第9話 馬に乗せ、静かに駆け出し

ガデルの診療所から帰宅し、遅めの昼食を食べてエリイシャは手早く着替える。簡素なワンピースにズボンを穿いて、編み上げたブーツに履き替える。

そのまま伯爵家の裏手の山へと向かう。

山と言ってもバナード伯爵家の所有であり、丘よりやや広い敷地を誇る規模だ。


昔から鍛錬の場としても使われていたそうで、結婚早々にアイガンが案内してくれたこともある。夫婦になって初めてのお出かけが、裏山歩きだ。無骨な夫らしい提案に否やがあるはずもない。

おなざりにならされた山道はブーツでも歩きにくい。アイガンは庭のようなものだと言っていたがエリイシャを伴うと巡るのに一日かかってしまった。

時間をかけて案内してもらったので、大体の道はわかる。目当ての植物がありそうな場所にいくつか見当をつけていざ進む。


だが、数十歩歩いたところで、エリイシャは大幅に息切れした。


アイガンと歩いたときはこれほど疲れなかった。それは彼が手を添えて、危険な場所は抱えて歩いてくれたからだと気が付いた。夫の優しさに身もだえしたが、それ以上に彼の筋肉の硬さと熱を感じてその時のエリイシャは自分の興奮を抑えるのに精いっぱいで気が付くことができなかった。


アイガンは優しい。強面で恐れられているが、落ち着いていて怒ることもない。言葉数は確かに少ないが、慈愛に満ちている。いつもエリイシャを守ってもくれている。

子供を産むだけの妻と割りきってくれて構わないのだが、口にも態度にも出すことがない。


心に不満を溜め込むと、体に現れるとガデルが説明してくれた。

優しい夫は飾りの妻を邪険にできないからジレンマを抱え、筋肉の輝きを失わせていくのだ。


原因が自分であればなおさら、エリイシャのやる気は滾った。あの国宝級の素晴らしい筋肉は維持されなければならない。それは飾りだろうが傍にいる妻たる自分の務めだ。


気合を入れなおして、ポケットから取り出した紙を広げて植物を探す。

図鑑には水辺の近くの柔らかい土で、日が程よく当たる場所に生えていると書いてあった。

細長いギザギザの尖った葉が特徴で、朝日を浴びて白い小さな花を一つだけ咲かせるらしい。


とにかく川の近くや湧き水の周辺を探そうと、アイガンに案内されたことを思い出しながら、山道を進む。

心には愛しい夫の逞しい筋肉を思い浮かべながら。

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