第20話 冷たい丘だと気づく
「ああ、いいわね。素敵だわ。惚れ惚れしてしまう」
うっとりと告げれば、直立不動にしていたトウドが救いを求めるようにバンデミオンを見つめる。だが、主はあっさりと首を横に振る。むしろ必死だ。関わりたくないと告げている。
そんな二人の無言の会話を綺麗に無視して、エリイシャはまくり上げられたトウドのシャツの袖から見える上腕の筋肉から手首までを撫であげる。
最近、診療所に来る患者も外傷や骨折ばかりで筋肉を痛めた者は少ない。
こうして鍛え上げられたしなやかで健康的な筋肉を目にすると心が弾む。
もしや自分は欲求不満だったのだろうか。
理想の筋肉には触れないし、朝くらいしか見ることもできない。
ある意味、禁欲生活のようなものだ。
代わりの残念筋肉では、物足りなくなってしまった贅沢な嗜好が、出口を求めて暴れまわっているのかもしれない。だから気持ち悪くなったりするのだろう。
なぜなら、今、自分の心はこれほど落ち着いているのだから。
頬ずりしたくなるのをこらえながら、エリイシャはトウドの腕の筋肉を撫で続けた。75点の腕だけれどもないよりはましだ。
「あなた護衛も兼ねておられるのでしょう。剣を扱える方の筋肉の付き方だわ」
「は、はあ…」
「特にこの前腕屈筋の中の浅指屈筋が秀逸だわ。あの、少し握る動きをしていただいてもよろしい?」
「こう、ですか…?」
青い顔をしながらもトウドは言われた通りに何かを握る動作をしてくれる。すると筋肉が動き、手を添えていたエリイシャにも伝わる。筋肉が伸び縮みして、一つの動きにつながる。
それにひどく興奮を覚える。
自分の表情筋はまったく仕事をしない。けれど、筋肉とは勤勉で愚直なほど真面目に働いてくれるものなのだ。
筋肉は裏切らない。
何かの本に書いてあった格言だが、まさにその通りだと思う。
「はああ…たまらない…次はゆっくりと動かして。もどかしいくらいがいいのよ。ああ、そうね……上手ですわ。あなたにも伝わるかしら、ほら、ここがピクピクしているでしょう?」
「え、ええ…」
「ゆっくり動かすと、ほらここが膨れるのよ。張りつめているのがわかるでしょう。はああ…そのまま続けて…」
「わ、バカ、止めろ!!」
突然、扉の向こうから慌てたガデルの声が聞こえた。聞こえたな、と思った時にはすでに扉は極限まで開かれていた。
ばたんと物凄い音をたてながら、悪鬼のように不穏な空気を背負った夫が仁王立ちしていたのだった。
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