閑話 夫の苦悩②(アイガン視点)
城で開かれた夜会の会場から姿を消した男を見やって隣に座っている国王に顔を向ければ、彼も気が付いていたようで小さく頷いた。
国王の退出の音楽が流れ、彼は大広間の真ん中を堂々と歩いて中央の扉から退出する。いつもは王族のいる席の横にある扉から退出するので、余興の一つと思われたようだ。そのまま、回廊へ出ると予想通りの光景が飛び込んできて、思わず唸り声のように言葉を発していた。
「そこで、何をしている」
茶色の髪の男はフーリガ伯爵だ。40手前で妻と子供もおり、大臣という地位についているが女癖がとにかく悪い。あちこちの未婚の令嬢に手を出しては、捨てるという悪行に、苦情が国王へと殺到した。
相手の女性は金色の髪を編んだ長身の女性だった。深い碧のドレスが金の髪に映えて大層美しい。表情は硬いが、サファイア・ブルーの瞳が目を惹く美女だった。
彼女が泣くさまは見たくないな、とふと胸に湧いた感情を込めて一歩二人に近づくとフーリガはびくりと肩を震わせた。
「フーリガ伯、そんなところで若い女性と何を?」
「き、貴卿こそ…なぜ、こんな時間にこんなところへ?」
アイガンは常に国王の傍についている。確かに、夜会の途中で、こんな回廊にいるのは不思議ではあるのだろう。だが、それはもともと計画されていたことだ。
「それは―――」
「余もおるからな」
後ろから声がかかったので、アイガンは一歩横へとずれる。自分の後ろにいた小柄な国王が二人にも見えたのだろう。フーリガ伯爵の顔は一瞬で蒼褪めた。
「へ、陛下?! なぜ、このような…」
「庭をご覧になりたいと仰せで、こちらを通って退出したのだ。わかったら、控えろ」
「申し訳ございません!」
叫ぶと、そのまま逃げるように会場へと戻ったフーリガ伯爵は、失態を犯したことを察しただろうか。
馬鹿な男を見送って、表情の変わらない女に顔を向ければ、静かな光を讃えたサファイア・ブルーの瞳とぶつかった。
「彼は若い女性とよく揉め事を起こしていて…その、大丈夫だったか?」
その瞳に悲しみや苦痛が浮かべばあの愚か者を切り刻んでやりたいと思いながら尋ねれば、彼女はすっと背筋を伸ばした。
「いえ、助けていただきありがとうございました。御前での無礼もお許しください」
「よい。むしろ、助けてやれと命じたのは余なのだ。あの男はあちこちでその手の騒動を起こしていてな。バナード伯はそのまま送ってやれ」
突然の国王の指名に戸惑う。予定では、このまま国王を寝所へ送ってフーリガ伯爵が悪さをしないか見張るはずだ。
「は…? しかし、私は…」
「少しは女性と話してこい。お前の父親も浮いた話の一つもない息子を心配して余にまで仕事を減らすように進言してくるほどだ。このままだと家が途切れる、とな」
「それはなんとも申し訳ありませんが、その…私は女性に怖がられるので…」
父親が30歳を過ぎても恋人どころか異性の名前すらでないアイガンの生活を嘆いているのは知っているが、まさか国王にまで告げていたとは思いもよらなかった。だが、こちらとしては近づくだけで泣き叫び卒倒する女という生き物をむやみに怯えさせたくはないだけなのだが。
「先ほどから見ているが、お前を恐れているようには見えない。怖い思いもしたことだし、きちんと安心させてあげろ」
それだけ告げると、国王はさっさと庭へ向かって歩き出した。アイガン以外の騎士やお付きが国王に続く。
回廊に二人で取り残されると、仕方なく彼女に声をかけた。ここで叫ばれても自分は潔白だと証明できる手立てがないのが悲しい。できるだけ穏やかな声になるように努める。
「申し訳ないが、入り口までお付き合いいただきたい」
「私は構いませんが、あの…お仕事のお邪魔ではありませんか?」
思いのほか理知的な声が返ってきて、目を瞠る。
国王が言い出したことを守らずに戻ればアイガンを謹慎させることは想像がついたので、彼女が平気であればこのまま命令に従いたいところだが、無理強いはしたくない。
「一度言い出したらきかない方なので…もちろん嫌なら、このまま見送らせていただくが」
「いえ、嫌では決してありません! では、ご迷惑でなければ、よろしくお願いいたします」
アイガンはほっとした。生まれて初めて母親以外の女性と会話らしい会話をしたことになる。物心ついた時から鋭い眼光と大きな体躯だったため、自分の周りにはあまり異性が近づいてこない。年頃になってからはますます遠ざかっていく。こんな近くに女性を感じることなどなかったので、驚くほど緊張してしまった。
だが、彼女は気にした様子も怯えたふうもなく語りかけてくる。
「そういえば、私はエリイシャ=ハーレと申します。改めまして、助けていただいてありがとうございました」
「ああ、いや私はとくには…ええと、私はアイガン=バナードです」
「存じ上げておりますわ、騎士団長さま。立派なお仕事ですもの、尊敬しております」
「は…あ、あの、ありがとう…」
25歳の若造が、剣の腕があるとはいっても騎士団長になるなどと相当に叩かれた。それは六年たった今でも変わらずに、親のコネだとか七光りだとか実力不足だとか言われたが、褒められたことは初めてだ。
