難しい場所だ。故に、彼女の夫となるバナード伯爵家当主アイガンとその父親であるデリンジャの鍛錬の場所として適した所なのだが、覗きという行為からすれば、難易度の高い場所でもある。伯爵家に嫁いできて、夫が朝に鍛錬を行うと知った後のエリイシャは、まず屋敷に慣れる前に、この庭が覗ける場所を必死で探したのは言うまでもない。
結果、こうして毎朝彼らの素晴らしい鍛錬の様子がうかがえるのだから、ここは至上の国に違いないと思う。むしろ、なんのご褒美だろう。
物心ついた頃から筋肉を求めて愛し、人生を捧げてきた自分に対する筋肉神からの褒美に違いない。
むふふと声を漏らしながら、エリイシャはひたすらに二人を眺める。ただし、その顔は無表情だ。きりっとした切れ長のサファイア・ブルーの瞳は爛々と輝いているが、彼女の表情筋はぴくりとも動かない。世間一般的にはきつめの美人に評される彼女だが、能面のような顔に鉄面皮女のあだ名がついている。
けれど、声は欲望にまみれて興奮が溢れている。
「はあ、今日もステキな大胸筋。頑張って上腕二頭筋と三頭筋。支えて外腹斜筋、ふんばって大臀筋! ああ、なんて素晴らしい豊満感。隠れている上腕筋の引き絞られる音さえ聞こえるようでステキ…おっと、鼻血が…」
エリイシャは準備していた手巾で鼻元を覆うと、慣れた手つきで頭の後ろで結んだ。傍から見れば怪しい姿だが、この部屋には誰もいないので手巾を赤く染めようとも騒がれることもない。
彼らはなぜか毎朝上半身裸で剣を振るう。外の気温はそれほど低くはないが、ひんやりと肌寒くはある。二人の動きが激しいので、蒸気した肌からうっすらと揺らめく湯気が見えるほどだ。
下は簡素な布でできたズボンで、ぴったりと筋肉に沿っているため動くだけで、筋肉の躍動感が伝わってくる。オペラグラスで眺めているのでくっきりと見える。
剣を打ち合う度に、鍛え上げられた鋼の鎧ともいえる肉体美が光る。眩しさに眩暈を覚えた。
鼻血が止まらなくなるのもうなずける話であろう。
親子揃って恵まれた壁のように大きな体躯に赤褐色の髪、よく日に焼けた小麦色の肌をしている。違いといえば緑色の瞳をしているのがデリンジャで金色の瞳をしているのがアイガンだ。
義父は髪に白いものが混じり始めているのも、違いといえばそうだが。
そうして一刻ほど鍛錬を眺め、二人が屋敷へと引き上げる頃、エリイシャは何事もなかったかのように、夫婦の寝室へと戻る。
シャワーを浴びるために夫が二人の部屋へと戻ってくるので、それまでにベッドで寝たふりを決め込まなければならない。
朝活は決して知られてはならない、新妻の秘密の楽しみなのだから。
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