彼女の瞳を覗き込めば、サファイア・ブルーの瞳はきらきらと輝いて夜空の星のように煌めいている。思わず見とれたアイガンの心臓は激しく高鳴った。
訓練をしてもこれほど大きく動悸したことはない。顔に熱が集まったように、熱い。なにかの病気の予兆だろうか。熱病にかかったかのような錯覚に陥った。
それからは彼女に聞かれるままに応えたが、正直何を話していたのか覚えていない。
城の入り口について、気づけばエリイシャが乗った馬車を見送っていた。
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恋をしているのだ、と自覚したのは突然だった。二月以上も彼女の青いきらきらとした瞳が頭から離れない。もっと会って話をしたいと懇願した。
夜会で彼女の姿を見つけると、国王の許しを経て会いに行った。国王は自分が女性に近づくことを推奨してくれたので、短い時間ならば彼女と話していても許された。
彼女はいつもまっすぐに自分を見つめる。視線をそらされることなど一度もない。恐ろしくはないのだろうかと不思議に思うが、輝く瞳は楽しそうに見える、気がする。
自分の願望がかなり含まれているのかもしれないが、これまで対面してきた淑女たちとは明らかに含まれる光の色が違う。明るくていつまでも愛でていたい優しい色合いだ。
彼女は親友の診療所に午後に手伝いに行くらしい。その前に街で簡単に食事を済ませることもある。オープンテラスの席に座ってサンドイッチを頬張る姿を見るためだけに用もないのに街へと出かけて偶然を装って会ったりもする。
もちろん腹心で、親友のヴィレが気づかない筈がない。
「お前、なんか浮かれてるよな。ちょくちょく巡回と称して抜け出してるし…さては恋だろ。朴念仁のお前に任せてたら、始まる前に終わっていそうだ。俺に任せておけ!」
などといって、しつこく相手を聞いてきた。だが、彼女の名前を告げた時の反応は異様だった。
「エリイシャ=ハーレ男爵令嬢?! あの鉄面皮の美女か?」
驚くヴィレに、思わず顔を顰めた。
「彼女は表情は変わらないが瞳はくるくると変わるぞ」
「いやいや、愛人候補ナンバーワンの最も結婚したくないご令嬢として有名な彼女だぞ、本気か? 表情は変わらないから浮気してもばれないとか、あの妖艶さがまたたまらないとか一部で熱狂的な信奉者のいる彼女を、お前が??」
「もちろん。俺はすっかり彼女に参っている」
自分に怯えることなくまっすぐに見つめて話してくれるところも、彼女のサファイア・ブルーの瞳が輝きを増したり深くなったりする様を真近くで見ているだけで心が満たされるところも、彼女の心地よい声を聴いて安心できるところも。
何より嫌悪や恐れられないところが、大変好ましい。
今もこうして思い出しては、胸に火が灯ったように温かくなるのだから。
しかしヴィレの話は腑に落ちない。それはアイガンが知っている彼女とはかけ離れているように思えた。
愛人候補だとか妖艶さだとかを彼女から感じたことはない。
純粋に子供が大好物を与えられたような興奮に輝く瞳が魅力的に映るだけだ。
「はあ、まさかお前が彼女を、ねぇ…まあそういうことなら、協力しようじゃないか。ところで彼女が、自分の従兄弟との結婚を望んでるって知っているか?」
思わずアイガンは机から転げ落ちそうになるほど動揺した。
彼女の従兄弟とは、時々夜会を一緒に参加しているのを見かけた。二人はそのまま離れてしまうので、ほとんど会話らしい会話をしているところを見たことがない。
そもそも、あの男は最低だ。
そんな相手を、彼女が想っていただなんて。
「あ、その様子だと知らんみたいだな。噂じゃあ結婚を打診しているが、当の従兄弟が外国に行っているから返事が遅れているようだぞ。お前もさっさと行動したほうがいい」
「だが、彼女が想っている相手は他にいるのなら、迷惑になるようなことをして彼女の幸せを壊したくはない」
「それが、この結婚は断られるとの噂だ。その従兄弟はもっと可愛らしい相手が好みだと聞いた奴がいるんだ。だから、傷心のタイミングで結婚の申し込みをすれば受けてもらえるだろう」
「それは卑劣ではないか?」
「恋に駆け引きは重要だ。それともお前は彼女が欲しくはないのか?」
欲しいか欲しくないかと聞かれれば、もちろん欲しい。それは決まっている。
だが、自分の傍で彼女は幸せになれるのかは別の話だ。
「了承するかどうかは彼女が決めることだろう。とりあえず打診だけはしとけよ」
「彼女の家格は男爵だ。俺から申し込んだら断れないだろう」
「断っても不敬にならないと念を押しておけばいい。噂にならないように内々で打診すればお前が振られたとしても家名に傷はつかない」
確かにヴィレの案であれば彼女に無理強いすることもない、かもしれない。
アイガンは低くうなりながら、虚空を睨みつける。
「そんなに不安なら、俺が彼女に話を聞いてやろう。とりあえず次の休みに行動だ」
頼もしい親友は彼女の行動を調べては、何気なさを装って話かけてくれた。そうして二ヶ月が過ぎた頃、迷惑にはならないと太鼓判を押してくれたのだ。
それでようやくアイガンは結婚の申し込みを彼女の家に送ったのだった。
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